人生

2015年5月18日 (月)

人間の成長と変化 part 2

引き続き、前回からのトピックです。

今回は、私たちが成長し、どのような「実(Fruit)」を出すように求められているのかを見ていきます。

聖書では、その実を聖霊の実という形で、ガラテア 5:22‐23でパウロが明確に示してくれています。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23  柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」

ここで気を付けてほしいことは、ただこの9つのクオリティーを育てればよいということではないことです。日本語では、分かりにくいですがここでの「実」の言葉は、複数形ではなく、単体での言葉が使われています。英語でいうと「Fruits」ではなく「Fruit」です。要は、9つの違った種類の実があるのではなく、9つの要素が一つの実に全部一気に含まれているという意味です。

なので、実を成長させるうえで、「1つ~3つの要素だけ成長していて、あとの残りはちょっと成長してないんだよね~」、なんてことはできないということです。愛だけ成長させておいて、自制心が無いという状態は、神様の求めている実ではないということです。

別の言い方をすると、すべての9つの要素が繋ぎ合っていて連携して生み出してこそ、それぞれの本当の品性が現れるということです。これが聖書的な成長と世の中の根本的な違いになります。もちろん世の中や宗教の方法でも、これらの一つ一つの要素を持つことは可能です。でも生み出し方が違います。

例えば、世の中の「自制心(Self-Control)」はこうなります。
日本では、よく男の子に、「女々しく泣くな」とか「男は泣かない」となどと昔は言われていました。「泣かない、メソメソしない」という自制をするために、どのような動機を使っているでしょうか?それは、「女々しくならない」、「女みたいになるな」や「俺は女とはちがう」というプライドという動機や、他人を見下す思いから自制を作ろうとしていることになります。

世の中は自制を得るために、同じような原理を使います。規則正しい訓練された生活を送るためにの原動力として様々な隠れた理由があります。ビジネスで成功するためにそのようなコントロールが必要な場合は、「俺は他より仕事で勝らなくては」や「あいつに勝って昇進したい」が心の中では基本的にあるかもしれません。持てるため自制する場合は、「あの子より可愛くになるため」、「私はあの子みたいじゃない」と思い努力します。

そして宗教的な人たちも同じ動機で自制を作り出します。「私はあいつよりもモラル的に良い人間だ」、「誰よりも祈っている、聖書を読んでいる、誰よりも仕えている、私の教会は他とは違う」と自負することで、自制や努力の力が生まれています。結局、自分の価値や存在感、アイデンティティーを確立するためにやっていることになります。

世の中での「愛」、「やさしさ」、「慈愛」、「慈善」はどうでしょうか?それを与える対象の人に、気に入られたいという動機によっても表面的にすることも可能です。または、それらをしている「良い人間」の自分を作り出す為、自分の存在意義を確立することが動機にもなってしまいます。それらは本当の愛ではなく、偽物であり偽善に結果的になってしまいます。心底相手の為ではなく、自分の為という動機が奥底に隠れています。結局、このような動機が土台なら、貧しい人々を助けたりする施しの行動ですら、自分の為になってしまいます。結局、自分が「良い人間」だと感じるために彼らを利用しているにすぎません。

では聖書の言う、同時に9つの要素を生み出すとはどういうことでしょうか?
それは先ほど言ったように、すべての動機がお互いに繋り、頼り合っているということです。

例えば、自分を自制するとき、プライドが根源ではなく、愛になります。「神様に愛されている自分、犠牲を払ってまで罪人の自分を愛してくれた事実」から来ます。 自分の存在価値はイエスから既にもらっているはずなので、プライドや他人に「負けないため」という恐れや「自分の価値」を高める理由から行動する必要がなくなります。逆に。ただ与えてもらった人生を最大限に神様と人々の為に使えるように、神に受け入れられている「喜び」と感謝から自分を自制し使命を全うできるようになります。また人と比べることも、他の人より勝ろうという完璧主義的なプレッシャーもないので「平安」もあります。時間を無駄にせず、同時に明日の心配し切羽詰ることなく神様に頼りながら自制できます。更に、自分を自制するとき、自制できない人々を裁くことなく、「優しさ」と「慈愛」で見ることができます。自分も本来イエスなしではそうなると自覚しているからです。それ故、「謙遜」もしっかりあります。

慈善や慈愛の行動も、自分のためではなくなります。既に自分のアイデンティティーは神様の愛からもらっているので、存在意義を自分を形成しなくて良いからです。初めてその時、自分の為のではなく純粋に人々の為に行動できます。他の人に気に入られるために優しくなるのではなく、正しい時に「優しさ」を与え、時に厳しさと真実が必要な人には、「謙遜」を持ちながら戒めることができます。これは神様に対しても「忠実」な行動になり、まだその相手の為にという視点からも「忠実」な行動になります。自分のニーズによって動機や行動が決してブレないからです。

上の線で引いた箇所がカギだと分かるように、これらがすべて福音の要素が根源になっていることは分かると思います。要は、前回の内容のように、福音が種であり源でなければ、自然には正しい実は生まれてきません。結局、宗教的に偏った自分を作り出してしまうだけです。

ミニストリーで活躍している自分がいても傲慢になります。自制心があり成功しても優しさに欠け、すぐ人を裁き、見下す人間になります。表では愛を語り、自分を好いてくれる特定の人には慈善も善意を見せれるかもしれません。でも自分と合わない人や、違う意見も持つ人にはイライラし、また避けたり、追い出したりする行動に出るような人間になってしまいます。間違っていることが自分の目の前で行われているのに、世間の目や自分の立場や心地よさを守るために、立ち上がることができない臆病な人にもなります。それはミニストリーや組織に忠実ではあるように見えても、結局は神様の価値観に対しては忠実になっていないことです。パリサイ人という宗教家達がまさしくこんな状態だったので、イエスは彼らの種(教え)に気を付けろと言いました。

皆さんは、どのような「実」をクリスチャンの人生で生み出していますか?
正しいイエスの福音により、正しい「実」と人生の影響力を持ってほしいと願います。
これはみんな福音によって日々再確認していかなくてはいけないことです。

私たちのイエスなしでのディフォルトモード(基本設定)が宗教的なので、福音によって常に更新する必要があるからです(ローマ12:1‐2)。

神様の「実」を日本に生み出して行きましょう。

ではまた次回に。

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2015年5月14日 (木)

人間の成長と変化 part 1

数週間前の教会のメッセージの一部です。

当り前のことですが、この世の中にあるものは常に変化し変わっていきます。
良くなり成長するという変化もあれば、悪化し劣化していく変化もあります。
私たち人間も同じで、成長するかまたは劣化していくか人生ではどちらかしかありません。
変化が遅く見えても同じ状態でいることはできません。嫌でも、子供は成長し大人になり、そそして老いていきます。

聖書では、私たち人間の成長を「植物」や「農業」のプロセスに例えています。
特にマタイの福音書13章では、人間が神様にあってどうやって霊的に成長していくかがはっきりイエスによって説明されています。今日はしっかり健康的に成長していく大切な要素をいくつか見ていきます。

まず最初に、成長は絶対に必要不可欠(inevitable)だということです。植物はちゃんと土の中に埋まり、正しい環境と必要なものがあれば(太陽と水、良い土)、自然に成長するということです。成長していないのなら、死んでいるかまたは劣化(枯れて)言っているということです。

でもこの要素見ていく前に、もっと大切なことがあります。

それは「何を成長させる」かです。何の種を自分の人生に植えているかです。

クリスチャンの人生で、それは神の言葉、または「良い知らせ」という福音が種でなくてはならないと言っています。例え話の中にもありますが、厄介なことに「悪い種」や「間違った」種を撒こうとする敵も存在すると言っています。イエスは「パリサイ人の教え(種)に気を付けろ」とも言いました。ということは、まず何よりも私たちは「正しい種」である福音をしっかり自分の心に植えているかが、とてつもなく重要になります。なぜならそれが間違った種ならせっかく成長させても、間違った実が出てきてしまうからです。

リンゴの種を植えて、リンゴという実が成るのを期待していたのに、ミカンが成ってしまったといことも人生では起きてしまうということです。しかも怖いことに、実が成るまではそれが何かほとんど分からないことです。要は判断には時間がかかるということになります。種はみんな小さく、土の中にある間は何が成長しているのかわかりません。芽が出てもさほど見た目には違いはないので最初は気が付きません。クリスチャンの人生や教会自体もある意味同じです。似たような2人の人が似たような環境で、似たような態度で、似たような信仰を持っているように見えても、結果的に片方はかなりズレた宗教的な人間になり、別の方は正しい信仰と神様との歩みを成長させるという結果にもなりうると言うことです。

イエスはそれを別の形でこう言いました:
同じ2つの家があり、一つは岩の上に建てられもう一つは砂の上に建てられた。
2つのドアがあり一つは小さく正しい場所に行き、一つは大きく地獄へ続く。
2人の預言者がいて、片方は偽物、片方は本物。
2人の祈る者がいて、一人は宗教的に、もう一人は真の神に正しく祈る。
2人が「主よ、主よ」とイエスを呼ぶが、一人はイエスはその人を知らないと言い、もう一人はイエスは知っていると言う。

何をイエスがここで言おうとしているかわかると思いますが、結局自分が「何の種」を育てるかがどんなことよりも究極的に重要だということです。別の言い方をすると、福音をしっかり把握し、理解しているかが成長のカギとなります。なのでイエスはこう言って例え話の説明を始めました、「耳ある者はちゃんと聞き、そして理解しろ」と。また例え話の中でも「理解する」という言葉がカギとなっています。

ここでは、理解しない(または把握しない)=心(土)に入っていない状態を表しています。結果的に、種が道端に落ちたままなので、「鳥(悪魔)に種を持っていかれた」となってしまったり、「日が照って、焼かれてしまった」という結果もあります。興味深いのは、「太陽の光」は本来は成長するための良い要素でもあるのに、逆に成長の妨げの要素になってしまっていることです。福音を理解しているかどうかで、本来私たちのためには良いものが、悪影響になるということでもあります。それは聖書を読むという行動自体も同じです。以前のブログでも説明したように、福音を中心に読まなければ、結果的に自己啓発的に読んでしまい、自分の努力で自分を救おうとする宗教的な読み方になります。先ほどの例えと同じように、「祈る」という素晴らしい行動も結果的に宗教的になります。教会という存在も、福音の理解が間違っていたり、ズレていたりすることで、宗教的になり、下手をすればカルト的になったり、コントロールし冷たい愛がない組織になってしまいます。でも怖いのは見た目は最初は同じということです。

また種が浅く、根が張り切らないために、心配事や世の中の富(世の中の価値観)によって成長が妨げられる結果もイエスは話しています。これは福音がある程度知識的に理解していても、しっかり自分の心に根付いていないので、他の優先順位や価値観によってズレていってしまうことです。これもクリスチャンでは良くあると思います。福音を土台に成長させることよりも、人生で成功すること、ビジョンを持つこと、祝福されること、立場的に偉くなること、人気者にあって活躍することの方がクリスチャンの人生でも大切になってしまう場合があります。それらは本来悪いものではなく良いものですが、それらが本当の福音と真の神様の代わりになってしまっている状態です。

「イエスを信じれば成功する」、「教会に根付けば祝福される」、「聖書をしっかり読んで祈ればすべてうまくいく」、これらは聞こえはよいですし、悪いことではなく、むしろ良いことですが、福音(私たちの罪の為に死に復活したというにイエスが成し遂げたこと)とはかけ離れています。それらを福音という土台には絶対になりません。それらが福音であるなら偽物になります。イエスはそれらの約束はしませんでした。どんなことがあっても常に一緒にいてくれることは約束してくれました。でも必ず金銭的に祝福され、またビジネスで成功して、必ず良い結婚できるとは約束はなく、むしろ逆に困難と苦しみは必ずあるとさえ言いました。使徒行伝では、信仰の為に拷問にかけられ、投獄され、結婚もせずに殺された人も多くいました。世の中的に見れば、彼らは決して「成功」はしていません。でも殺される寸前でも喜びあふれて、とてつもない神様の使命を全うしました。もし成功や祝福が信仰をスタートする種であったのなら、それらを得られなかったときどうなるでしょうか?結局人生で失望します。下手をすれば自分を責め、良いクリスチャンでなかったと罪悪感を覚え、または他人や神様のせいにするでしょう。できたとしても謙遜は全くない人間になると思います。もしそれらの間違った福音を種として、自分を成長させているのなら何年後かには宗教的になるでしょう。

本当の福音は「イエスがしたこと」によって変わり、常に感動し心動かされ感謝しながら成長し続けるライフスタイルを生み出すものです。自分がどれほど「ウマく・頑張って」、聖書の原則に従い成功できるかという自分の努力ではないのです。

そのように間違った種を育てている自分にもある日気が付きました。そしてそれがあたかも聖書のメッセージであり、人々に伝えるべき福音だと勘違いしていました。もちろんそのように「幸せになれるよ」、「成功できるよ」、「結婚できるよ」というのは人々に受け入れてもらい易いかもしれません。クリスチャンのことを知る最初のきっかけとしては、それらの自分のニーズや癒しからでも良いかもしれません。でも本来の福音の本質を教えて、理解させていないなら、本当にクリスチャンかどうかも怪しくなってしまいます。本当に神様を心から信じて福音の真実に頼っているのかも分かりません。たぶん福音を成長させるどころか、とてつもなく世の中的なものを成長させていることになります。

前にも言ったように、福音はGOOD ADVICE(良いアドバイス)ではなくGOOD NEWS(既にイエスが成し遂げたこと)です。アドバイスは、それを受け取りこれからする自分たちの努力でどうするかに掛かってします。アドバイスなら釈迦でも、モハメドでも、自己啓発でも、会社でも、どんな宗教のリーダーたちでも沢山教えて「くれるでしょう。でも福音(既に救いを成し遂げてくれた)はイエスだけです。イエスだけが私たち人間がこなせなかった神の求める義を完璧に全うし、罪によって私たちが死ななければならなかった「死」を体験し打ち破ってくれました。自分たちがこれからすることではなく、既にイエスによって完成されたことの上にすべてが掛かっているということです。

皆さんはクリスチャンとして、何を自分の土(心・人生)に成長させていますか?福音ですか?イエスですか?それとも宗教ですか?

イエスがブドウの木で、そしてその木が成長すれば私たちが枝になります(ヨハネ15)。
そしてイエスが求める実を、福音の種から木を成長させることにより実らせることができます。そしてイエスが言ったように、福音によってイエスという木に繋がっていないのなら、私たちは何もできません。

次回は、イエスが求める「実(結果)」は何か?そしてどのようなものかを見ていきたいと思います。

福音という種を成長させよう!

ではまた。

このメッセージはここでも聞けます。
https://soundcloud.com/doubleo-cross-church/20150419-growing-and-changing

続きを読む "人間の成長と変化 part 1"

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2015年3月17日 (火)

ザ・テンション & ミッション

本当の意味でクリスチャンになると、「救われる」、そして「使命を受ける」と言うことが2つ同時に起こります。

アブラハムは、神様と出会うと同時に自分の故郷を離れて約束する地に行けと神様に言われました。「その地はどこですか?」と聞くと、「それは後で分かるよ。」という感じで。笑

ヤコブは故郷を離れると同時に、出た先で神様に出会いビジョンを見ました。

モーゼも引き寄せられて神様との出会いがあったと思ったら、エジプトに戻り自分の民を救い出せという使命を与えられました。

ダビデもイザヤも、そしてイエスの弟子たちも多くの聖書の人達は、神様と関係ができると同時に「心地良い場所 comfort zone」を離れミッションを与えられました。

もし私たちがイエスに出会い神様との関係を持っていると言いながら、神様のミッションに加わっていないなら本当の救いを分かっていないということです。この2つは切っても切り離せないからです。イエスの十字架と復活を通して、世界を救い修復し再生するという目的そのものが神様がずっと昔から実行し続けて来たミッションだからです。そして私たちはその歴史の真っ只中にいます。イエスが最初に地上に来た時から、次の再来の間に私たちは生きています。アブラハムのように「故郷」を離れていてもまだ目的地に向かっている状態です。

神様の使命がなければ、自分の為に教会に行くでしょう。自分の為だけに聖書を読んでしまうでしょう。そしていずれ、教会やメッセージに満たされなくなったら、文句を言うか、または世に中で満たしてくれるものを探していずれクリスチャンのコミュニティを捨てるでしょう。神と人々に仕えると使命がないからです。でも使命がある人は、常に健全なクリスチャンのコミュニティを見つけようとします。

神様の使命がある人は、問題を見たときにもっと良くしたい解決したいと思います。ない人はそこから逃げます。使命がある人は常に「神様の約束という目的達成という希望」と「心地良さを離れる苦しみと痛み」の両方のテンションに生きています。

そのテンションに生きる力はイエスからしかもらえません。福音のように、「圧倒的に罪深い俺たちであったのに、圧倒的な愛と恵みで救われている」というテンション。「この世の中の価値観にあっては貧しいけど、神にあって富んでいる」、「弱いけど、強い」、「ある人たちにはボロクソ文句言われているけど、ある人々は俺たちの善い行いを見て神を崇めるようになっている」、「この世に属さない外国人だけど、この世に中に住んでいる住人」。この狭間のテンションに生きるのがクリスチャンです。そしてそれはイエスの福音でしか見出せません。

もし私たちが、教会という世界だけにどっぷりハマりすぎて教会が提供するプログラムだけの人生になり、「俺たちが生きている人生(成功、結婚、ビジョン)は世の中よりマシだ」という見下した態度から伝道して、その世界観だけを強調しながら人々と関わっているのだったら、私たちはそのテンションに中にいません。逆に教会という存在はもうダメだと言い、クリスチャン達は偽善者とか言いながらクリスチャンのコミュニティから完全に離れているのなら、それも正しいテンションを生きていることにはなりません。結局両方共、自分の幸せと心地良さが中心であり、単なるプライドです。結局自分で自分の満足を作っている宗教です。

この究極的なテンションがある使命に生きて欲しいです。教会という聖書的なコミュニティにつながると同時に、社会で生きて働き様々な問題にぶち当たりながらも影響力を持つ。闇にありながら輝く光のように、食べ物に混ぜられながらも味をしっかり持つ塩のように。

本当の意味でクリスチャンの人生を生きて欲しいです。

救われて使命を生きていますか?

ではまた。



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2014年6月19日 (木)

赦し赦されること

最近、TIM KELLER牧師のあるメッセージを聞いていて、「赦す」という事にまたじっくり考えさせられた。

俺たちクリスチャンは、「赦す」という事に関して、一番多くのメッセージを聞き、教えられ、そして実践するように常に言われているにもかかわらず、時に一番それをできていない時があると思う。それは自分自身にも言えることだ。

今回はTIM牧師のメッセージをもとに、再度「放蕩息子」のストーリー」から、本当に「赦す」という事がどういう事かを神様の視点で見ていきたい。なのでまたもう一度、ルカ書15:11-32を読んでみてほしい。

まず最初に強調したいのは、「赦す」という行動は、赦す側からの「一方的」な行動であり、そして「積極的」な事だ。

このストーリーでは、父親の二人の息子の若い方が父親の財産の一部を持って出で行ってしまう。それを売春やクラブのパーティなどで遊びまくり、使い果してしまう。息子は惨めになり、一文無しなってしまい悔い改めて、父親のもとに「雇われ人」として受け入れてもらおうと父の家に戻っていく。

まずここで注目してほしいのは、この息子がどれほど、父親にひどいことをしたかだ。彼はただ財産を奪って行っただけではない。この当時は「尊敬や権威」と言うものがすごく重んじられた文化だった。父親は土地や財産を所有する立場の人間として、世間やその町からも認められ、認識のあった人物だった。そういう地位の人物が、財産を本人が死ぬ前に「渡す」という事は、尋常な事ではなかった。当時は銀行にお金という形で財産を蓄えるのではなく、土地や家畜などの所有物を所持することで財産としていた。ようは、息子に「渡す」ためには、土地や家畜を売り「渡せる形」で息子に上げなくてはならない。でもその土地を貸していたかもしれないし、家畜も雇って面倒見ていたかもしれない。ようはこの行動はすごく世間に知れ渡ることであり、立場的にも実際に人々から信頼を失う事でもあった。

父親が失ったものは、財産だけではなく、名声、人々からの尊敬など多くのものを息子のせいで失ったわけだ。

もし俺がその父親だったら、どれほど怒るか想像できない。自分の仕事や立場を失い、世間からも悪く言われる。それだけでなく貯金もごっそりなくなるのだ。そんなことを自分に対してしてきた人間は、息子であってもすぐに受け入れられないと思う。そしてこう考えるだろう、「戻ってきても、俺に対してしたツケを完全に払うまで、そしてトコトン謝らせて、その態度が変わるまでは、完全には受け入れない、信用しない」と。

「アイツが悔い改めたら、赦す。」
「赦すが、アイツとは関わりたくない。」
「赦すが信用するわけじゃない。」
クリスチャンでもこんな考え方を持っている人も多い。正当な考えのようにクリスチャンの間でも思われているが、こんなものは神様が示す「赦し」の微塵の欠片もない。

マタイでは、イエスはこう言う。「神様に捧げものをするとき、兄弟が自分に対して苦みを持っているのを思い出したなら、まずその兄弟と和解してから捧げものをしなさい」。これもまた、積極的であり、「相手が謝るのなら和解しろ」とは言っていない。「兄弟が自分に対して罪を犯したなら、その兄弟のところに言って1対1で話しなさい」ともある。そいつが謝ってからではなく、まず「害を受けたお前が行動しろ」だ。一方的であり、積極的だ。

このストーリーの父親の態度と行動も良く見てほしい。
父親は、家のバルコニーで息子が家に向かって歩いてくるのを見た途端、父親は「走り出した」。その当時の服装はローブなので、女性や子供以外の特に父親という権限のある人たちは「走る」という行動はあまりとらない。ローブの裾を上げて足を見せて走らないといけないからだ。下品であり、オッサンが必死にそんな風に走る姿は、あまり見栄えの良いことではなかったからだ(笑)。でもそんなことは父親は気にしなかった。ただただ息子が帰ってきたことが嬉しく、抱きしめたかったのだ。

俺だったら、バルコニーで息子を見た途端、「こいつめ、ノコノコと帰って来やがって。絶対謝らせてやる」と言って、迎えるどころか怒った顔して腕を組んでいただろう。もっと突っ込むと、「こいつは何の動機で戻ってきやがった?また金目的だろう」と疑っていたと思う。

でもこの父親は、息子に謝らせるどころか、息子をキスして抱きしめた。何も言わせずに、何の「決めつけ」もせずに、すぐに信頼の証である息子としての指輪とサンダルも履かせた。

これが俺たちのクリスチャンの神が示す本当の「赦し」の態度だと俺は思う。
俺たちが作った罪という借金に対して、それでも自ら更に犠牲を払い受け入れる父親という神。「戻ってきた」という事実だけを見て、喜び、受け入れる一方的なデカい愛。

この父親は、息子が本当に「変わった」とか、「悔い改めたか」などは分からなかったはずだ。でもその愛によって息子が本当に変わるキッカケを与えたと俺は思う。
考えて見てほしい。息子は「働人」として父親に雇われようとしていた。息子としてではなく働くことで、自分の罪と父親から奪ったお金や借金を「払い戻そう」としていたのだ。
「自分の働きで神に対しての罪を償う」、「自分の良い行いを通じて神に近づく、受け入れられ天国に行く」。前にも言ったが、これは「宗教」の概念だ。自分で自分を変える。自分で自分の態度を良くする。自分で自分を成功に導く。自分で良い結果(実)を出す。これは宗教であり、同時に世の中のビジネスセミナーでも単純に教えている。

でも神の愛であるイエスの「福音」はこれとは全く違う。一方的な愛、そしてあまりにもデカい恵み。「え?こんなひどい人間の俺になんで?」とガツンと心を打つような圧倒できな行動と憐れみと恵み。その愛が本当に俺たちの心と人生に入った時、俺たちは感謝せずにいられなくなる。もう同じ自分ではいられなくなる。本当の意味で変えられる。内側から変わるエネルギーが湧き、今までのように「努力」だけで変わるのではなく、聖書では、イエスが「内側から変えてくれる」と表現している。

息子は、自分で変わろうとしていた。でも思ってもない父親のデカい赦しと愛によって、完全に変えられた。

ここでまた強調したいのは、「赦す」ときに犠牲が伴うという事だ。
本当は、息子に支払われるべき借金を、父親自ら諦め、プライドを捨て、ある意味自分からその罪と借金を「チャラ」にしたように、俺たちも他の人「赦すとき」、彼らが自分に「払うべきもの」を肩代わりし、そしてプライドを捨てそれらを求めることを諦めなければいけない。「復讐」を諦めなければいけない。もし俺たちが、自分を裏切った人や悪をした人が「失敗」したり「挫折」することを少しでも心や頭によぎるのであれば、それは「赦していない」証拠だ。
でも、実際俺たちは「赦した」と言いながら、まだそのような夢を見たり、憎んでいる人が失敗することを話し、ある人はそれを自ら引き起こそうとする。それは決して「赦している行動」ではない。

でも俺はたまに考える。もしある人が自分の家族に、妻に、娘にヒドイことをしたら?もし殺されたり奪われたりしたら?赦せるだろうか?こんな愛の態度を取れるだろうか?答えは、はっきりしている。絶対に無理だ。俺にはできない。でもだからこそ俺たちは神様の力が必要になる。

ティム牧師はこのような話をしていた。
彼の教会で、ある奥さんが不倫をしていたことが発覚した。
そこでカウンセリングを受けるために、ティム牧師のところに来るわけだが、不倫をされた旦那さんは、思った以上に寛大であり、彼女を再度受け入れ、やり直す態度も持ち始めた。だがカウンセリングを続ける中で発覚したのは、旦那さんも実は不倫をしていたという事だった。旦那さんが彼女を赦せたのは、自分も同じで、彼女を責めることができないと思ったからだったのだ。あまり良い話ではないが。実は俺たちには同じ事が、赦すときに共通する。

「福音」にあるイエスのメッセージを俺たちが本気で受け取った時、自分の罪深さが分かり、良い意味で謙遜になる。本当に福音を受け取った人間は、「自分が他より勝っている」とは考えなくなる。皆が罪人であり、神の前では同じだからだ。だから罪を犯した人を見た時、「自分も彼らと変わらない」、「俺も同じだ。彼らよりもマシな人間などではない」と自覚する。自分には裁く権利もないことが分かる。

でも逆に、俺たちが「他人より勝っている」と思っている時には、俺たちは他人を赦せなくなる。「俺はあいつとは違う」と思い。「アイツは嘘つきだ。間違いを犯した人間だ」と一方的に決めつける。でも、自分も人生で嘘をついたこともあり、間違いを犯したことに関しては、言い訳する。「その時はやむ得なかった」、「正当な理由があったと」。でも実際は同じ嘘であり、罪なのにプライドがあるために真実を受け入れられない。それどころか、相手を非難し、無視したり、最悪の場合突き放して、復讐もしようとしてしまう。

前のブログでも書いたと思うが、自分が「モラルや態度で勝っている」と言う考え方は、宗教をやっている時に俺たちの心に宿ってしまう。「良いこと」を自分で達成していると思い、それゆえ神に祝福され認めてもらえていると勘違いしている。それが自分のプライドになり、人を見下したり、また自分より優れている人間を脅威に思う。そして自分たちは他とは違うと考える。宗教化してる教会は、そのような態度が教会全体に出てしまう。

でも、「福音」の恵みは、俺たち人間の根本から変えてくれる。人という性質の真実を見せてくれる。そしてその上で、神の圧倒的な愛で受け入れられていると分かるため、赦せる力が自然に湧いてくる。裁くことをしなくなり、どんな人間でも受け入れ、与える存在として見れるようになれる。他の人も変われる可能性をあることが信じ始めることができる。

このストーリーで父親が払った犠牲は、お金や名声だけだ。でも福音のメッセージでは、イエスが払った犠牲はとてつもなくもっと大きい。イエスは、自分の神としての立場、財産、名声、アイデンティティーどころか、自分の命までも犠牲とした。人々に完全に無視され、除け者にされ、痛めつけられ、それどころではなく、神にも十字架上で俺たちの代わりに「見捨てられた」。それはすべて俺たちが人間自身が自分で払う「ツケ」だったにも関わらず、自らすべてを背負う決断をしたのだ。唯一、何の罪を犯さず、唯一「お父さんの家」に完璧な「息子」としていた存在だったにも関わらず、自ら「放蕩息子」になったのだ。人類のすべての人間の「ツケ」を背負うことにより、俺たちが代わりに父親のもとに戻れるように。そしてそのどん底から這い上がった。復活した。

だから俺たちが、そのイエスを信じ、心に、そして人生に向か入れる時、どんな状況でも「本当に赦せる」人間になっていく。

俺の人間という「基本設定」では絶対にできない。でも「イエス・キリスト」という設定になるとき、それが可能になっていく。
赦しとは、「相手が~したらという」条件付きではなく、まず個人的な自分の課題だ。

このメッセージは、相手が悔い改めなくて良いという事ではない。
ここで言いたいのは、赦すそうとする側が、相手に「謝罪」を強要権利はないといことだ。
だが「赦す」責任はある。そして赦さないのなら逆に自分が苦しむ。

そして「相手」の責任は、「謝り、悔い改める」ことが責任であり、「俺を赦せ」と強要することはできない。赦されること自体恵みだからだ。

想像して見てほしい。このように赦せる人々が集まる「コミュニティー」という教会を。
条件付きそしてルールや恐れで態度を変え支配しようとする組織ではなく、どんなに失敗しても、常にその人の将来と可能性を信じ、「何の動機がある?」と疑うのではなく、何度でもチャンスと変わっていくためのサポートがあるコミュニティー。このような教会の人々は、本気で世の中を変えていき、人々の心を動かせていける人々だと信じる。このような教会を建てて行くためには、皆が「福音」によって完全に心の底から変えられなければ絶対にできない。

すべての鍵はイエスの福音にある。
OO+も常にここに立ち返りたいと思う。

英語が分かる人は、ティム牧師のメッセージをココで聞いて見てね。
http://sermons2.redeemer.com/sermons/and-kissed-him

ではまた。

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2014年5月29日 (木)

福音 VS 宗教

マタイの書5章から7章にある、山上でのイエスの教え。
この教えは、聖書の中でもイエスの最初の教えという事で、クリスチャンとしての生き方や大切な原則など重要な事が書いてある。そのためこの箇所からメッセージなどされることが多い。でもこの聖書箇所を読む上で大切な事を踏まえて読まないと、「HOW TO」としてとらえてしまう危険性がある。

これらのイエスの教えは、よく見てみるとあるテーマを中心に教えられていることが分かる。
この教えは、「どうやったら世の中と違うクリスチャン人生を生きることができるか」だけでなく、「宗教を超えて福音を中心にどう生きなければいけないのか」を教えている。

教え自体の内容が長いので、一つひとつの教えの内容は見ていけないが、今回は全体像を把握することで、イエスが言わんとしていることを学んでいきたい。

その「まとめ」である全体像は、マタイ7:13~にある教えの最後の例えから引き出せる。

「大きなドア」と「小さなドア」、
「本当の預言者」と「偽の預言者」、
「良い木」と「悪い木」、
「岩の土台の家」と「砂の土台の家」

この例えの特徴は、両方とも見た目は同じだという事だ。
2つのドア、2人の預言者、2つの木、同じ家。
同じドアでも、行き先が違う、同じ預言者でも目的が違う、同じ木でも出る実が違う、同じ家でも生みえない土台は違う。
片方は良く、片方は悪い。片方はもろく、片方は強い。片方は偽りで、片方は真実。
基本的に、中身や結果、またはある状況下で本物かどうかが分かるという内容だ。
明確に言うと、イエスがここで比較していることは「福音」と「宗教」の違いだ。

その前の5章から6章に戻ると、「祈り方」や、「貧しい人への施し方」、「断食の仕方」、「献金やお金の投資の仕方」など基本的な事をイエスは教えている。

ここで見てほしいのは、
「祈っている人」 vs 「祈っていない人」、
「他の人々に仕えている人」 vs 「仕えていない人」
「お金を献金・神の国に投資している人」 vs 「献金・投資していない人」と言うリストではないことだ。

むしろ、両者とも祈り、仕え、献金し、同じことをやっている。
でもイエスは言う、やっていることは同じだが、片方は「癒し」で、片方は「毒」だと。
片方は「死」で、片方は「命」だと。
片方は、単なる「宗教」で片方は「福音」だと。
そう、厄介なことは双方ともミニストリーや行動としてしていることや外見の見た目は同じなのだ。

この視点でイエスの教えを読んでいくと、良い意味で怖くなり、本当に自分が試される。

もっと簡単に言うと、多くのクリスチャンが同じ神を信じ、クリスチャンと宣言し、教会に行き、祈り、同じ歌を歌い、伝道し、弟子訓練し、奉仕をし、メッセージを語り、奇跡を起こしても、それらの影響が、一方は宗教という「毒」、一方は福音という「癒し」なることができてしまうということだ。

この教えは、「はい。ここにあることを単純に頑張ってできるようになり、良いクリスチャンになりましょうね。」ではなく、「これらのことを宗教としてやるのか、福音を基準に行って行くのか、どちらかの生き方かを選べ」というイエスのメッセージだ。

その「怖い」いうのは、本当に福音を知り、そこからクリスチャン人生を生きないと、知らずに俺たちがその毒である「宗教」をしてしまう危険性があるという事。

少しだけ山上の教えから、この見方を適用して、どういう事か見ていきたいと思う。

例えば、マタイ5:13-16では、クリスチャンたちはこの世の塩であり、光だと言っている。
塩の役割は、味をつけるというよりも引き出す役割、また防腐にも役立ち、食べものに着けておけば腐りずらい。でもこの場合、塩が主役ではなく、その食べ物だ。実際、肉などの食材に擦り込ませた場合、塩は目立たない。
これと同じく、本当のクリスチャンの役割は、周りの人々のポテンシャルを引出し、福音によって「味」という価値を引き出してあげ、守ってあげる存在だ。

だが逆に宗教的なクリスチャンは、防腐するどころか、周りを蔑み周りの人々の罪悪感を引出し、塩であるにも関わらず「自分の味」を強調し、他より「オレ」が優れている、味がある、俺の方が能力があるという態度を取る。「お前は俺より劣っている」ということを言わずとも行動や態度で強調してしまっている。

「光」でも同じことが言える。光は他のモノを照らすとき、その「色」を表す。対象を温める、植物であれば成長させる要素の一部となる。同じように本当のクリスチャンは光として、他を照らし、その人の特徴という「色」を引出し、暖かく包み込む。
では、宗教的な人はどうだろう?その逆だ。
自分が輝いていることを強調し、自分の色と特徴を強調する。自分が目立つことを動機とし、ミニストリーや伝道で活躍していると、自分が他より優れていると勘違いする。そして他と比較し蔑む。宗教的な人々は、「升の下」に入ってしまい、部外者は押し出してしまう。

このように山上のイエスの教えを読んでいくと、イエスが強調しようとしている、「ハート」の部分が見えてくるはずだ。「形だけをマネするな、パリサイ人(宗教家たち)を超越しろ。」と言うメッセージだ。「律法を破るのではなく、本当の意味で律法を生きろ」というメッセージだ。

宗教をやっている人は、「自分の為」を軸に良いことし、祈り、聖書を読み、教会に行き、仕える。だから自分の達成や成功を強調し、他と比べ、他を除外する。福音に生きる人は、内側から溢れる感謝と喜びと、祝福する思いから、祈り、福音とイエスをもっと知るために聖書を読み、受け取るためでなく神を賛美するために教会に行き、そして他の人の益の為に仕える。宗教をやっている人は、「自分の価値」を得るために良いことをする。でも福音の人は、既に自分に与えられた「価値」があるから、人々に価値を与えるために仕える。

この間FACEBOOKで、面白い投稿を見た。それは牧師が困る教会メンバーランキングみたいな内容で、その1位は「断食40日間したクリスチャン」、2位は「祈祷会で誰よりも祈っているクリスチャン」だそうだ。なぜかと言うと、これらをした人々は、それらを達成した後、牧師や他のクリスチャンを見下し、「もっと霊的になるべきだと」いう態度を持ち始めてしまうからだそうだ。ある意味、この「宗教」という同じ概念だと思う。彼らは、「自分が神にもっと近づいた」から、「何か成し遂げた」からという、宗教的な動機でそれらをしてしまったからだ。そしてそれらは、周りや自分の祝福となるどころか、「害」になってしまった。これは伝道や預言、賛美、教会成長というどんなミニストリーでも起こってしまうことだ。祈りを始め、それらの事は決して悪いことではなく、むしろ素晴らしいこと。でも「宗教」となった途端、祝福どころか人を傷つける「毒」に変わってしまう。

だからこそ、このイエスの山上の教えは、ただの「HOW TO]のメッセージではない。
むしろ、ここに書かれているリストは「俺たちができないことリスト」だ。

これらを読むたびに、敵を愛せない自分、他人を赦せない自分、心配を止めれない自分、本当の意味で天に宝を蓄えられない自分、そして完全に神様のやり方から外れてしまった自分がもっと明確になっていく。でもこの教えはそれで終わりではない

この教えのポイントは「福音」というイエスなのだ。俺たちができない代わりに、敵を愛してくれたイエス、赦してくれたイエス、将来の希望と安心を与えてくれたイエス、本当の意味で俺たち人間という宝を天に蓄えてくれたイエス、そして俺たちの代わりに完全に律法と神様のやり方を全うしてくれたイエス。

それだけじゃない。俺たちの代わりに罰を受けたイエス、苦しめられたイエス、呪われたイエス、すべてを失ったイエス、神様から切り離されたイエス、そして俺たちの代わりに死んだイエス。でもそのすべてを超え、復活したイエス。そのイエスを受け入れ信じた時、初めて俺たちが自然と心からできるようになり始める。イエスの力によって。

「福音」は「宗教」を凌駕し、超越し、そして宗教とは全く別物だという事だ。

そしてイエスはこう俺たちに言っていると思う、「死か命、毒か癒し、呪いか祝福、そして宗教か福音、どちらか選びなさい。でもあなた達は、命(福音)を選びなさい」(申命記30:19)。

(マタイ7:22‐23)  その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

今日、宗教ではなく、命(福音)を選ぼう。

ではまた次回に。

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2014年5月19日 (月)

宗教という「偽りの正しさ」

「イエスに出会う」シリーズの数か月前の礼拝でのメッセージ。

今回はイエスに出会った「宗教家」たちの場面を、再度「放蕩息子」(ルカ書15:11-32)の例え話を見ながら話していきたい。このイエスの例え話自体は、パリサイ人達に向けられて語られた話だった。この概念については今までもブログで少し触れて来たので参考にしてほしい。

一般的に、この例え話は「父親に財産をくれと言って出ていった息子」がどのように人生を無駄にして、結局悔い改めて父親のもとに戻り、父の愛と恵みによって再度受け入れられたということが中心にメッセージされると思う。実際にすごく感動する話だし、神様の愛と恵みも表現されている。

でも先ほど言ったように、この話の対象はパリサイ人だった。という事はこの話のポイントは、弟の放蕩息子ではなく、ある意味「兄貴」という事になる。なので今回は「兄」の間違いから学んでいきたい。

まず知って欲しいのは、この2人の息子の共通点だ。
弟は自分の父親の財産を得ることが動機だった。父親でなく父親が持っているものを欲しかったのだ。でも実は兄も同じだった。兄も彼もまた違った方法で、父親が持っているものを得ようとしていた。

簡単に言うと、弟は父親に逆らう方法を取り、財産を得ようとした。でも兄は父親の家のルールに従うことを通して、財産を得ようとした。考えて見てほしい。方法は違うが同じ動機だ。2人とも父親との関係を求めずに自分の欲で行動しているにすぎなかった。

でも兄の方が実は厄介なのだ。弟は白黒ハッキリしている。彼の動機は見え見えだ。「お父さん。あなたに従いたくありません。自分勝手にしたいです。だから金ください。」と言って出て行った。ある意味正直であり、ストレートな性格だ。

でも兄は違う。見た目は一見、「正しい」ように見える。ちゃんと父親のいう事を聞き、仕え、反抗もせずにずっと「良い行い」をしてきた。クリスチャンでいうと、ちゃんと教会に行き、聖書を読み、奉仕して、祈り、チャリティーにも寄付している人々だ。でもイエスはこの例え話で、弟よりも兄を非難している。その理由は、兄は「良い行い」や「従順さ」で自分のドス黒い動機を隠し、偽っていたからだ。それがパリサイ人と宗教家たちにも共通していたからだ。

兄は、弟が帰ってきた時に本当に怒った。その理由は実は「金(財産)」に関わっていたからだ。その当時、一般的には父親の財産は、父が死んだ後、長男を優先的に息子たちに分け与えられることが文化だった。この2人兄弟の場合は、財産を3等分に分けて、3分の2は兄に、そして3分の1は弟に分けられたこととなる。ここでまた考えて欲しい。弟は自分の3分の1を持って行って、使い果してしまった。もしその弟が戻ってきて、労働者ではなくまた息子として父親に受け入れられたら、将来またどこから財産を分けられるだろう?
その答えは、兄の3分の2からだ。

だからこそ兄は怒った。弟が帰って来ることが赦せなかった。自分の財産が減るからだ。それ以上に、簡単に弟を受け入れ、赦した父親が赦せなかった。そして兄は言う、「今まですべてあんたのいう事をやって来たのに!」と。イエスがここでチャレンジしているのは、俺たちが何のために「良いこと」すらしているかという事だ。率直に言うと、「すべての良いことすら間違った動機ですることができてしまう」という事だ。教会に行くこと、聖書を読むこと、奉仕をする事、祈ること、人を助けること、見た目は正しいが、本当には心は神と人々にはない。結局自分を満たすためであり、自分の存在意義を示すためであり、そして自分が欲しい物を得る手段でしかない。これを究極的に「宗教」と言う。ハッキリ言うと、兄も弟も宗教をしてきたのだ。ただ手段が違っただけだ。弟は「見え見えの罪と悪」を通して、兄は「偽りの善」を通してだ。2人とも自分の欲しい物を、自分の努力を通して救いを得る宗教をしていた。ある意味両方とも宗教家だ。この見方からすると、人類すべての人間が宗教をやっていることになる。

面白いことに、弟がすべての財産を失った時考えたことは、「お父さんの労働者(雇い人)になろう」だった。彼もまた、働くことにより父親に対して借りを返そうという考えしかできなかった。これも宗教の特徴だ。良いことを働くことを通して、神に借りを返せると思うことだ。「良いことをすれば天国に行ける」という間違った考え方だ。弟もまた父親の絶対的な恵みと愛を体験するまで本質を分からなかった。

でもここでは兄に焦点を戻そう。兄の存在の方がすごく危険だからだ。

最初の兄の特徴はまず、「自分がしてきた良いことや従順さで父親に貸しを作った」
と考えていたことだ。

要は、「俺はこれほど良いことをことをしてきたんだから、俺が祝福され優先されるのは当たり前だと」思っていた。俺たちもこんな考えをしていないだろうか?「ちゃんと教会に行っているのに。ちゃんと祈り聖書を読んでいるのに、ちゃんと奉仕しているのに」と思いクリスチャン生活を過ごす。だから祝福され何の辛いこともないのは当たり前だと思い始める。それ以上に神様は自分に対して借りがあると心の底では思っている。だから人生で傷つけられたり、他のクリスチャンや教会から不当な扱いを受けた時、または他人の方が用いられ祝福された時、不満に思いすぐに挫折してしまう。神と教会に対して怒りを覚え離れていく。結局は兄と同じく、自分の良い行いが自分の救いと存在意義になっていたに過ぎない。

次の兄の特徴は、怒りとフルストレーションだ。結局自分の力で「正しさ」を作り出しているために、他の「正しいことをしていない人々」に対して不満と怒りを持っている。「俺の方が正しい」、「俺の神学の方が正しい」、「俺の考え方や戦略のほうが正しい」と思っているため、極端に「自分に合う人々」と「合わない人々」を分けようとする。自分に合う人達または自分に同意し従う人達に対してはフレンドリーに、逆に考えやビジョンが合わない人、自分と違う人を非難し、除外する傾向にある。他の人々からの意見や反論は決して受け入れられない状態だ。自分の正しさが否定されることを極端に嫌うからだ。

更にこれから来る兄の次の特徴は、凄く「自分の自信が不安定」ということだ。「自分の正しさ」が自分の人生の土台であるために、常に他より優れていないと気が済まない。なので常に他の人々と比べる。そしてとにかく他の人の弱点やその人の罪や悪い部分を見つけ、批判に持って行き、それらを使ってコントロールしようとしたりする。できない場合は、「だからあいつはダメなんだ」と主張する。自分より劣っていると思われる人間は簡単に従ってくれるため、そのような人々中心に仲間にしようとしたり、従わせようとする。そしてまた従わない場合はグループやコミュニティーから押し出そうとする。

実はこのリストは全て、パリサイ人がしてきたことだ。

でもここで正直になろう。クリスチャンであっても、上の多くのことを自分でもして来てしまっていたことにある日気づいた。最初は「福音」と言う圧倒的な恵みと愛によって救われたにも関わらず、いつの間にか「良いことをでき始めた自分」に目が移り、徐々にそこにクリスチャンとしての自信とアイデンティティーを移し始めてしまう。頑張っている自分、成長してきた自分、聖書を理解し始めてきた自分、ミニストリーで活躍し始めている自分、それらが強くなっていくと共に、他の人はできていないと比較し始める。そして「自分の正しさ」が前に出始める。現実的に多くのクリスチャンが気づいてみたらそうなってしまったことがあるだろう。

そして悲しいことに、このような兄のようなクリスチャンたちが実際教会の牧師やリーダーとして多くいることだ。仲間になる特定の人々にはすごく友好的、そしてある反面、自分に従わない者には極端に冷たい。ある一面すごく自信を持っているかのように見え、でも極端に自信が無く、他の意見を受け入れられない。

父である神の家という教会には常に、この兄と弟が一緒にとなりの席に座っていると思う。ある人々は弟の様に圧倒的な愛と恵みを体験し、ただただ受け入れられたことを感謝して喜びに満ち溢れている。仕える時もただ神様に感謝しているからしようとし、そして自分を主張せず、他の人々を同じ愛と恵みとで接することができる。

またある人々は、兄の様にまだ父親である神様の愛と恵みを分からず、必死に「自分の正しさ」を強調し、認めてもらおうとし、それらを牧師やリーダーと言う地位から主張し、知らずにただの宗教(自分の正しさを示すだけの教会)を作り出してしまっている。

見ても分かるように、教会と言う存在は完璧じゃない。歴史を見ても、「キリスト」は多くの間違ってきたことをしてきた。ドス黒い歴史や過去もある。クリスチャンとしてのローマ帝国や様々なクリスチャンの宗教の形として、従わない人々を押し潰し、除外し、時には殺し、絶対に赦されないこともしてきた。自分たちの罪を認めず勝手な聖書の解釈によりそれらを覆い隠してきた事実もある。それは兄のような俺たち人間が作り出した宗教だからだ。これはどんな世界の宗教でも同じだろう。

「キリスト教」は決して完ぺきではない。だからこそ聖書の中にある人物像やストーリーも本当にドロドロしている。ギリシャ神話や他の宗教聖典のように人間が極端に高潔にはなっていない。これは多くの専門家が聖書の特徴として認めている部分でもある。聖書には人間の弱さと悪がそのまま記載されている。その理由は、人間の正しさではなく、神の絶対的な正しさ、救いの働きと愛と恵みを見せるためだ。人間の「達成」ではないからだ。からだ聖書では誰も神であるイエス以外はヒーローではない。

「キリスト」は間違いだらけで完璧ではない。でも「キリスト」は完璧だ。クリスチャンは完璧でないが、イエスは完璧だということ。純粋なイエス・キリストの福音に、俺たちが少しでも「自分の正しさ」によって手を加えてしまった時、それは単なる宗教と言う「キリスト教」になってしまう。

ここで俺が本当に伝えたいのは、「キリスト教」じゃない。伝えたいのは「キリスト」そのものであり、宗教と言う神に近づく方法じゃなく、神からの「福音(良い知らせ)」だ。その良い知らせは、「俺たち人間が何かを達成しました」という知らせではなく、「神が一方的に俺たちを愛し、救うためにイエス・キリストを送ってくれた」ということだ。

今牧会している教会も決して完ぺきではない。でもその完璧に向かって徐々に歩める道はある。それは決して、「イエス・キリストの福音」から、神の恵みと愛と真実から離れないという事だと思う。少しでもぶれ始めた瞬間、兄のように「自分たちの正しさ」を主張してしまうからだ。「俺たちの正しさ」ではなく、「神の正しさ(イエス・キリスト)」を示して行きたいと思う。同じく「教会の正しさ」ではなく、イエスの正しさに焦点を置かなくてはならない。もちろん、自分の教会には素晴らしい思いと情熱はあるし、メンバーたちを誇りに思う。これは多くの教会を開拓したパウロも同じ思いだったと感じる。でもパウロは、教会がどれほど素晴らしいかではなく、常にイエスと福音が素晴らしいかを何よりも強調した。その上で、教会をキリストの体として機能させることを心がけた。教会がすべての解決ではなく、イエスがすべての答えであり解決だからだ。教会はその頭であるイエスを表す場所であり、福音を思い起こさせ、それを中心に生きる人々の集りであり、イエス自身の働きになっていく存在だ。

ティム・ケラー牧師のメッセージを引用すると、本当の良い「兄」はイエス・キリストだ。自分の財産(命)を自ら諦め、出て行った兄弟たち(俺たち人間)を追いかけて地上にやって来た。そして人間たちの罪(父である神に対しての罪)を自ら背負い、十字架でそれを俺たちの代わりに払い、そして死んだ。
でもその後、死から復活し、神である父の家(天)に兄弟姉妹たちすべてを連れて戻ってきた。イエスこそこの放蕩息子の話の「本当の兄」だ。だからこの例え話の前後にある失ったコインや羊の例えとは異なり、放蕩息子の例えには結末やハッピーエンドがなかった。イエスの十字架と復活がハッピーエンドというオチだったからだ!

初心に戻ろう。聖書の根本であり、土台の「福音」に。イエス・キリストに。

ではまた。

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2014年4月29日 (火)

理想の人間 A perfect man?

数週間前にメッセージした内容です。

「イエスに出会う」シリーズでのメッセージ。

今回の主人公は、お金持ちの若い坊ちゃまだ。
聖書箇所は、マタイ19:16-26なので一度読んでみてほしい。

今までのペテロやナタナエルのイエスとの出会いとは違い、この男性はイエスを受け入れずに去って行ってしまった例だ。なので今回はなぜ彼がイエスに躓いたのかという事から学んでいきたい。

まずこのリッチマン(金持ち男性)の問題は、豊かすぎたという事だった。彼の両親がお金持ちだったかもしれないが、とにかくすごい金持ちだった。他の聖書箇所では、統治者だったともあるので、ある意味若くして成功した男だ。現代で言うと、Rich Man Poor Womanのドラマに出てくる、「日向徹」。企業で成功した男かもしれない。しかも彼は日向徹とは対照的で、モラルの部分でもリッチだった。当時の道徳基準であった十戒もほとんど忠実にこなしていた、ナイスガイ、イイ奴だ。
しかも彼は足りない部分が自分にあると思い、謙遜的にイエスのところまでやって来た、超真面目男。今の社会でいう、3H(高収入、高学歴、背が高い??)を持っていた!現代女性が付き合いたい・結婚したいランキングNO.1になれる男だ。

世の中から見れば、こいつは「理想の男。絶対天国に行ける人間」に見えただろう。だからこそ、弟子たちもイエスの言葉に驚いた、「金持ちが神の国に入るのは不可能なことだ」。
弟子たちは思っていた、「世間からの評判も良くモラル的に良い人で、しかも謙遜で、お金もチャリティーに渡しているこの完璧な男が神の国に入れないのなら誰が入れるんだ??」と。

でもここに本当の福音の要素がある。

このリッチマンの問題は、「自分が持っている物、今までしてきた行いが(成功・達成)」が人生の土台だった。別の言い方をすると、それらが彼の救いの道(神の国へ入る道だったのだ)。彼は、クリスチャンになることを単なる「追加要素」としてしか見ていなかった。彼の言葉に注目してほしい、「私に欠けているモノは何ですか?(足りないもの)」と言ってイエスの元に来た。良い方を変えれば、「私に何を加えれば完璧な人間になれますか?」だ。

このリッチマンは、忠実に人生に良いことを加えてきた。良い育ちに、良い環境、更に良い態度、良いビジネス精神、良いモラル、人々からの良いイメージ。彼の部屋に行けば、自己啓発の本やビジネス、リーダーシップの本は沢山並べてあるだろう。整理整頓もしっかり、料理もこなす男かもしれない。女性が「キャー。」となるような要素は必ず身に付けて来たかもしれない(笑)。

この完璧な男に対してイエスが取る対応はすごく興味深い。
イエスは彼に、なぜ「俺に何が良いことかを聞く?(マルコ10章では、“なぜ私を良い先生と呼ぶ?)」と答え、「良い方はただ一人、神だけだ」と言う。まずここでイエスが言わんとしていることは、「唯一、神だけが良い(GOODな)存在だと知っているか?」だ。

この男は、「自分が良い人間」と思っていた。良いことをしてきたからだ。でもここでイエスがいきなり答えるのは、神以外に良い存在はいない。言い返せば、「人は皆罪を犯し、完璧な人間はいないことを分かっているか?」だ。イエスは初めから彼の問題を見抜いていた。

そこで更にイエスは言う、「律法(ルール)を知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、父と母とを敬え」。これに対して、リッチマンは言う、「私はそれらのことすべて守って、行ってきました」と。ここで興味深いのは、イエスは一番最初の二つの十戒のルールをあえて言わなかったことだ。その最初二つの律法は、「神を第一にする事、そして安息日を守ること」だ。なぜだろう?

これは簡単だ。このリッチマンは、最初の二つをできていなかったからだ。
リッチマンにとっての神は、「自分の良い行い」だった。「良い自分になれば救われる」、それが彼の宗教だったのだ。そしてその土台の上に常にまた良いことをのっけて足してきた。

ここでイエスが言わんとしていることはこうだと思う。
「お前は、クリスチャンになり私を信じることを単なる、追加要素(自己啓発)でしか見ていない。でも私を信じることはそんな単純なことではない、むしろすべて人生の基準がひっくり返り、完全に生まれ変わることだ。」 

クリスチャンが信じる「福音」とは、「はい。じゃ、良い人間になるために努力しましょう~。あれこれしてがんばりましょうね~。」という宗教ではない。全く異質のものだ。逆に聖書はハッキリ言う、「君たちには無理ですよ」と。「みんな自分勝手で罪を犯しているから、実際にしている良い行いやチャリティーですら、自分の罪悪感をカバーする為だったり、自分を良く見せようという動機になっちゃっているでしょ?」と。だから救世主が必要なのだ。

リッチマンに言った、次のイエスの言葉は、「お前に足りない物がひとつある。すべての財産を売って、貧しい人に与えなさい。それから俺についてこい」だった。そして男はこれを聞いた途端、凄く悲しみ、去って行ってしまったとある。

このような「すべての財産を捨てる」という事をイエスがハッキリ言ったのは、新約聖書でも実はこのリッチマンだけだ。これは単純にお金の問題ではない。このイエスの言い回しは、「アル中の人に酒を捨てろ」、または「麻薬中毒者に、麻薬を捨てろ」と言うような言い方だった。要はイエスが言っているのは、「お前の中毒(Addiction)は、お前の良い行いがお前の神であり、Addictionなのが問題」ということだ。そしてイエスは言う、「今まで良いことを守ってきたつもりだろうが、一番大切な戒めである、唯一の神だけを崇拝することも出来ていないじゃないか」と。だからイエスはあえて、最初の二つの戒めを言わなかったのだ。

俺たちがイエスに出会う時に同じことが起きる。俺たちの甘い考えが覆される。ペテロがイエスと初めて会った時に感じた事と同じだ。本当の神に会うとき、俺たちは自分が小さく、汚く、罪深く見え始める。でも「イエスとの出会い」は、それだけで終わりじゃない。

マルコの書では、イエスは「彼の目を見つめて、彼を愛して言った…」とある。
同じように、イエスは俺たちを本当に愛しているがために、まず本当の真実と俺たちの中にある本当の問題を見せようとしてくれる。本当の意味で、俺たちに心から変わって欲しいからだ。ここでスゴイのは、イエスは誰にでも、「ついてこい。」という事だ。ペテロもそうだった。ナタナエルも他の弟子たちも。彼らがイエスに出会うことで、どんなに小さく感じ、汚い存在だと感じてしまっても、イエスは必ず言う、「それでもいい。その状態から俺についてこい。そして俺がお前を変える」と。

実は、リッチマンの問題は、「財産を売って貧しい人々に上げられなかったこと」ではなかった。考えて見てほしい、イエスはペテロやナタナエル、また他の多くの人々にしたように、このリッチマンの本当の偶像と問題を、愛を通じて見せてあげたのだ。でも同じ状況にぶち当たったペテロや弟子たちは、その後イエスのついて行くことを決めた。完璧じゃない自分をイエスに預けることを決めたのだ。でもこのリッチマンはできなかった。「捨てることができなかった」のではなく「イエスに頼れなかった」のだ。

ここにイエスが第二の戒めの「安息日を守る」を言わなかった理由があるかもしれない。
安息とは、「仕事の労苦から休息を取るためのもの」だ。
このリッチマンは、まじめな奴だった。仕事もがんばり、一生懸命だったと思う。懸命に良いことをして、常に努力してきた。でもそれをしてきた動機は、救われる(神の国に入る)ためだった。人々に親切にしたことも、父母を敬ったのも、嘘をつかなかったのもすべて自分の為だった。その努力に終わりはなく、自分の良い行いの奴隷だった。良いことをすることが自分の存在意義であり、人生のすべてだからだ。もちろんこのような生き方に休息はない。他の人々から見れば完璧に見えるが、実は心も精神も疲れ切っていく人生だ。ある意味仕事と良いことをしようと頑張るだけの人生の奴隷だ。多くの「良い人々・豊かな人々」が突然自殺したり、モラルがいきなり崩れたり、または牧師やリーダーですら燃え尽きて、鬱になる理由もここにあるかもしれない。「良い行い・努力」が彼らの宗教であり、とてつもない重荷になっているからだ。

だからイエスはこの戒めもリッチマンに「できている」と言わなかったと俺は思う。このリッチマンには休息がなかった。ただの週末の休みではなく、霊的な安息と安心、そして安らぎがなかったのだ。ある意味イエスはこう彼に言っていたと思う、「もうその重荷を捨て、休んだらどうだ?自分の存在意義をそんなものに置かずに、本当の神に置き、そして休息を得て共に人生を生きよう」と。イエスは、「疲れている者は、私の元に来い」と言う。

俺たちも実は、このリッチマンと根本的には何も変わらない。金銭的にリッチじゃなくても、イエス以外の世の中のモノに、自分の価値と存在意義がある限り、その「モノ」の奴隷であり、そしてそれ自体が偶像(アイドル)なのだ。結局、人間みんな、その「モノ」の宗教をだれでもしている。みんな本当の神の代わりに、別の何かを神の代わりとして、生きている。ハッキリ言うと人間みんな宗教的なのだ。ある人はお金、ある人は成功そのもの、ある人はこのリッチマンの様に、良いモラルが自分の自身の神となり、下手をするとクリスチャン牧師やリーダー達ですら、ミニストリーやリーダーの立場と言う「良いモノ」ですら、神の代わりとなり、それらの奴隷になってしまう。そしてただ「良いことを付け加えていくだけのキリスト教」をしてしまうのだ。もっと危険な事は、これを「福音」と勘違いして、語り、そして他の人々に、「もっと努力しろ」という宗教を作り出してしまう。

でもそれらの事は全て「自分の努力」が土台であるために、恵みを忘れ、他の人と比べ良い人間・良いクリスチャンだと自負し始め、そしてプライドが高くなり、自分のビジョンや生き方に同意できない人々を押しのけていく。パリサイ人がまさにそうだった。

ニコデモと言う宗教家もそうだった。律法とモラルのエキスパート。「神様によって、祝福された人生を生きる法則とHOW TO」の専門家。彼がイエスのところに来た時も同じだった。イエスから「教え」をもらうために行ったつもりが、イエスは、「イヤ、教えじゃなく生まれ変わることだよ。」と返されて、困惑してしまった?その当時の聖書の専門家・説教師だったニコデモすら、Christianityを単なる追加要素(教え)と勘違いしていたからだ。更には、「売春婦やヤクザの方が先に神の国に入っているよ。(マタイ21章)」とイエスは言う。

聖書の「福音」とは、人生の足し算的な「追加要素」ではない。宗教や理想、哲学または知恵のある教えですら、単なる追加要素でしかない。

福音は全く違うものだ。良い意味で俺たちの人生の基準を完全にぶち壊し、俺たちのアイデンティティーを完全に変えるものだ。

福音=イエスキリストの良い知らせ。ここから来る恵みと愛により、すべての人生の価値観と生きる目的が覆される。この福音に触れられ、感動させられ、心が変えられるとき、今まで変えられなかった自分が自然に変わっていく。そして神様や人々に対して、「~しなけれならない」と恐れから、「~したい」という愛のある与える動機に変わる。何かをもらう為(追加してもらう為)に、神様や教会に仕えるのではなく、神様の国そして人々の人生に何か良いことを「加えたい」という思いに変わる。

イエスに出会い、そして本当の自分の問題に直面した時、リッチマンの様に逃げないで欲しい。逆にイエスに走って行ってほしい。そしてこれはイエスにしかできないこと。どんなに優れた牧師やリーダーたちにもできない。結局彼らも、ペテロや弟子たちのようにイエスに出会って変えられた人々だからね。

皆は、本当にイエスに変えられているだろうか?福音が単なる「正しい生き方をするため教え」になっていないだろうか?イエスが単なる人生のおまけになっていないだろうか?まだ自分のする良いことで、神に認められ、愛され、祝福されると思っていないだろうか?

もう一度一番大切なメッセージに戻ろう。そして福音を土台に神様と歩んで行ってほしい。

ではまた。

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2014年4月11日 (金)

仕事と自分の存在意義

数週間前にメッセージした内容です。

最近00+では、弟子たちや人々がどのようにイエスと出会い、神様によって変えられていったかを見ている。そこで聖書に出てくる多くの人々の中で、ペテロの出会いを見てみることにした。その様子は、ルカの福音書5章:1-11節にあるので、読んでみてほしい。

イエスに出会うまでは、ペテロはプロの漁師をしていた。代々漁師をしていた家系であり、また兄弟たちも一緒に船を所有し漁をしていた。ある日、漁から帰って来ると、イエスが彼の船の一隻を使い、浜辺にいる人々に教え始めた。教えが終わると、イエスはペテロに、「沖へ漕ぎ出して、網を張って見ろ」という。イエスの職業は大工。その大工がプロの漁師のペテロにあれこれ指図しているのだ。ペテロは皮肉的に言う、「夜通し俺たちが漁をしたのに、何も釣れなかったんですよ。でも先生が言うならやってみますけどね。」と。そしてそうしてみると、彼の漁師の歴史上ないほどに魚が釣れた。しかもあまりにも多すぎて、二隻の船でも沈んでしまうほどだった。そこでペテロは、イエスがマジで誰なのかという事に気づいて言った。「主よ。俺から離れてください。俺は罪深い人間です」と。

多くの人々は、「神様」という存在を感じる時、それは平安的なものだと良く言う。大自然の中で星を見上げたり、海を眺めたりすると、何か偉大なPEACEを感じると。もちろんその感情や感覚は嘘ではないが、聖書では多くの人々が初めて神様に会うときは大概、「恐れ」だ。モーゼが神に出会い、話している相手が神だと気づいたとき、彼は恐れた。アブラハムも重い闇の中で恐れと同時に神を感じた。それ以外の多くの聖書に出てくる人物も、神や天使に会った時の最初のリアクションは「恐れ、ひれ伏す」場合が多い。自分より圧倒的に超越した存在に出会うとき、俺たちが感じるのは平安などではない。それは圧倒的な劣等感と小ささ、そして存在の薄さだ。

なぜだ?その答えは簡単だ。俺たち人間は皆、自分の存在価値が神様以外にあるとき、必ずそれらの他の何かに自分の価値と自信を置くからだ。自分のスキル、達成、資格、容貌、知識、知恵、持っている人脈、またはお金なのどれほど多くの何かを所有しているかにも自分自身や自分の価値を置いてしまう。

でももし自分が優れていて自信を持っている分野において、少しでも自分の「上」を行っている人間に会うとき俺たちは劣等感を感じる。それは、今までの自分のコンフィデンスが揺るがされ、最悪の場合崩れるからだ。その人物により、自分の価値が否定されているように思ってしまう。誰かが自分よりももっと多くの知識を持っていた時、自分よりも美人だったとき、頭が良かったとき、もっといい仕事を持っていた時、収入が高かったとき・・・。自分の価値がそれらのものの中に会った時、俺たちは恐れる。そしてその恐れから様々な反応をする。他の人と比較し、その人を批判し、または過剰な尊敬を持ってしまったり、または憎しみやその人が自分より優れていることを否定しようとしてしまう。実はこれは俺たち人間すべての人々がどこかでしてしまっていることだ。

そしてもちろん、仕事が自分の存在意義になってしまうことも多くある。どれほどのスキルを持っているか、どれほどの成果と成功をしてきているか、それ以前にどの大学を出て、どんな有名な会社で働いて来たかを気にし、そして同時に常に自分より先を行き、優れている人々と常に出会う。その人々に会う度に、劣等感や怒り、恐れ、競争心、嫉妬に駆られるなら、それは仕事という自分のパフォーマンスが自分の存在意義とアイデンティティーになっている証拠だ。

これはペテロも同じだった。最初はイエスの事を先生(英語ではマスター)と呼んでいたが、内心「大工がプロの漁師に何言っているんだ」と思っていた。でもとてつもない奇跡とイエスがアドバイスしたことの結果を見て、本当のイエスを知る。そして恐れた。自分が小さく見えた。それ以上に汚い人間に思えた。そしてペテロはイエスを「主(英語ではロード(絶対なる主)と呼び始める。これは俺たちすべての人間にも言えることだ。本当の真実の神様に出会うとき、超越した存在を知ってしまった時、俺たちは必ず自分の存在が小さく、無くなってしまうと感じる。もしただ自分より優れている人間に会っただけで、自分の存在が揺るいでしまうなら、本当の神を目の前にした時、自分が聖なる存在とはかけ離れていて、汚く、罪深く思植えるのは当たり前だ。

でもここでスゴイことは、イエスはそんなペテロや俺たちを拒否しないことだ。同時にイエスは「お前は罪深くない」とも言わなかった。むしろ人間の罪深さを完全に把握しながらも、「ついてこい。」と言う。ここに聖書のメッセージである、福音と恵みがある。一方的に与え、そして恵みによってのみ俺たちを認め、受け入れる神。イエスに会うとき、俺たちは自分の存在価値とアイデンティティーが完全に変えられ始める。

それからイエスは、「仕事の本当の目的」をペテロに伝える。「人間を捕る漁師にしよう。」と。仕事の本当の目的は、俺たちに必要なものを満たすためではない。お金でもなく、ましてや自分の存在意義を見出すためでもない。そんなものは永遠には続かず、そして他の優れた者が現れた時、簡単に覆されてしまう。でも本当の目的は、「漁師の先にある漁」であり、「仕事の先にある「仕事(役割)」だ。「人間を捕る漁師」と同じように、「人々の為になる仕事」、それは自分以上の為であり、人々の為になることの為に働くことだ。

カンブリア宮殿などを見ている人は分かると思うが、必ずと言って良いほど、成功している企業の信念は常に、「お客様の為」、「世の中の為」、「社会のため」という人々の為と言う原則がある。利益や稼ぐことの為にやっている企業は常に潰れて行っている。それと同じように、俺たちが「自分の為に仕事をすることを止めること」ができた時、本当の「仕事」ができるようになる。他の仕事や人とも比べなくなる。成功の概念が全く変わり、仕事の動機そのものが変わる。

イエスについて行くために、ペテロが置いて言った物は、船や網だけではなかった。考えて見ると、「収穫した大量の魚」も置いて行ったのだ。あれほどの量の魚なら、築地に行けばかなり莫大の収入が入っていたはずだ(笑)。他の漁師たちも、「え?魚はどうするの?もらっちゃって良いかな?」と思ったはずだ。でも自分の仕事の先にある「仕事」、人間を捕る漁師に比べたら、そのような金銭的価値や成功は、ペテロにとって小さく見え始めていたのかもしれない。

これはアブラハムの人生でも同じだった。神は「あなたを通して他の人々が祝福するために、あなたを祝福しようと」言った。俺たちは、自分が「祝福される仕事」を選ぶのではなく、「自分が祝福となれる仕事」をするとき、本当の人生の目的に生き始めることができる。

教会やミニストリーでも同じことが言える。自分を満たして、存在意義を与えてくれるから教会に行くのではない。ましてやそのためにミニストリーするのではない。自分が祝福となれる教会に仕え、そして人々に仕えるためにミニストリーがあるのではない。仕えるのはリーダーや立場をゲットしてからではなく、それらがなくても自然に仕えるものだ。

更に言うと、自分の一番心地よくて幸せになれる町や、場所、仕事、教会を基準に選ぶのではなく、自分が一番神様に用いられ、人々の為に機能できる基準でそれらのことを選ばなければならないという事だ。リーダーになれるから、尊敬されるからなどの理由ですら基本的に間違っている。

ペテロや弟子たちはイエスについて行く中で、それらのことを自分の失敗の中から学んで言った。ペテロは常にイエスに気に入られようと、「行動や言う事」を通して、自分を良く見せようとした。ヨハネは偉くなりたいと思い、イエスに良い地位をもらえるようにお願いまでした。でも、結局彼らは失敗して、イエスを見捨てるまで、「自分の良い行い(仕事)」を通して受け入れてもらえると努力していた。イエスが見せようとしている愛や恵みのことがイエスが死に復活するまで分からなかったのだ。

特にペテロは、イエスが十字架で死んでしまう直前に、3回も否定してしまい挫折する。頑張って見栄をはり、イエスや人々に気に入られようとして来た自分がその時すべて崩れた。罪悪感と自分に失望感に襲われた。しかもイエスは死んでしまった。そんな状況からペテロは、イエスの復活によって、自分の本当の価値を見出した。「ただ一方的にイエスに受け入れられ、愛されている自分」を見つけた。「あれほど失敗し、イエスを裏切り、そしてボロボロなのに。3年前に一番最初にイエスと会った時の、罪深く汚い自分と変わらないじゃないか。」と思ったと俺は思う。でもそれでも自分を受け入れ、弟子としてくれて、そして今でも友として接してくれているイエスに自分の存在価値を置くことができたのだ。

これも俺たちも同じことだ。俺たちは、イエスの死と復活という福音を完全に理解し体験するまで、いくらあがいても分からない。福音なしでは心底変わることはできないのだから。感情的な決断や「ノリ」でクリスチャンの人生をスタートしても、必ず福音をトコトン理解しなければ本当の意味では変わらない。

それはペテロのこの出来事でハッキリと分かる。ヨハネ21章で、ペテロがイエスに出会った時と同じ出来事が起きる。イエスが復活した後、弟子たちはペテロの案で、また漁に出かけた。この日も何も釣れなかった。その時、浜辺の方から声がした、「友よ。魚は釣れたか?」。そこでイエスは同じアドバイスをする、「横の方に網を下してみろ」と。そしてまた大量の魚が釣れる。そしてその時、ヨハネが言う、「あれは主だ!」。
その瞬間、ペテロは上着を取り、腰に巻いて、真っ先に海へ飛び込み、そしてイエスのところに泳いで言った・・・。この時のペテロの行動を、最初の出会いと比べてみてほしい。真逆だ!恐れていたペテロが、神様に向かって自信を持って向かって行った。

これはペテロが愛され、受け入れられ、そしてすべての自信と存在意義がイエスにあると気づいたことの証拠だと俺は思う。そこに行くまで、ペテロは3年掛かったのだ。しかも常にイエスと一緒にいながらも・・・。

俺たちも同じだと思う。クリスチャンになっても、本当の福音のメッセージとその意味の偉大さに気づくまでは、俺たちはまだ自分の自信を神様以外のところから得ようとする。仕事、成功、パフォーマンス、持っているもの、美貌やカッコよさ、また地位や、そして牧師・リーダーと言う立場でさえも、ミニストリーでさえも自分のアイデンティティーとなってしまう。それを聖書では偶像礼拝という。イエスの福音以外のものに頼る時、俺たちはまだ自分の中で宗教をやっているのだ。自分の努力で自分を救おうとしているのだ。自分のパフォーマンスが義となってしまっている、パリサイ人や宗教家と何も変わらない。

ペテロや弟子たちの様に、決して諦めずに、何度も失敗してもイエスについて行こう。
そして自分の本当の存在意義(アイデンティティー)を見つけ、そして本当の「仕事」を見つけ、使命を全うしてほしい。

ではまた。

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2014年3月15日 (土)

使命を受け取ることの重大さ

先週はアブラハムの人生から、「使命」の重要さについてメッセージをした。
使命は英語では、「Calling 呼ばれる」が一番近い訳かもしれない。

世の中の人々は、自分の生きる理由や価値、そして自分の存在意義を、様々なことから見出そうとして来た。侍の時代や戦争が多かった時代は、「生き様」や「役目(Duty)」、一昔は、「社会的地位」や「裕福さ」、現代は「自分で自分の価値を決めろ」が中心であり、「自分のビジョン」、「スタイル」、「スキルやタレント」、「宗教」、「地位や権力」、「成功」など様々なところから、個々に目的や意義を見つけようと生きている。ある意味、形上の「自由」があるが故に、人生の生きる理由を見つけることは、昔よりもっと困難で難しいかもしれない。

そしてアブラハムの時代の人々も、ある特定の「価値観」を元に生きていた。彼らにとって重要だったのは、「家族と子孫たち」、「広大な土地の所有」、「奴隷と働き人たち」と、これらをどれほど多く所有しているかを重んじ、それらが人の人生に価値あるものとして考えていた。

そんな世の中で、アブラハムは他の人間の生き方と比べて、特にユニークで冒険的な人生を生きた。アブラハムはある特定の場所には住まず、常に神様の目的へ向かいて動く人生だった。それでも彼の所有していたものは他の誰よりも多く祝福されていた。ようは世の中が重視していたもの為には生きなくても、祝福され神の使命を全うした。そして、現代の3大宗教が彼の人生から学ぶような、歴史的人物になっていった。彼はとにかくデカい人生を生き、そしてBIG DADDYになっていった。

アブラハムにそのような「人生を生きさせた」ものは、「神からの使命(Calling from God)だった。そう、クリスチャンにとって生きる目的や基準は、世の中や社会とは全く異なるものだ。今回はこの神様からの使命は何なのかを見ていきたい。

神様の使命は完全に「恵み」によるもの。

まずアブラハムの家系やバックグラウンドを見てみたい。
彼の家族は代々、「本当の神」を崇めてきた家系だった。アダムから始まり、そしてセスに至り、そしてアブラハムの父親はテラだった。この時ではこの地球上で最後の「クリスチャン家族」だった。その責任は重要で、必ず子孫をしっかり残し、後世に神様の存在とその生き方を伝えて行かなければならなかった。だが、ここで問題が起きる。セスの後から、その家系は「他の神々(偶像)」を崇拝し始めたのだ。しかもアブラハムの父親の名前はテラ「月」と言う意味で、月を崇める宗教に入ってしまっていた(ヨシュア24:2参照)。その当時、一般的な信仰の対象は、「創造主」ではなく「創造物(造られたもの)」を崇めるのが他の国や人種の宗教だった。太陽、大地、海などだ。この辺りは、仏像や地蔵、山の神などと言った日本の宗教も似ているだろう。

ようは、唯一、全知全能の創造主である神を崇めていた最後の希望である家系が無くなろうとしていたのだ。しかももっと絶望的なのは、アブラハムの妻、サラが不妊だったことだ。霊的にも、そして身体的にも希望は消えかけていた。そんな絶望的な時に、その「神様からの使命(Calling)」がアブラハムにやってくる。

「あなたは国を出て、親族から離れ、父の家を離れ、私が示す地に旅立て。あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。そしてあなたは他の人々の祝福となるだろう・・・。」
(創世記12:1-5)

この時、アブラハムは別に何も特別な存在ではなかった。彼の家族は、「造られたもの」を崇めていたバックスライド・クリスチャン。そんな環境で育ったので、神様の為に生きていたわけでもなく、大きな使命感を持っていたわけでもなかった。ただ世の中に流されて生きていた、「なんちゃってクリスチャン」だ。

ここで分かることは、「神様の使命」は俺たちにその「資格」があるから受け取れるものではなく。逆にその使命が俺たちに「資格」を与えてくれるということだ。それは完全に恵みであり、むしろ絶望的な時にやって来るものだ。そしてその目的も自分たちの成功のためでもなく、完全に神の計画と目的の為だ。

これは俺たちの人生でも同じだ。クリスチャンの家庭で育とうが、また世の中の家庭で育とうが、バックグラウンドは関係ない。結局、その一人ひとりが個人的に神様のCALLINGを受け取らなければ、何も始まらないのだ。

勘違いしないでほしいのは、別にクリスチャンの環境という家庭が悪いと言っているわけではない。俺には2人子供がいるが、もちろん聖書に従った育て方をし、神様の存在を教え、神との関係を持ち成長するように全力を尽くしている。それでももし彼女たちが、自分で信仰を確信し、個人的に神との使命と歩みを受け取らなければ、結局クリスチャンと言う宗教をしながら、自分の「キャリア」や「結婚相手・家族という幸せ」など「造られたもの」を崇めると対象として生きてしまう。「神様からの使命」を個人的に受け取ることは、しっかりとしたクリスチャン人生にとって絶対必要不可欠なものなのだ。

次にこの使命は、絶対的に神様に頼らなければいけないという事だ。

ここで神様がアブラハムに言ったことに注目してほしい。
簡単に言うと、「とにかく自分の今いる環境から離れて、出て行け」だ。
実際に「どこに行け」という指示もない。GPSのロケーションや地図もくれない。
アブラハムの人生は常にこんな感じだった。

神様:「旅立て。」
アブラハム:「どこへ?」
神様:「後で分かる。」

神様:「息子を与えよう。」
アブラハム:「え?どうやって?もう90歳ですけど??しかも奥さんは不妊ですが?」
神様:「後で分かる。」

神様:「唯一の息子を殺し、私に捧げなさい・・・。」
アブラハム:「なんで?子孫を与えるという約束は??」
神様:「後で分かる。」

正直に言うと、これがクリスチャンの人生だ。一見リスクもあり、恐れもある。でも絶対的な守りと、約束、希望、そして世の中の基準とは違う、ドデカい未来と祝福がある生き方だ。

昔から俺は、メッセージなどでビジョンや人生の目的を話すことが好きだった。すごく興味深いテーマだし、人々の人生のビジョンを見出してあげることもすごく意義あることだと思っていた。でもある時、これはある意味凄く危険な事だと気づいた。俺たちは「自分の使命」そして「自分のビジョン」の詳細にこだわり過ぎてしまうからだ。「夢を持て」、「ビジョンを持て」と掻き立てても、結局「自分の為」だけのビジョンや夢になりかねないのだ。いくらビジョンがあって、情熱とやる気とスキルがあっても、必ずしも神様の使命を生きているかというと、実際はそれから遠く離れていることがある。結局、世の中の人と同じく、自分で自分自身の価値を決めているに過ぎない。

アブラハムの人生の行き先は常に明確だったわけではない。もちろん「大きな全体像」は与えられていた、「息子が生まれ、子孫が多くなり、そして広大な土地を所有し、そして人々の祝福になれる」。でも「それがいつ、どこで、どのようにして」までは分からなかった。なぜならアブラハムの使命は、それらを得ることではなく、「神を信頼する」こと自体が使命だったからだ。「神そのものがお前の報酬」だとも、神はアブラハムに言った。

俺たちは神を信頼することを忘れると、このように神に問いかけてしまう。

「どこに行けば良いですか?それが分かれば従います。」
「どのような仕事をすれば良いですか?そしたらその収入で教会や宣教に献金します。」
「誰と結婚すればいいですか?結婚したらあなたに仕えます。」

実は、アブラハムは神が約束したことすべてを受け取ったわけではなかった。それは後の子孫から生まれたイエス・キリストを通して成就される。でも常に希望と信仰は神にあった。

ティム・ケラーと言う牧師は、クリスチャンの人生は「アドベンチャー」ではなく、「クエスト」だという。アドベンチャーは、現実の生活から離れ「冒険」をして帰ってきて、元の生活に戻るがクエストは違う。クエストは一度旅立ったら、2度と帰ってこない。むしろ帰ってきても、その経験と生き方から全く違う自分と言う存在になり、元の生活には戻れない。例えると、アドベンチャーは、「ピーターパン」や「不思議の国のアリス」だが、クエストは「LORD OF THE RING」かもしれない。クリスチャンの人生は、神様の使命を受け取った瞬間にすべてが変わってしまう。今までの価値観が覆され、存在意義が変わる。2度と同じ人間には戻らない。神様の愛と恵みによって、本当の自分と使命を見出すからだ。

次の「使命」の側面は、「自分の為の祝福が軸ではなく、他の人々への祝福が中心」だということ。

神様がアブラハムを祝福したのは、彼を通じて他の国や人々が祝福されるためだった。自分の祝福と成功が目的ではなかったのだ。だが多くの現代のクリスチャンの人生の決断の基準を見てみると、この基準からずれているようにも感じる。

どこに住もうかと言う選択に対しても、どんな仕事を選ぶに関しても、誰と接することに関しても、誰と結婚するに関してもすべて自分中心の「自分がやりたいこと」の様に感じる。

どの町に住むのが心地よいか?どの仕事が一番稼げるか?誰と結婚するのが一番幸せになるか?どの教会が一番自分に合うか?

別にこれらの事は悪いことではない。でもそれらは使命そのものであってはならない。それらは使命に向かって生きる時、必要に応じて神に与えられるものだ。もしこれらの基準に従って決断していたら、俺自身はまだスイスに住んでいたかもしれない。スイスの方が心地よく、給料も良いからね。別にスイスに住むことが悪いわけでもない。でも最大限に他の人々の祝福にはなっていないだろう。

使命を生きる上では、自分と言う存在が一番「他に取って祝福となる」場所や環境を基準に選ぶという事が大切だという事だ。自分中心に考えているのなら、いつまで経っても神には本当の意味で用いられないと感じる。

クリスチャンでありながら、仕事と言うキャリアや結婚と言う理想、また自分自身の容貌や人々からの人気度などが優先であり、または自分の幸せ度と心地よさが自分の存在を満たすものであるかぎり、「神様の使命」にまだ生きていない証拠だ。アブラハムの父親テラの「造られた物」の偶像礼拝と何も変わらない。福音を忘れしまい、恵みに中で生きていないという事だ。結局自分の存在意義を神様以外のものから見つけようとしているに過ぎない。ミニストリーや牧師と言う仕事ですら、その偶像になりかねない。当時の宗教家の様に自分の宗教(努力して神に認めてもらうこと)をし、自分で自分の救世主になろうとしているだけだ。イエスの福音を受け取るということは、それらの基準がすべてひっくり返り、神様の愛と恵みに基準が変わることだ。

最後に、「じゃ、どうやってアブラハムのようなデカい人生を生きることができる?」かを見たい。それは、最初に言った。「恵み」が鍵だ。それは努力して掴むものではなく、「やってくる」ものだ。イエスに完全に頼り、恵みを理解するときそれは始まる。

アブラハムにとって、すべての約束は、「息子が生まれるかどうか」に掛かっていた。息子が生まれなければ、子孫もなく、そして土地を所有しても何も意味がない。何十年も常に「息子」に希望をおき、神を信頼して生きていた。これは俺たちも同じだ。
唯一の神の「息子」、イエスに常に信仰と信頼をおいて生き続けなければ、このクエストを達成することは決してできない。神の子イエスがすべての鍵だ。

一旦、自分の願い、夢、ビジョン、野望を置いてみてほしい。それらが神様よりも、人生の原動力になってしまっていないだろうか? 俺たちが神様に完全に頼れるようになるまで、神様は俺たちの人生の様々な事を変え動かし、レッスンをしていくだろう。

アブラハムの様に、デカい人生を生きよう!

ではまた。

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2014年3月 7日 (金)

レアの愛を求める戦い

前回はヤコブの視点から彼の「幸せの追及」の人生を見たが、今回はレアの視点から見てみたい。そう、ラケルではなくレアだ。

聖書箇所などは前回のブログを参考にしてほしい。

レアの人生は良く見てみると、ほとんどヤコブと似た人生だった。

状況は違うが、違った形で幸せを求めている。

彼女は長女であるにも関わらず、ラケル(美人でスタイルが良 い存在)の陰に常に生きてきた。ラケルはみんなの人気者、モテるし愛される存在。

でもレアは聖書にある通り、「目が弱い」と言う存在。この意味はおそらく、美人でなかったどころか最悪の場合、身体的に「目が偏っていた」とも理解できる。

家にばっかりいた「男らしくないヤコブ」そして父のお気に入りではなかったヤコブと同じく、レアは美人ではなく、そして人気者ではない存在だ。そしてヤコブが弟だったという事と対照的にレアは姉だった。

レアは父ラバンがヤコブを騙さなければ結婚できないような存在だった。だからラバン もそのようなやり方でレア嫁がせた。これもヤコブが母親の助言を受けて兄と父親を騙したように、レアもまた父ラバンの計画に従い、ヤコブを騙して結婚した。もちろんそんな形で本当の幸せは得ることはできなかった。

でももっと最悪なのは、今までの宿敵?であるラケルと「同じ夫」との結婚だった。結婚してもなお妹の陰で生きなければならないレア。そしてヤコブはレアではなくラケルを愛しているのも明確だった。レアはいつも愛に飢え、そして結婚生活内でも常にヤコブから愛を受け取ろうと必死になる。

ある意味とてつもなく切なく、かわいそうで絶望的だ。レアはそれでも、子供を産むことでヤコブに認められ愛してもらえるという事で努力を重ねた。そして神様もレアの胎をラケルよりも先に開き息子たちを授かっていく。

レアは三番目の子供まで、「夫ヤコブへの思いを込めて」命名した。

最初の子供の意味は、ルベン 「彼はやっと愛してくれる」。

二番目はシメオン「彼はやっと私の苦しみを聞いてくれる」。

三番目はレビ「彼はやっと私に加わってくれる(繋がってくれる)。

または私を「見てく れる」の意味。

またまた切ないが、これはレアがどれほどヤコブをある意味「救世主」として見ていたか分かるだろう。ヤコブの愛さえ得れば「幸せになれる」、良い母親になれるという思いだった。でもそれは叶わないことだった。

このレアの人生を見て行くと、多くの現代の女性たちも似ているかもしれない。雑誌を見るたびに、テレビをつけるたびに「自分より美人な女性たち」を見て比べてしまう。いつも「その陰」に生きているようで、いつかあのように美人になれればと思い日々を暮らす。そしていつかは幸せな結婚、そして愛してくれる存在を求め生きている世の中の女性たちは多いと思う。

これもまた何千年も前の社会と現代も何も変わらない。「人は永遠の愛を求める」と聖書が言っているそのままの現状だ。ヤコブもレアも違う形だが、同じ愛と幸せを求めている。ヤコブは成功と美しい結婚パートナーを通して、レアは結婚と家族、そして子供を産み「良い妻」となることで報われると思ってきた。

現代の多くの女性もそうかもしれない。結婚していても夫からの愛がなく、子供に希望を置く。「せめて良い母親として子供を素晴らしい大人に育てることが出来れば・・・。」と思う。でも結局は本当に子供のためではなく、実は自分の「心の穴」を満たすためになってしまう。そのため本当に子供を愛することができず、異常に過保護になってしまったり、夫よりも子を優先してしまう。そして子を叱ることを恐れてしまう。「嫌われるのではないか」と思い、勉強や習い事を過剰にさせ子供にすべての人生をかけてしまう。でも子供にとってもそれは重過ぎる人生だ。これもまた虚しい。

でもレアの人生にはある転機がやってくる。本当に興味深いのは、4番目の息子ユダの意味だ。今回は一切夫への思いが現れていない。

ユダのその意味は、「神を賛美する」。

そう、今まではヤコブが対象だった。彼への思いを今までの子供の名前にもぶつた。でもようやくレアはヤコブと同じく最終的に一番大切なことを悟った。「神様以外に私を満たし本当の自信と幸せを与えることはできない」ということだ。夫も子供たちもそして家族ですら・・・。神様だけが真実と永遠の愛を与える。だから神への信仰と思いを感謝しユダと名付た。しかもここでレアが使う「神」と言う言葉は非常に興味深い。この当時一般的にはどの人種も国も神と言う存在に対して使っていた「神」と言う言葉があった。でもイスラエルの神には、アブラハムやヤコブなど個人的に本当の神様歩んできた神様への呼び方があったのだ。その呼び方は「ヤハウェイ」だった。レアは普通知るはずもなかったこの呼び方を使ったのだ。レアは彼女の先祖から聞いていたのかもしれない。本当の神は、「個人的に一緒に歩んでくれる愛に満ち溢れた神」ということを・・・。

 もっと面白いことに、実はユダの子孫から救世主のイエスが誕生する。ラケルの子孫じゃないんだ。結果的にレアが救世主の母親になり、そしてヤコブにとっても、彼の先祖にとっても、歴史的にも、重要な妻となったのだ。俺が思うに一番ヤコブを理解できるソウルメイトだったかもしれない。同じ境遇を生き、そして同じ苦しみを生き、ヤコブの本当の理解者だったかもしれない。

美人ではなく、愛されない、そして希望がない女性。でも神様の目と計画にあっては救世主を生む母親。ここが聖書が描く本当の神様のスゴイところだ。新約聖書でもあるように弱い者、 愚かな者、世の中の基準から外れた人々を受け入れ、そして彼らを通し素晴らしいことをする神。このストーリーには本当の神様の恵みと愛が溢れている。そしてこれは俺たちが絶望的な状況と思われるときでも、真実の神様だけが心の奥底と魂を満たしてくれる存在だと悟り、そして頼る時に、歴史を変えるようなことを俺たちの人生にしてくれるという証拠だ。

 最後に言いたいことは、本当のレアはイエスということだ。自ら「愛されない存在」になり十字架に架かった神。そうすることにより、俺たちが代わりにラケル(美しい存在、愛される存在)になれる。でもイエスがその報いとして受け取ったのは、救世主という称号と、そこから生まれる俺たちという子孫たち。そう、レアの様に・・・。もうレアやヤコブの様に愛と幸せに飢えなくて良いように、俺たちの代わりに苦しみ、飢え、蔑まれ、そして神と葛藤しながら俺たちに本当の愛と幸せをもたらしてくれるイエス。これが聖書が示す、福音だ。それは「ただ良い人間になれ。もっと道徳心を持て」という教えだけの、単なる宗教を超えている。福音は宗教ではなく、「良い知らせ」それを受け入れると共に、自然に俺たちの心に感謝と希望が満ち溢れ、そして神に変えられていく。俺たちが神に近づいたのではなく、神が俺たちのところに来てくれたのだから。

牧師としてこの本当の福音を皆に分かって、受け取って欲しいと思う。

ではまた。

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