教会

2015年3月 3日 (火)

福音という教会の土台

前回に引き続き教会開拓の為にかなり神様に自分自身が修正させられた価値観の一つ。

日々、神様はどんな教会をこの東京で日本で建てようとしているのかを考える中、いつもこの聖書の言葉が頭に響く。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

これはイエスがはっきりと示した教会の土台となる宣言だ。

そしてこの岩とは?

その定義はそのイエスの言葉の前にペテロが宣言した、

「あなたはキリスト、生ける神の子です」(16節)にある。

別の言い方をするとこうだ。
「イエスが俺たちの救世主であり、もう既に十字架で罪を解決してくれたという事実、そしてその死から復活し今も生きている神、そして常に信じる者たちと一緒にいて関係を持てる真の神」という事実の上に教会を建てるということだ。

もっと簡単に言うと、「福音(イエスの良い知らせ)」そのものが土台だ。

要は教会は、「俺たちが今これから将来(ビジョン)に向けて神様の為に成し遂げる事の上に建てられるのではなく、イエスが既に為に成し遂げた事(福音)の上に教会が建てられなければならないという事だ。

この違いはとてつもなく大きい。

もし教会が「俺たちの何かを成し遂げようする努力」に掛かっている場合すべての基準や価値観が聖書からずれてしまう。例えば前者の場合、すべて自分たちの成果や達成が基準なので自然と教会のメッセージも「この原則に従って自分で努力し成功しろ」や「“こうしてあれをやっていれさえすれば”神様に祝福される」になる。そして結果的にそれを「できる人」と「できない人」に区別される。

逆に後者は福音という既にイエスによって成し遂げられたことが基準の場合、すべて教会の基準はただ恵みによってなので、まずみんな平等に価値ある者とされる。そして強い人は自然に弱い人を助けることができ、「できる人」は「できない人」を見下すのではなくサポートしようとする。この違いは当時のイエスと宗教家たちとの違いでも同じように表れていることが分かると思う。

別の言い方をすると「宗教(自分の努力で神に近づく) vs 福音(恵みと愛により神が人になり救ってくれた)」だ。

下の例のように、新約聖書での例だけを挙げてもその違いはこうなる。

会社・組織(ルールと制御) vs キリストの体(オーガニズム・生命体)

機械的・システム的に起こされた成長
vs 神の「真実と愛」による自然で着実な成長

排他的(スタイルやビジョン・価値観が合わないと除外)
vs 包括的(皆自分も罪人だったという自覚があるので、まず受け入れ赦し合う、本当の意味で謙遜)

偽の一致(同じユニフォーム“ただ同じ考え”を着るだけの一致 Uniformity)
vs 本当の一致 (個々に違いがあるが、それでも福音により一致 Unity)

結果と能力主義 
vs 関係的

トップダウンリーダーシップ vs 仕えるリーダーシップ

「イエスマン」シップ vs チームワーク

できる人・できない人のランク分け vs 一人ひとりユニーク(創造性と多様性に富む)

ビジョンや自己啓発でやる気を起こさせるメッセージ vs イエスの福音の力を通して解決を与えるメッセージ

優越感を得るために裁き・罪に定めようとする vs 自分が恵みを受けているので赦し回復と癒しをもたらそうとする

違った意見を否定 vs 違った意見を重宝し成長の糧とする

特定の教会ライフとルールが中心 vs 福音を基準とした神様の国が人生が中心

マニュアル基準の弟子訓練(自分で考えられない) vs 実践と模範基準の弟子訓練(自立していける弟子)

束縛的(組織だけで通用する世界) vs 開放的(世界に出ていき活躍を支援)

情報操作と嘘 vs 批判されても自分の名誉さえ神様にゆだねる

恐れ・脅しでコントロール vs 福音から来る感謝と喜びで自発的な行動とサービス

躓いて失敗したら除外 vs 「あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」

もっと書こうと思えば永遠と比較はできるが、福音を中心としたイエスの教会のイメージと単なる宗教の違いは見えただろうか?
皆はどのような教会に関わっている?そしてどのような教会をこの日本で広めたい?

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

教会は牧師や組織のリーダーのものではなく、常にイエスのものであることを忘れないようしなくてはならない。

本当の福音に立ち返ろう。

ではまた。

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2014年7月21日 (月)

教会開拓トレーニング:CONTEXTULIZATION

お久しぶりです。
ここ1カ月間ずっと教会開拓者たちの為のトレーニングをしていました。

今回は学んだ内容の一部を少しシェアしたいと思います。
このトレーニングは香港、日本、シンガポールの各国で、アジアを中心とした開拓者達を15人ほど集め、福音を軸とし神学的にも実践的にも健康的な教会をどのように建てて行くかを学びました。

今までこのブログでも、「福音」を中心としたメッセージや聖書の読み方などに触れてきましたが、このトレーニングでは、牧師としての結婚生活、弟子訓練、伝道、祈り、賛美などすべての教会の分野で、福音を表し中心としていくのかをしっかり学ばされました。

一言で感想を言うと、教会開拓や牧会には「重大な責任が伴う」という事です。これらの働きをしっかりこなしていくには、牧師やリーダー達自身が、福音を心底理解し、福音にトコトン変えられていなければ不可能な事だと感じます。これらのことを牧師やリーダー達がしっかり理解していないが為に、今の現代にあまりにも未熟な教会、リーダー達のビジョンだけに振り回されている教会、またはコントロールが過ぎる教会、または逆に統制のない自由すぎる教会ができてしまっているように感じます。福音を軸をすることは、それらのすべてに置いてバランスをもたらしてくれるように感じました。

学んだことはあまりにも膨大な量なので、ここだけではシェアできないですが、ほんの少し書きたいと思います。

まず学びの中で多く時間を費やしたことは、CONTEXTUALIZATIONという内容でした。日本語で説明すると、福音をどうやって、教会が開拓される国や都市、そして文化に住む人々に分かりやすく、「躓き」を可能な限り減らして彼らに心に受け入れてもらうかの作業です。聖書でもこれは明確で、パウロや多くの使徒たちもしっかり様々な文化に合わせて福音を語ってきました。究極的に言うと、イエスの存在そのものがCONTEXTUALIZATIONです。「神が人となって、私たちの中に住み、そして生き、私たちを救った」。これ以上の説明はいらないと思います。

でも現実的には、多くの牧師やリーダー達が今まで「当たり前」と思っている「キリスト教 Christianity」をそのまま新しい環境や国に持ってこようとして来ました。日本では歴史的にもそうですが、アメリカの教会のあり方をそのまま持ってきたように捉えられています。結果、一般的に日本人は、「キリスト教=西洋の宗教」としか見ていません。それから何度も、世界の教会の「流行」に沿って、韓国の教会のやり方、アメリカの大きな成功した教会のやり方、またオーストラリアのやり方、シンガポールのやり方、中国の小グループのやり方など、様々な「やり方」を持ってこようとしました。でも正直、実際に日本の文化に合わせ、日本人により、日本人の心に本当の意味で届いたかというと必ずしもそうではなかったと感じています。それらのことを学んだリーダー達も、学んだことをうまく理解し、日本に合う形で変化させてきたかというとそうではありません。もちろんそれらの海外からの影響はすばらしく、多くの事を学ばされました。しかし、それらをしっかり「TRANSLATE(翻訳)」してCONTEXTULIZEしてこなかったように感じます。

シンガポールや香港で、マクドナルドに何度か行きました。そこで面白いと思ったには、その国に合ったメニューがあることです。日本のマックでも日本独特のバーガーがあります。シンガポールでは、チキンライス定食がありました。同じマックのブランドであり、同じ方針のもとにやっていますが、文化や人種に適応したやり方を取っています。だからマックは、「不健康な食べ物」にも関わらず成功しています。

今回一緒に勉強した開拓者達の中には何人かのインド人の方がいました。彼らと教会の礼拝の場所やスタイルについて話していました。その時、「OO+の教会ではライブハウスを使って礼拝をすることになった」と伝えたら、彼らはそのような場所やスタイルではインド人達の反応はかなり違ってくると教えてくれました。なぜかと言うと、インド人は元から宗教的な国民なので、教会や神殿、モスクに行くときは、「神聖な場所に行く」という態度で行くので、ライブハウスのような環境に連れて行き、礼拝を紹介してしまったら、むしろクリスチャンでなくとも、「神を冒涜しているのか」という批判も受ける可能性が高いと言われました。日本や海外では、若者に受け入れられ新鮮な戦略が、逆効果なのです。これもまた文化の違いであり、全く違うアプローチです。ジャカルタという都市では、あまりにも渋滞があるので、なかなかうまく時間に合わせて、礼拝を始めたり、イベントを開くことが困難なようです。それぞれの文化でチャンレジや課題があります。シンガポールでは、毎月教会のメッセージ内容を警察に伝え、許可を得なければ礼拝をできません(中には違法的にやっている多くの教会もありますが)。それぞれの文化によって、かなり「やり方」が違います。これを見ると、ある特定の都市で成功している教会のフランチャイズを、東京にそのまま持ってきても適用できないのは明確です。ある程度成功しても限界既にが見えるし、また時代ともに低下していってしまうことがほとんどです。特に東京は変化が激しいからです。

これらの事は、ビジネスの世界では当たり前の様に考慮し、そして戦略を練られています。聖書でも先ほど言ったように、パウロも当たり前の様に適応させています。でもなぜか多くの現代のクリスチャンはそれをしようとしません。問題は結局、自分の育った「クリスチャンの世界感」から抜け出せない所があります、そしてその世界観が当たり前すぎて、それがキリスト教の世界のすべてであり、自分のその世界観自体が「ある特定の文化」となってしまっていることに気づいていないことが問題です。

例えば、私自身がクリスチャンとして成長してきた環境は、イギリスでのペンテコステ派、カリスマ派など、またはヒルソングなどの環境を中心に過ごしてきました。彼らの考え方や宗派の独特の言葉や、神学をも吸収してそれがすべて正しいとずっと思い成長してきました。
でも今回、長老派の中心のクリスチャンの人々と過ごし、学ぶ上で気づかされた事や、自分が正しいと思っていたことに間違いがあることなど気づきました。もちろんすべてではないですが、彼らがなぜ違う考え方をするのかなど考えるチャンスとなりました。また彼らも逆に、私のようなバックグラウンドを持ったクリスチャンから学んだことがあるようです。

じゃ、どのような文化が中立的であり、また健康的なのでしょうか?それは「福音」という神様の文化そのものです。福音はどんな文化でも、同時に「批判」し、そして「賞賛」します。
ある文化に対して悪いところは、悪いと言えます。同時に、その文化に良いところがあれば、良いと言います。例えば日本では、「恥と尊敬」の文化です。日本人は、「恥」避けるため、悪いことだと思っていても極端に周りと同調しようとします。人の目を気にして、真実を語ることに躊躇します。「福音」はこれに対して、「イエスの恵みにより恥は取り去られたのだから、自信を持って真実を言いなさい」という事が出来ます。逆に、日本は尊敬し人々に仕えようとする文化があります。これに対しては、「イエスは人々に仕え、彼らを救うために来たのだから同じように、引き続き仕えましょう」と日本人の良いところを励ますことも出来ます。

福音を中心とした教会は、これらのことをうまく両立し、ある特定の「海外のスタイル」を押し付けるのではなく、それぞれの都市やコミュニティーに合った教会を築きあげることができます。ようは、東京と大阪の教会が全く違ったスタイルやアプローチで良いという事です。むしろ、全く同じとなってしまっている方が「不自然」ということです。そこにいる人々や文化が違うからです。

これらの見方や視点は、「自分の持っている文化」によって大きく左右されてしまいます。もしあるクリスチャンが世の中や自分の街を単なる「敵」としてしか見ていないのなら、その人が開拓する教会は、完全に世の中から孤立します。逆に世の中の可能性を見て、「神様もその町を愛し救おうとしている」と考えられるクリスチャンは、その思いに沿った教会を建てて行くと思います。旧約聖書では、バビロニアの支配下にいたイスラエル人たちに対して神様はこう言いました、「その町の為に祈り、影響を与えて行け」と。敵対するようには言いませんでした。現代の私たちも、同じような立場にあります、クリスチャンでない国の中に住んで生きています。見て分かるように、自分の持っている神学によって自分の周りに対する環境が変わってしまうことが分かると思います。皆さんはどんな考えですが?鍵は、自分の強すぎる「文化」を見直すことです。魚は水の中にいることは分かりません。水が当たり前だからです。自分の文化も時に、私たちを盲目としてしまいます。そしてそれによって極端な神学的な判断にしてしまいます。でも福音がそこから抜け出させてくれると思います。

今までされてこなかった日本人に心底理解できる、「福音」の伝え方ができれば良いと本当に思い、そしてその為に努力していかなければならないと思います。

今回のCONTEXTULIZATIONの内容は、本当にほんの一部です。教会やメッセージ、またブログで機会があればもっとシェアしていければと思います。

ではまた!


 

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2014年3月29日 (土)

教会の正しいあり方

先週香港のカンファレンスから帰ってきた。

学んだことはかなりあるが、今回はその一部をシェアしたいと思う。

ティム・ケラー牧師のメッセージの中で、バランスの取れた教会の在り方を話していた。

今の時代の多くの教会が、大きく分けて二つの面で極端になってしまっているという現実がある。

この世の中では大概、組織やグループと言う存在は2つの形に分けられるという。

まずはMOVEMENTという形。

英語で申し訳ないが、この単語は日本語に的確に訳すのは難しい。
要は「人々が共に起こす変化や革命」と言えるだろう。
このMOVEMENTの特徴は、その名の通り「変化や動き」だ。常に動き、成長し、新しいことに向かい進んで行くグループ。アイデアも特定の人や、リーダーによるものではなく、組織やグループの人々が積極的に提案し、意見や考えを分かち合い、皆が一緒になって貢献する。ダイナミックに、そして勢いよく拡大していく。その反面、行き過ぎるとコントロールが利かなくなり、統制も取れずに、消滅する可能性もある。歴史的にも、様々な政治的運動、革命、そしてリバイバルという形で起こってきたが、その中の多くが短期的であったり、気づいたらそのグループや組織がなくなっている場合もある。

その対照的となる形が、INSTITUTIONという組織の形だ。この特徴は、規律、ルール、決まりが明確にあり、固く統制され、コントロールされる存在だ。TOP DOWNと言うリーダーシップの形で組織され、MOVEMENTとは逆に、変化も遅い。新しいことをするには時間が掛かり、決断も遅いかもしれない。早く決断ができても、皆の意見ではなく、特定のリーダーの指示と意見だけに掛かってしまう場合がある。また特定のリーダーだけのアイデアに頼るので、MOVEMENTに比べると想像力がなく、一定のパターンの繰り返しになりやすい。伝統的な組織や教会は、このケースが多いだろう。こちらは行き過ぎると、カルト化し、特定の人々を除外し、コントロールするような組織になりかねない。

教会は実は、多くの場合、このどちらかに偏ってしまうことが多い。MOVEMENTで始まっても、規律やルールが出来上がるとINSTITUTIONになり、階級制度が強いリーダーシップになる場合もある。また一度極端にINSTITUTIONなってしまった組織を変えることはすごく難しい。

ここで疑問。教会はどっちであるべき?
それは両方だという。
MOVEMENTのダイナミックさと柔軟さ、そしてINSTITUTIONの持つ土台と健康的な基準を持つのが教会だという。

使途行伝の最初の方の章(1~3)でそのことが良くわかる。

使途行伝の二章では、神様なダイナミックな働き、そしてペテロの福音のメッセージで多くの人々が心を打たれ、クリスチャンになる決心をする。そこで一気に3000人ほど集まる。そのレベルに行き着くまでも、イエスによって弟子たちが整えられ、下準備もしっかりとあった。でもここで、イエスが起こしたMOVEMENTに神様が更に拡大を起こす。そして歴史上最初の初代教会がエルサレムに生まれる。その教会は12人の弟子たちを中心にリーダーシップと統制が取られ、またステパノやバルバナなど他のリーダーたちも任命される。まさしくINSTITUTIONとしても確立されていった。その教会はダイナミックさと変化を起こしながら、着々と成長していった。しかしここである問題が起こる。教会が「出来上がって」しまったのだ。

思い出して欲しい。弟子たちにイエスが与えたミッションを。
「エルサレムから世界中に出て行き、弟子を作り、洗礼を授け、私の教えたことを教えなさい。」、そう。ミッションに出て行かなければいかなければならなかったのだ。
しかし、教会はエルサレムに落ち着いてしまいかけていた。
ようは、単なるINSTITUTIONとなってしまいかけていた。
教会は大きくなり、リーダーシップと「教会のビジョン」ができ、それを「守る側」に集中し始めた。

そこで神様は、あることを用いる。それはステパノの死とクリスチャンの迫害だった。
エルサレムの教会の人々は、押し出されるように地方へ、そしてそこらじゅうに散らばって行った。12弟子たちはエルサレムに留まったが、かなりの混乱で崩壊が起き、グループが消滅してしまうかのように思えた。だが、結果はその逆だった。クリスチャンたちが出て行った先々で、彼らは新しい教会を立て始めた。サマリア、ユダヤそして地の果てまで行くような勢いだった。今まで「単なるメンバー」だったクリスチャンたちが、事を起こすリーダーとして必然的に機能していったのだ。これは落ち着こうとしてしまったエルサレムの教会にMOVEMENTを起こす神様の計画だった。

そして面白いことに、それぞれの地域で開拓された教会のリーダーたちは、エルサレムに定期的に戻り12弟子たちの助言やアドバイス、そして自分たちの教会の健康度チェックをするようになる。これは、教会がMOVEMENTであると同時に、INSTITUTIONの側面をちゃんと持ち合わせている証拠だ。彼らは自分たちの、信仰や語っている福音のメッセージ、そして神学がしっかりしているか、イエスに直接任命された12弟子たちとしっかりチェックしていた。開拓は必然的にMOVEMENTを通して起こったが、ちゃんとINSTITUTIONの良い側面である、健康さを守るための境界線はしっかり持っていたのだ。

もちろん教会は完璧ではなかったが、ちゃんと両方の側面を取り戻していった。
教会開拓のビジョンや宣教ミッションは特定のリーダーたちのものではなかった。このMOVEMENTも12弟子たちが考えたアイデアでなく、むしろ神様自身が大胆に起こしたものだった。むしろINSTITUTIONという教会の中で埋もれかけていた人材を、神様が必然的に押し出したとも俺は思う。これは今までの教会の歴史を見ても同じだ。常に教会や宗派が、行き詰ったときに、改革が起こり、そしてリバイバルが起こされてきた。それは常に痛みや、混乱を伴うことが多くあり、必ずしも平安的な形ではなかった。

俺たち人間の性質は、常にアンバランスだからだ。気を付けないと常に「勝手な自由」というMOVEMENTの極端さ、または「行き過ぎた支配」というINSTITUTIONの極端さのどっちかに傾いてしまう。

教会は特定のリーダーのものではなく、神様が頭であり、そしてイエスのアイデアであるが故に、完全にリーダーたちのコントロールになってしまうことはかなり危険な事だ。また逆に、リーダーたちが何もしなく、責任を果たさずにいるとしっかりとしたコミュニティもできず、影響力もない存在になってしまう。だからこそ初代教会では、ある特定のリーダーだけではなく、12人と言うイエスの愛と恵みに完全にどっぷり浸かっていたリーダー達、そしてお互いにしっかり意見を言い合えるようなコアがあった。

教会の牧師やリーダーたちはこのバランスをしっかりと持たなくてはならない。人々を責任を持って成長させ、そして彼らが神様によって動かされ旅立っていくときには束縛せず、神様の大きな視点から祝福し送り出す。神様が自分の教会の人々を動かすときは、彼らを束縛してもいけない。それがいくら「自分に与えられたビジョン」とどんなに一致しなくても、祝福して送り出すべきだと、ティム牧師は言っていた。それと同時に、助けを求める人々は受け入れ、しっかりと回復させ立たせてあげるべきだと。自分の教会だけが「神の国」なのではなく、「神の国」の一部として教会があるのだから。自分の教会が唯一だという考えは驕りだ。

俺が驚いたのは、長老派であるティム牧師の教会が、バプティスト派やペンテコステ派の教会開拓を全力で一緒に開拓している現実だ。もちろんティム牧師はこれをすることにより、同じ宗派の人間から批判されることもある。でもティム牧師は言っていた、「神様の国でしょ?」と。どんな教会だろうと、しっかり「福音」を語り、「福音」を中心に導き、成長する教会ならサポートするのは当たり前だと言う。

もちろん「みんな全員仲良く」は非現実的だ。すべての教会・団体と共同でやっていくことは難しい。でもこの態度は、クリスチャンリーダーたちが本来持つべき態度だと思った。自分の教会の「ブランド」などを促進させるのではなく、「神様の国」自体を促進させなければならない。教会は、チェーン店やフランチャイズではないのだから。

ティムの牧師は、「自分の教会を建て上げることだけに100%費やすことはするな」ともアドバイスしていた。同じような考えの牧師とだけ会うのではなく、他の考え方を持っている牧師や教会と交わるを持つことで、直接目に見える形では自分の教会の益にはならないが、からなずその祝福と思いがけないキッカケが巡ってくると言っていた。これも牧師が健康的な神様からの自信を持っていないとできないことだと思う。

有名な教会や影響力ある教会が近くに開拓される極度に心配したり、批判したりする牧師やリーダーたちを何人も見てきたが、いつも俺には理解できなかった。むしろ喜ぶべきだといつも思っていた。特にこのクリスチャンが少ない日本で、新しい教会ができることは良いことだろうと思うはずだ。これは教会の牧師だけの問題ではない。あるMOVEMENTが起きると、それとは違ったMOVEMENTが彼らを批判することがよくある。「あのクリスチャンたちは、俺たちの様に伝道しない。」、「あの人たちは社会の福祉に貢献しない。」、「あの人たちは、俺たちの様に常に祈っていない。」、「あの人たちは俺たちの様に聖書を深く教えない」。

なぜ批判し、自分たちだけが正しいと主張するかが分からない。お互いが学べることを考えないのかと思う。伝道し、祈り、聖書と神学的に健康で、社会のニーズを満たし、社会的に弱い人々、そして蔑まれる人々を助ける存在が教会だろう?

このようなバランスは俺たちクリスチャンの原点である、「福音」に常に立ち戻らないとできないと感じる。福音から少しでも離れると、「自分たちの努力」に走ってしまうからだ。どれほど自分たちが祈るか、伝道しているか、奉仕しているか、聖書の知識を得ているか、それらのものが福音という「恵み」の代わりに、自分たちを「正しい」とする基準になってしまう。そうなると「自分が成功としていること」を誇り、他より優れていると思い始め、他を見下し始める。そして自分たちに同意しない者は悪者や愚者とし、除外する。これでは単なる宗教と何も変わらなくなってしまう。

もう一度、日本の教会は「福音」に戻らないといけない。
教会の1リーダーとして、福音をしっかりどんな時でも語り伝えなくてはと思わされたカンファレンスだった。リーダーたちは人一倍、この分野で責任を問われるからね。
そして個人的にも絶対に福音から来る恵み以外に、自分のアイデンティティーと自信を置いてはいけないとまた一度思わされた。

もっと日本に福音を伝えて行こう!

ではまた。

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2013年7月16日 (火)

コミュニティー

以前にも教会のビジョンについて触れましたが、OO+教会の中核となるビジョンとして「コミュニティー」があります。今日はその事についてもっと詳しく、私たちの思いをシェアしたいと思います。

まずなぜ「コミュニティー」なのか?
それを簡単に言うと、人間は常に「コミュニティー」というものを通して社会や組織、様々なグループを通じてこの世界を形成してきたからです。そしてその様々なコミュニティーも色々な価値観や生き方を中心に形成されてきました。

歴史的にもヨーロッパやアメリカなど海外の多くの「コミュニティー」は、ほとんど場合「教会」などの存在を中心に常に形成されてきました。他の国々の場合もモスクや他の宗教の神殿などでした。でも実は日本では、神社やお寺ではなく「世間」という形で、商店街や近所付き合いを通して10年ほど前まではコミュニティーを築いてきました。そこでビジネスが発展し、近所の関係ができ、親が結婚相手を紹介し合い、社会ができてきました。しかし、最近では急激な社会の変化があり、商店街の代わりに大きなショッピングセンターができ、企業も巨大化し、今までの「世間」がなくなってきているのが現状です。その結果、結婚相手ですら「世間」を通して知り合うものではなく、「結婚相手探しサービス」というようなビジネスを通して知り合う形にもなりつつあります。もう大学や会社だけでは「出会い」が少なくなっているからです。前にもある「コミュニティーデザイナー」に関するブログを書いたので興味ある方はバックナンバーを見てみてください。

日本では「世間」が無くなると共に、人々は別のコミュニティーを何とか形成したり、新たな探そうとしています。ようは人間との繋がりの場所を求めているのです。別にこの変化は悪いことではないです。でもコミュニティーが見つからないと、人々はドンドン孤独になっていきます。ここ数年ではシャアハウスが人気だったり、友達レンタルサービスなどというものも提供されていることや、団体・組織の問題、イジメや学校問題も多くなりコミュニティーという存在が危機的になっている傾向もかなり見えます。ある意味このままでは悪化するばかりだとも感じています。もちろん「コミュニティー」を形成することだけが解決法ではありませんが、問題の一側面ではあります。

「教会」という概念は、元々「コミュニティー」そのものです。語源であるギリシャ語の「エクレジア」は「集まり」という意味であり、イエスキリストへの信仰、聖書という人生の土台となる正しい価値観を中心として人々が集まる共同体でした。またキリストの体という形で機能し、様々なタイプや能力・役割を持った人々が共に機能する共同体だとも聖書は言っています。そしてその存在と影響力は、イエスの弟子たちによって、広まり今の世界中のクリスチャンのコミュニティーとして教会が多くあります。もちろん人間の集まりですので、中には正しい基準から外れて「危ない宗教」になってしまったコミュニティーもあり、過激な束縛や間違った価値を悪利用して来てしまった歴史はあります。でも本来の正しい形で「教会」が機能するとき、本当の正しい健全な「コミュニティー」が形成されると私は信じています。

日本ではあまり「メガチャーチ(1000人以上の教会)」という存在は少ないですが、アメリカやヨーロッパではここ10年から20年と多くの教会がメガチャーチを目指そうという動きが盛んでした。教会のメンバーが増え、多くの人々が集まることは大切なことですが、最近ではそのメガチャーチの動きに関わる多くの牧師さんたちがある大切な事を置いてきてしまったと気づいています。それはコミュニティーという地域の人々との繋がりです。

海外の多くの教会では、ライブコンサート的なスタイルなど次世代に合わせるスタイル、ビジネス的な教会運営システム、プログラムやイベントを沢山導入すれば、世の中から認められ人々も集まるとただ考え、特定のやり方を中心に「教会」というコミュニティーを築こうと頑張ってきました。それらは決して悪いことではありませんが、それだけに頼りフォーカスするあまり、町やその地域にある教会という存在にも関わらず、周りの地域から逆に孤立してしまったケースが多くあります。結果的にはただその教会のスタイルやヤリ方に合わないということで人々を押しのけていくことも多くなり、その地域のコミュニティーに繋がるのではなく、ある特定の人々しか合わない孤立したコミュニティーになってしまっている現実もあります。多くのそれらの教会の牧師たちやリーダーたちも、その教会を維持する多くのイベントやプログラムをマネジメントするだけになり、疲れ果ててしまい、本当の意味で人々と繋がる為に、何かを変えなくてはいけないと思っているのも現実です。そしてここ数年で多くの大きな教会も周りのコミュニティーや社会の需要を再重要視して教会の体制を変え、貢献する動きがあります。

そして中にはうまく教会の構成やフォーカスを改善し機能させている教会もありますが、それらの教会はまだあまり多くありません。実際には、「世の中に認められる」のではなく、逆に毛嫌いされ、お金の使い方やビジネス的すぎることで疑われる場合のケースが多くなってしまっています。もちろん世の中のすべての人々に好かれることが教会の目的では無いです。また多くの影響力のある個人や組織は、必ず敵や批判する人々がいるのは当たり前です。

でも「教会」という存在が、「愛と慈愛が無い」ことや「人間関係」に関して悪い評判を受け、また何でもかんでも「合わない」から「ビジョン」が一致しないからとの理由で、コミュニケーションをちゃんと取らずに一方的になる存在ではないと思います。なぜなら教会が世の中から認められるべき唯一の分野は「人間関係」であり、イエスが言ったように、「お互いに愛し合うことにより、あなた方が私の弟子だと世界が分かる(ヨハネ13:35)」からです。別に何の問題もないすべてがうまくいく理想郷をこの世界で求めているのではありません。でも人間関係の摩擦やテンション、問題が起ころうとも、できるだけちゃんとコミュニケーションを取り、一方的に決めつけるのではなく、また「恐れ」中心ではないやり方を取るべきだと思っています。歴史的にも、ある当時の教会は今は当たり前の「病院」というシステムを地域に導入させたりと、人々のためにそして地域に貢献する、まさしく「光」となる存在でした。

もちろん私たちの教会でも、若者に通じる礼拝のスタイルは常に取り入れて行きたいと思います。そして次世代のための教会でもあります。でのそのスタイルなどは教会の一側面にすぎません。そしてそれらは常に変化していきます。どんなことでも10年前に流行っていたスタイルが今はダサくなります。教会のサイズによって構成やあるルール(ストラクチャー)も変わります。特に東京という都市は変化の連続で成り立っています。どこの国より変化が求められます。でもその変化の中で決して失くしてはならないのは、正しい人間関係であり地域の為に存在するコミュニティーです。だからこそ教会のビジョンと価値観の一環としてコミュニティーがあります。

そして吉祥寺から教会を始めた理由もそこにあります。中央線の新宿から吉祥寺駅間や三鷹駅、または立川駅は、様々なコミュニティーやサブカルチャーがあることで有名です。カフェ、レストラン、またライブハウス、そして大学など、人々が住む地域も多くあります。逆に都心では、人々は多く行き交いしますが、コミュニティーという存在は薄くなります。東京の原宿や渋谷に住む人々はほとんどの場合、高い賃金を払えるお金持ち、独身の人々、または外国人の人々です。そして彼らはそこに長くいるのではなく、仕事が変われば移動し、結婚すれば都心の外に引っ越し、外国人は数年で国へ帰ります。その地域に教会を置く場合、一時的な訪問者は多くなるかもしれませんが、人々がその地域へ根付き繋がった「コミュニティー」へと築くには難しいと私たちは感じます。

意見は分かれるかもしれませんが、私自身「教会」はコミュニティーとなり、そして近所のコミュニティーという地域に繋がってこそ、「地域教会(ローカルチャーチ)」となると思っています。今、多くの日本の教会の数がどんどん減少しつつある中、教会がこのことを変えない限り状況は変わらないと思います。その町にある「光」として、地域に正しい影響を与えられるような存在にならなければいけないと感じています。この吉祥寺近辺というコミュニティーから良い影響を様々な社会の分野で与えていけるような教会を築いていくのが私たちの思いです。また将来、同じ形で地域に繋がることができる町で開拓を広げられれば良いと思います。

もちろん1000以上集まる礼拝なども持てるようになりたいです。それだけ多くの人々がイエスを知り救われて欲しいからです。でも日曜日の礼拝だけでただ人を集めるだけの「群衆」となるのではなく、大きな素晴らしいコミュニティーとしたいです。そしてそのような教会を守り、築いて行きたいです。

そしてこれは新しいことではなく、実は使途行伝で描かれている、初代教会の姿でもあると信じています。本来の教会の形にしたい。それだけです。

もし同じ思いがあり、そして吉祥寺近くに住んでいる人々で教会を探している人がいれば是非、私たちのビジョンに加わってみてください。また近くでなくとも、そのようなコミュニティーに根付きたいと思っている人々も大歓迎です。一緒に「教会」を築いていける仲間としてこれから会えることが楽しみです。まだまだ始まったばかりで、このビジョンを中心にこれから色々な案や、戦略を考えて行かなくてはなりませんが、応援していてくれれば助かります!

ではまた次回に!

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2013年6月16日 (日)

OO+ Church (Double O Cross Church)

皆さん。超エキサイティングなお知らせです。
私たちの教会が新しくスタートします。
名前はOO+ Church ダブルオークロスチャーチ

名前の意味は色々ありますが、基本的には三つ。

-無限大(∞)の可能性(+=十字架、またはプラス)
-イエス・キリスト(+)にあるコミュニティー(O輪)
-神が闇から世界を作り始めたように、何もないところ(O)から何かを造り出す(+)

これら以外にも色々思いが込められていますが、簡単に説明するとこんな感じです。
名前的にも、「言葉」を使ってでの名前ではないので、今までになかった斬新な日本人的な要素を取り入れたく、会えてOO+を選びました。

まだまだ小さい教会ですが、これから吉祥寺の町を始めドンドンコミュニティーを広げていきたいと思います。

一応私たちの教会は、スイスペンテコステ団体の支援とバックアップを受けていますが、友人にも沢山の日本や外国の牧師がいるので、多くのネットワークを用いて日本の為に奉仕していきたいと思います。

教会のビジョンと思いは三つの事を中心としています。

まず、「コミュニティー」。
もちろん教会をサイズ的に大きくしていきたいですが、それ以上に人間との輪と和のコミュニティーを重視しています。ただ人々を集め、訪問者を多く「群衆」を集めるのでは、コミュニティーを築くことに価値を見ています。なので、吉祥寺といった、ローカルな町かつクールでおしゃれな町からスタートしたいと思いました。

次に「使命」。
教会にはやり遂げるべき使命、ミッションがあります。マタイの28:18~でイエスはハッキリこの地上でするべきことをリーダーたちに伝えました。人々を救い、洗礼を授け、弟子訓練すること。ただの仲良しクラブを作るために、イエスは弟子たちを地球に残したわけではありません。なので、教会とし使命を果たすことはかなり重要な要素です。
でもこの使命を教会として全うするには、教会の一人ひとりが自分の「使命」を教会と社会を通して生きなければ絶対できません。だからメンバー全員一緒に成し遂げることを大切にします。

そして、サムライ魂。
「侍」という言葉は本来、「主君や王に仕える者」という意味でした。単なるチャンバラ的なイメージじゃないです。だから「仕える」を日本人の心に呼び起こしたいと思います。でもただヘラヘラして上司に仕えることじゃないです。逆に自信と尊厳を持って、トコトン神(王であり、主君)に仕える態度です。そして、人々と社会の需要に仕えること。それを通して社会、そして国、世界を変えていけると信じています。
だって、イエスは「仕える」=リーダーシップと断言したからね。

このことを中心に、色々価値観がありますが、教会のサイトに載っているので見てみてください。

これから教会として行動していきます。
またこれから多くの新しい仲間や友、そして色々な人々に出会えることが楽しみです。
今の世代の牧師として、日本人を中心としたインターナショナルな教会を築いていきたいと思います。そして日本人の心と文化にイエスの愛と生き方を浸透させていきたいと思います。
特に日本人男性が「男気」をもっと取り戻せるように!

そしてもし、ある理由で教会に行っていないクリスチャンの人々がこのブログを読んでいて、このようなビジョンや価値がある教会に来てみたい、仕えてみたい言う方がいたらメッセージください。クリスチャンとして教会に根付くことは大切です、クリスチャンとして地域教会なしで生きるということは、木や植物が土に根を下ろせないことと同じです。
(詩編92:13)

教会教会開拓は初めが一番大切です。そしてここから正しい文化を作り上げていくからです。なのである意味、再スタートができる場所でもあります。俺が正直思うのは、多くの日本人のクリスチャンで、昔教会で傷つき、または幻滅し、ただどうして良いか分からない人々が沢山いると考えています。何か成し遂げたい。でも自分の居場所を失っている状態。周りに批判されたて、ただ非難されて悔しいと思ってきた人々。そういう人々にまた再スタートしてほしいと思う。このブログのコメント設定は管理人が承認しなければ公開されないので、気楽に疑問・質問投げかけてください。文句や批判は速攻消去しますが(笑)。

では、祈っていて頂ければ嬉しいです。

また教会の情報を載せていきます。

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2013年5月 8日 (水)

突破口

宗教の自由がある国々の中で、日本は一番クリスチャン人口率が低いことで有名だ。

だが、日本に“そのチャンス”が全くなかったわけではない。
歴史的にも、クリスチャンが多かった時代もあり、海外からの宣教師が日本には多くやってきた。日本を変えようと、海外でも多くの人々が祈り、人生を捧げ宣教してきた。

日本人という人種も他の国と比べれば、モラル的にもしっかりしている面もあるし、犯罪率も少ない。極度な差別や、階級的な格差による理不尽な貧困もない。

だがなぜか日本にはクリスチャンが少なく、多くの教会も小さいままだ。
近年はクリスチャン若者の数も極端に少ない。

聞いた話では、年間10000人もの若者が海外でクリスチャンになって帰って来るが、80%が信仰を諦めてしまうか、教会に根付けずに“さまようクリスチャン”になってしまうと言うことだ。

日本人として、牧師として、なぜなのか考え、どうにかしたいと思いを巡らす。

ここからの意見は、かなり個人的な見方であり、下手をすると誰かの怒りを買うかもしれないので、ただの一つの意見として読んでほしい。

まずなぜここまで多くの宣教師たちが日本の為に尽くしてきたのに、この現状なのかを考えた。

これも本やネットで得た知識だが、50年ほど前、日本のキリスト教界ではある意味リバイバル的な事が起こっていた。
その当時、多くの宣教師の人たちが日本に到着し、その当時の多くの日本人たちがクリスチャンになっていった。その若者たちは宣教師たちの励ましや弟子訓練もあり、建てられた教会を引き継ぎ、ある若者たちは教会を開拓していった。中には急成長する教会も幾つかあり、その当時のクリスチャンの人々にとっては日本のキリスト教の未来は明るく見えた。宣教師の中には日本に住むことを決意し、彼らの次世代の子供たちも牧師になり、教会を立ち上げる先生方も多くいた。だが結局教会は一定サイズにとどまり、勢いが止まってしまった。

その理由の一つは、宣教師の人々が「福音」を西洋の文化と一緒にそのまま持ってきてしまったことだと良く言われている。英語ではWesternized Christianity というパッケージで福音を持ってきたということだ。

この当時の日本はそこまで「教会」のスタイルや伝統は確立されていなかった為、新しい形としてすんなり定着した。そしてその当時の特にアメリカの教会のスタイルをそのまま受け入れ、教会も成長していった。もちろんそれは決して悪いことではなく、素晴らしいことだ。
でも問題はそのあとにあったと個人的には感じる。

それはその多くの教会が日本の文化の変化と共に、日本人が日本に通用する教会に変えてこなかったことだと感じる。というか、当たり前のように西洋の教会スタイルややり方をただ受取り適用した後、何をどうすして、変えていくことやその必要性すら考えなかったのかもしれない。それがスタイルや形という、それ自体が福音そのものだと思っていたからかもしれない。

結果、今の日本の多くの教会は西洋の「昔」のスタイルを忠実に引き継いでいるが、良い意味で日本人的な教会に進化は遂げていないように思える。むしろ、現代のアメリカやヨーロッパの教会から比べても、「時代遅れ」になってしまっている。海外では当たり前のワーシップスタイルや戦略が、未だに否定され、その賛美スタイルも、CCM(contemporary Chirstian Musicの略) などと勝手にネーミングされ、「もう全然コンテンポラリーじゃないんですけど」と言いたいぐらい、なんて古い考え方なんだろうと思わせる態度だ。

だからと言って、現代のアメリカやヨーロッパのやり方をまたそのままコピーすればいいと言っているわけではない。それをしてしまったら、この先50年同じことの繰り返しになり、今「現代的」とされるスタイルがそのうち古くなるのがオチだ。

俺自身も、その日本では現代的とされる教会で海外でも日本でも仕えてきた。
その中で、そのモダンな教会の伝道の仕方や戦略に関わらせてもらった。
そしてそれらはある意味機能していて、今までより実際多くの若者も救われている。
でも最近思うのは、結局海外からの宣教師の人々の助けがあるがゆえに機能していることだ。だが、もちろん日本の変化への起爆剤、スターターとして用いられている。

でもこのままでは、まだ日本は変えていけないようにも感じる。

現実的には、多くの日本の教会は、海外の宣教師の人々と言う「人材」または「リソース」は持っていない。また海外の教会の支援やバックアップもすべての日本の教会が持てるわけではない。いきなり英語を使う礼拝をやりなさいと言っても、できない教会もあるし、田舎でそれをやっても意味がない。

先ほども言ったが、今一番現代的やモダンとされるスタイルをただそのまま取り入れても、50年前と同じ繰り返しになりかねない。もちろん教会のある程度の成長は望めるかもしれない。でも正直、劇的に日本を変える要素でないような気がする。

結局、日本人のクリスチャンが立ち上がり、ただ「コピー」することを止め、俺たちが責任を持って聖書の教えを理解し基本としつつ、日本独自のクリエイティブ性と日本人が影響を与えることができる戦略を考えていかなければならないんじゃないかと思う。

世の中では、「日本人は海外のアイデアを取り入れて、更にもっと良いものにして、オリジナルを超えるものを作る」とよく言われる。

現に今の日本の若者は、ファッションや独自のビジネスの世界においても世界の先駆けとなり始めてる。

ある意味俺は日本のクリスチャンの中でそれが見たい。

分かってほしいのは、決して宣教師の人々や今頑張って日本の為に奉仕している外人の方々を否定しようとしているのではない。むしろ、彼らが起こしてくれた「きっかけ」、そして伝えてくれたアイデアと土台を無駄にしないようにしようと言いたい。

そのためにはいずれ、俺たちはただ彼らに頼る事を止めなければならない
責任をもって自分たちでリードし始めなければならない。

ビジネスで言う、「ジャパニーズクオリティーを世界に」だ。
いやそれ以上に、「神のクオリティーを日本人を通して世界に」としたい。

傲慢に聞こえるかもしれない。
でも個人的には、これを成し遂げることは日本人クリスチャンとして使命であり、むしろ神が俺たちを日本人としてくれたことへの感謝の態度だとも確信している。

でも今その完全な答えを俺が持っているわけでもない。どのような戦略を取っていいのか、どのようなスタイルを作り出せば良いのかはまだハッキリとは分からない。

でももがき、見出そうとしている、そして何かが見え始めている。

今の現状からの突破口は、日本人である俺たちの手の中にある。

日本人のクリスチャンに言いたい。
もっと、もがこう。
もっとリスクを取ろう。
もっと神が与えてくれた俺たちの素質に自信を持とう。

切り開いて行こう。

ではまた。

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