リーダーシップ

2014年12月10日 (水)

世界は広い

昨晩、ニューヨークでの「教会開拓者達をトレーニングする」ためのトレーニングから無事帰ってきました。

今回のリーダーシップの学びは今まで経験してこなかったようなトレーニングだった。
大概セミナーや授業と言えば、偉大なリーダーや素晴らしい方法論やノウハウを知っている人物から、「インフォメーションを受け取る」またはできるだけダウンロードする形式がほとんどだった。聞いた情報を自分のものにしようと努力するが、あくまで「情報」なので、現状を経験したり失敗しないと本当にその「情報」の意味が分からない場合がほとんどだ。
でも今回の違いは、ただ情報を受け取るのではなく、自分で経験し考え、様々な状況や場合によって対応し戦略や解決を「生み出す」ことができるようになるためのトレーニングだった。

例えば、「はい。この9本の釘をこの鉄の板の上に重ねて上においてくださいね」と言われ、チームごとでどのチームが早くそれを達成できるかをいきなりやらされた。何の指示もなく、はいどうぞ。みんな困惑しながら10分後、「はい。終了~」。何のトレーニングかと思いながら、どのチームも達成できていない。「当たり前だ~。9本の釘を重ねて上に置くことなんてできないだろ~。」と思っていたら、実はそれがトレーニングの目的ではなかった。結局、そのあとに聞かれたのは、「チームで誰が勝手に仕切っていた?」、「誰が意見を言ったり、また誰がただ黙って人任せにしていた?」などの質問。要は、その場で誰がどのような性格で、どんなリーダータイプがいて、誰がやる気ないなどの状況判断力の例だった。その判断から開拓者たちのチームを編成したりする学びだ。要は経験していることを分析し、判断し、そして戦略を練る。なぜなら実際にしていることから、人間はもろに性格がでるし、くだらないゲームでもそれは明らかになる。言ってしまえば「遊び」からでも十分なほどの自分リーダーたちの性格や能力の分析と情報収集ができるわけだ。

でも俺たちはこのような考えることに慣れていないことにも気づいた。特に日本は教育そのものが、ただ情報を得て学ぶことを中心に構成されているので、「自分で物事を考えて決断」できない世代になってきている。これは今の教会現状でも同じだと思う。日本人は真面目なので、「言われた」ことを真面目にやる。疑問にも思わず、思っていても質問すらしない。なので、日本人は何(what)とどのように(how)は大概わかるが、WHY(なぜ)そのようにしているのか、またその「なぜ(WHY)」から何(WHAT)を生み出し、どうやって戦略(HOW)を考えていいのかわからないのだ。

これは良い面もあるが、危険な要素もある。上のリーダーが良ければ、一気に良い方向に向かうだろう。でも悪いリーダーだったら?一気に悪い方向へ皆流される。だから危ない組織やカルト化する団体も日本に多い。

話しを戻そう。このようなトレーニングは、「考えさせる」ことがすごくできると感じた。そしてこれからの日本の教会を開拓していく中でかなり重要なスキルだ。日本の教会は今まで海外に教わってきたことを忠実にこなしてきた。あそこの国の成功している~教会のスタイル。~教会の戦略。~教会の祈り、ワーシップ。それをちゃんとやってきたが、時代の流れと変化の速さに追いついていけず止まってしまっていることも感じる。それ以前に福音というものを日本に「文脈化」させることもほとんどしてこなかった。だから多くのリーダー達が何をどうしてよいかわからない状況だと感じる。

今回、トレーニングの後の週末に、3つの教会の礼拝に出席することができた。その一つはRedeemer Presbyterian Church NYCだった。JAZZスタイルの音楽の礼拝と聞いていたのですごく興味があった。礼拝の場所に入った瞬間思ったことは、「え?ごく普通の伝統的な教会」。建物は綺麗だが、特に何の飾りもクールな要素もなし。ライトも明るく演出もない。でも曲が始まった瞬間、「あ。ニューヨーク?!」。そうJAZZと言えばニューヨークの雰囲気。そして思ったのは、「この忙しく、騒音が激しい都市ですごく落ち着く・・・」。自然と歌っている讃美歌の言葉が、静かに心に入ってくる。朝はダイナミックな賛美のヒルソング。礼拝後には興奮と意欲の高まりがあるが、ここでは逆に癒され心が透かされ、そして涙が出る感じだった。「もしかしたら大都会でこの安息もとてつもなく大切なのでは?」とも思った。ある意味、ヒルソングはオーストラリアという文化で生み出したモダンな賛美スタイルをNYCに文脈化させたものだ。でもREDEEMERは、独自の伝統的なスタイルからうまくカッコ良く、NYCの文化に合わせて様々な福音の伝え方をしているように思える。

そして更に、思った、「日本人の心に届く福音の伝え方をもっと突き止めたい」と。
その為には、もっと「福音」をとことん理解し、そして自分の住む文化において柔軟に考えることが大切だと思い知らされた。

正直言うと、俺たちはそれぞれの生まれ育った「クリスチャンの環境」だけで物事を見ているように思える。それがモダンなスタイルの教会であれ伝統的であれ、拘ってしまった瞬間にその作り出した文化に固着してしまう。そして仕舞には、その自分の経験や文化だけが正当で唯一だと言う態度になっていってしまう。その瞬間、「新しいもの」が一瞬でで「古く」になる。本来、「福音という神様の文化」だけが俺たちクリスチャンの「基準」であり文化なのに、自分の経験と好みが、福音よりも強くなってしまったとき、「宗教」が生まれてしまう。「福音」が「どんな文化にも浸透し順応すると同時に、間違った要素を変えてくれる」ことを忘れてしまうのだ。

でも「福音」の土台をしっかり持った時に、世界はもっと広くなる。もっとクリエイティブになる。もっと自分と自分の文化を好きになる、そして同時に自分と自分の文化の弱さも正直に受け止められる。もっと多くの意見やスタイルの人々と「教会」ができるようになる。

これからの日本が本当に楽しみだ。日本を「イエスの福音」によって変えていこう。

ではまた。

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2014年1月29日 (水)

リーダーシップの定義

OO+ CHURCHをスタートする上で、これだけは人々にしっかりと分かって欲しいと思ったことがいくつかあった。

その中でも教会で常に強調したいと思っているのは「リーダーシップ」についての正しい理解だ。

以前のブログでも、世の中(社会)が示すリーダーシップと聖書が示すリーダーシップでは根本的に違いがあるという事に触れた。世の中の企業や組織の多くは、「TOPDOWN」と言う考え方が基本ということ。簡単に言うと、ある優れたリーダーのビジョンやアイデアを中心に、その目的に対して他の人々(従業員や部下)をどのように利用し、「仕えさせていくか」と言う考え方だ。

聖書では、本来の正しいリーダーシップは逆だという事を常に強調している。リーダーが他の人々に仕えられるのではなく、リーダーが他の人々に仕えるという考え方だ。イエスは、もっと強い言葉を使ってこれを強調した。

「誰でも一番偉くなりたい者は、すべての人々の奴隷(仕える者)にならなければならない。」
(マルコ10:44)

イエス自身が人々の罪を背負い人類を救うために仕えたように、俺たちも同じ態度で仕えることがリーダーシップだと断言した。

でもこの「奴隷」または「仕える」という言葉を聞くと間違ったイメージを持ってしまう場合があると思う。特に日本では、人々に振り回され、こき使われるような存在をイメージしてしまうケースが多くあるだろう。でもこれもまたリーダーシップの間違った考え方の一つだ。イエスは決して他の人間に振り回わされたりするような導き方はしなかった。しっかりとした信念と価値観を持ち、同時に行動のすべてが「人々の為」と言う形で人々に仕えた。

実はさっきのイエスの言葉は、弟子たちがある「リーダーシップのポジションをください」とイエスにお願いした時に言った言葉だった。弟子たちは、イエスについて行けば「リーダーに(偉く)なれる」と内心考えてついてきていた。それに対してイエスは、「お前たちは勘違いしている。」とハッキリ叱った。リーダーのポジションに着くためにリーダーの行動をするのではなく、人々に仕えたいからリーダーシップを目指すのだ。

そして「仕える」ことはリーダーと言うポジションになる前から、実践することができる。ある特定の成果を出しているからリーダーという称号を与えるという事はできるだけ避けなければならない。なぜなら人それぞれ「仕える」ことができる分野や形が違うからだ。もちろん教会が成長していくと共に、うまく人々のケアをする目的のためにあるリーダーたちを任命し、システムを作って行かなければならないのは当たり前だ。でもそれはあくまで、人々を育てケアする「仕える」ためでなければならない。同時に任命されたリーダーたちもそのような態度で導かなければならない。

OO+では、もちろんリーダーシップミーティングがある。でもこれを、「リーダー達のリーダーになるためのミーティング」には絶対にしたくないと思った。逆にリーダーシップミーティング=「どのようにもっと効果的に人々に仕えることができるかのミーティング」にしたかった。リーダーになることが偉大なのではなく、仕えることが素晴らしいからだ。

この原則はどんな分野でも同じだと感じる。「お客のため」を忘れて、利益と事業の拡大のみに集中し始めると、必ずと言って良いほどその会社は低下していき、人々の信用を失う。逆に、どんなに一般のやり方から見て矛盾で不可能と思われることでも、「人々の為」を忘れないやり方をしている企業は常に生き残り、時代のトレンドに流されずに成功している。

「リーダーシップ」は、リーダー達の為にあるのではなく、皆が仕えることができる為にあると感じる。だからこそリーダーシップにできるだけ触れてほしいし、リーダーでなくでもリーダーシップ(仕えること)を体験してほしい。だからOO+のリーダーシップミーティングは、教会のリーダー達だけではなく、教会の「仕えてみたい人」みんなに開放している。そしてそこで自分の能力や使命に合った「仕え方」を見つけ、最大限神様と人々に仕えて欲しい。それをナビゲートするのが牧師としての責任だと感じている。

そしてある人は、OO+という形で長く仕える人もいれば、またしばらくして別の場所や形(教会)で仕える人も出てくるだろう。でもそれまで責任を持って導いて、送り出せるのなら励まして送り出してあげたい。どのような場所や形でも正しいリーダーシップをもって仕えるリーダーを養成していくことは、今の日本の教会にあっては一番大切なことだと思う。そして彼らを解放していかなければ日本はなかなか変わることはできない。

この間、SNSであるこういう名言が投稿されていた。

「あなたの箱(ミニストリー・仕えること)は、中身のプレゼント(イエス)よりも重要あってはならないことを決して忘れるな。」 

結局、教会やミニストリーの役割は、人々にイエス(救いと神との関係)を提供し、守るためであって、ミニストリー(リーダーシップ・仕えること)や教会そのものが、イエスと言う存在が薄れて、代わりに偉大になってしまってはならない。すべての教会のボスであるイエスが中心であるならば、教会は本当に健康に成長し、そして健康な意味で「偉大」な影響力を持てると感じる。それと同じで、リーダーになることが、本来の目的である「仕える」ことよりも重要になってしまってはならない。

もしみんながリーダーという立場にいるなら、もう一度自分のリーダーとしての本来の目的を考え直してみよう。人々の可能性を解放し、励まし、その人と神様の為である「仕える」ためになっているのか。または人々をある特定の形や目的だけに制限し、必要がある限りだけ利用し、使えなくなったら捨てるだけの「自分の目的中心」のやり方になってしまっているか。俺自身も常に確認し、本当のリーダーシップを持ち続けなければいけないと感じる。

日本人の心深くに刻まれた、「仕える心」を本当の良い形で発揮できるようにしよう!

ではまた。

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2013年10月 4日 (金)

オリジナル

日本の好きなテレビ番組の中で、カンブリア宮殿やガイアの夜明け、また未来シアターっていうのがある。ビジネスで世の中をリードしている人たちや、個人的にスポーツや仕事、またモノづくりの世界で活躍している人々を取り上げて、彼らの考え方や生き方を取り上げる番組だ。すごくインスパイアされるし、日本社会の良さや状況も学べる。

そこで最近の様々なビジネスや世の中の傾向の中で、よく言われることがあることに気付いた。それは、「他がやっていないことをやらなくては成功はできない。」という言葉だ。

今の時代、情報のネットワークやアクセスが広がった為、ビジネスの世界などでアイデアを生み出す上で、「他の人がやっていないことをやる」という事がドンドン難しくなってきている。新しいことが思いついても、すぐにまねされて一般化し、他の企業もやり始める。そして市場でのライバルたちも同じことをしているので、差をつけて売り上げを上げることも難しくなる。これはビジネスの世界のことだが、ファッションやアートのの世界でもユニークなものを生み出すことが出来なくなっているアーティストたちが増えている。これは同じく個人レベルのクリエイティビティーや個性を示す部分でも言えることだろう。

そこで世の中の企業や人々は必死に、他とは「違うこと」を生み出そうとして必死に見える。特別な何かを自分でもがいて作り出そうとしている。そんなように感じる。
そこでまた気づいたことがある。

それは、その「違い」を生み出せている人々は、「違い」を生み出そうとして来たのではないということだ。彼らは人と自分を区別、または差別するためには努力していないことに気付いた。彼らはただ自分自身に忠実に、自分の過去の経験や、思い、考え、また夢を忠実に実行し、形にしてきたという共通点があるように思えた。
ようは一言でいうと、「人と変わったこと(違い)をするのではなく、オリジナル(本来の自分)になることをしてきた」という事だ。

自分自身このOO+の教会を始める時に色々考えた。どのようなビジョンとするか。どのような価値観を中心と置くか。また神様はこの教会をどのような教会にしようとしているのか。
それらの考えの中で、自分が間違っていたのは、「他の教会とどういう違いを出さなければならないか」という事を必死になって考えてしまっていたことだ。
どのような違った賛美をすればよいか?どのような違った礼拝スタイルにするか?どのような違った伝道をすれば人々をもっと救えるかなどと考えていた。
そこで神様にハッキリと言われた。
「他と違う存在になろうとするのではなく、私がお前を造ったようにオリジナルになれ」と。
そう。あまりにも、人や他との違いを見せることにこだわり過ぎて、本来のなるべきものから離れようとしてしまっていたのだ。

結局、教会という存在のビジョンや価値は世界中同じでなければならない。人々を救い、洗礼を授け、教え、訓練し、愛し、ケアし、そして世の中や人々の需要を満たし、コミュニティーとして世の中に影響を与えて行く。イエスが言ったことを守り、聖書にあることに忠実になり神を愛し生きて行けるように薦める。それが教会の存在する理由だ。企業と違って製品やモノの売るわけでもない。「違い」よりも「一致」が必要になる。それでも、それぞれの教会にはそれその味や特徴が出てくる。なぜならパウロが言ったように、それぞれがイエスという土台の上に、各自、自ら素材を選んで建てて行くからだ。

それらに気付いたとき、「本当の違い」への一番の近道は、神様にあって自然体となること。そう、自分たちという存在を神様の中で認め、そして神様の形作ったイメージに忠実になること。そうすればそこオリジナルが生まれる。ただ世の中が必死に生み出した偽のオリジナル(結局同じ)ではなく、本当のオリジナルだ。そしてそのオリジナルが出来上がったとき、それは他を人々区別するような存在にはならない。逆に多くの人々を含み、一致していくものが出来上がる。教会の「スタイル」によって、境界線を引く必要がなくなる。なぜならそこには違おうとする必要もないし、常に自然にオリジナルだから。

日本の企業は今まで、海外の多くのものを真似て、そして更にそれらを進化させてきた。また日本の教会の歴史的にも海外の教会のスタイルをそのまま持ってきて上に、これまで教会を築こうと頑張り、浸透させようさせてきてかのようにも個人的には感じる。大会を開いては海外のゲストを呼んでは、「海外ではこうして成功しています」と聞く。でも日本の現実とは違いがあり、どうして良いのが見出せない。その繰り返しだけで、何も劇的には変わらず、多くのリーダーたちがフルストレーションが溜まってきているように思える。

でも最近の世の中の動きを見ていると、本来日本にあった良いものが見直され、そしてビジネスや様々な分野でそれらが復活し始めている傾向がある。オリンピックも東京で開催されることになり、震災から日本への関心や注目度も上がってきている。そしてその中で感じるのは、日本の教会のあり方としても、もっと「オリジナル」が見たいという思いだ。もっと日本の教会・クリスチャンが日本人の良さと可能性を持って活躍するのが見たい。誤解しないでほしいが、別に今までを否定しているわけではなく、海外からの働きを否定しているわけでもなく、また愛国主義になっているわけでもない。ただもっと日本で生まれた、日本の教会の本当の良さと影響力を見てみたい。それだけだ。

最初は教会の名前を決めることにも躊躇した。なぜなら使途行伝の時代では教会の名前なんてなかったし、ただ地名で区別するだけで良かったからだ。でも今の時代にただ「教会」なんて呼ぶこともあまり効果がない。

そこで思いつたのがこの教会の名前、OO+。何もない0の状態(O二つで∞)から神は+(良いもの)を作り出した。そういう思いで考えた名前。そう、この教会は他とは違う意味ではなく、でもただ神様にあってオリジナルになって欲しいという事だ。そしてこのクリスチャンが極少数の日本で新しい神様の為に生きる人々を生み出してほしい、そういう意味が込められている。

そしてこれらのことは、教会レベルだけでなく、人間一人ひとりに言えることだと思う。他の人と違うようになるのではなく、オリジナルなって欲しい。「違い」は差別や偏見をお越し、分裂を起こす。でも「オリジナル(唯一無二の存在)」はお互いを認め合い、尊敬することに繋がると俺は信じる。教会もそうだと思う。スタイルにこだわり、「これが私たちの教会と他の教会との違いです」と主張し始めると、互いに比べ合い対立する。でもオリジナルになることによって、比べる必要もなく、お互いを認め合える。そしてお互いから学べる。

神様が造ったオリジナルになろう。

また次回に。

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2013年7月27日 (土)

自由と律法(ルール)

2コリント3:17 
主(神)は御霊です。そして、主(神)の御霊のあるところには自由があります。

最近この聖書箇所にすごく考えさせられます。
キリスト教も含め、他の宗教や様々な団体や組織には、従わなければならないルールというものがあります。特に旧約聖書には十戒と言われる有名な10のルールがあります。ルールはこの世の中とって社会や人々を統制するためには必要なものです。決して悪ではななく、ちゃんと正しく利用するならば良いものです。

でも神様は初めからルールや規則を作って人間を統制しようとしていたわけではありません。アダムとエバには神様の決めた領域の中で自由が与えられていました。唯一のルールは「善と悪の知識の実は食べてはならない」ということだけでした。それ以外のことは神様との直接の関係から成り立っていました。初めから神様は人間と関係を持つ上で、「ルール」ではなく、「関係」を通じて繋がりたいと思っていました。

しかしアダムとエバが罪を犯した時から、ドンドン神様との関係から離れ、神様から身を隠し、その「関係」から遠ざかって行きました。それと共にルールや律法が増えて行きました。その当時人間は罪を犯したがゆえに、神と繋がるためには、儀式やある形(ルール)を通じてでなければ神に近づけなくなってしまいました。しかし、それは神様が本当に求めていた形ではなく、やはり人間一人ひとりと「関係」を取り戻したいという思いでした。旧約聖書には、律法やルールが沢山ありますが、実はそれらは神様が人々と再び「関係」取り戻そうとしたある意味のプロトタイプであり、イエスキリストという「恵み」と「自由」に行き着くまでの壮大なストーリーです。そしてそんな「律法の時代」の中でも神様と直接「関係」を持って偉大な事を成し遂げた人々の生々しい人生が描かれています。

そして神様の最終的な計画は、イエス・キリストでした。旧約聖書の時代の様に、儀式や律法を通じて神様と繋がるのではなく、人間一人ひとりが恵みと愛、そして信頼関係において得られる本当の「関係」を持てるようになるためでした。心から神様を信じて、強制や強要されてではなく、本当の「自由」の中から自らの意志で神様に従い、正しい生き方を選ぶ道です。それが本当の意味で神様と一緒に歩むことでした。なので本当のキリスト教の神髄は、ルールではなく自由にあります。自由とはただ自分勝手に好きなことを選ぶ権利ではなく、自らの判断で正しいことを選び、神様と人々を愛することができるようになるための「自由」です。

でも悲しいことに、それでも多くの人々は「ルール」を選んできました。多くのキリスト教の教会も恵みと愛と信仰を基準にするのではなく、ルールで人々を統制してきたしまったケースも多くあり、現代でも多くの教会がそのようになっています。

それはなぜかというと、「ルール」の方がある意味楽だと考えるだからです。「言われたこと」、「指示させられたこと」をすればよいからです。マニュアル道理に行動すればよいからです。そして導く側にあるリーダーたちにとってもマニュアルを作って人々に渡して、「これ「従ってください」といえば簡単だと考えるからです。

逆に「関係」を基準にすると、実は色々と面倒くさいと考えます。まず自分自身に責任が来ます。自ら考え行動しなければいけなくなるからです。そして自ら何が良い行動で悪い行動かを判断していかなくてはなりません。でもそこには「選べる自由」があり、本当の「関係」ができます。ルールには「自由」はなく、すべて機械的になります。

神様が人間に求めているのは、機械のような人間ではないです。その逆で本当の意思疎通ができる生きた人々との関係です。

これから教会のリーダーとして導いていく上で、神様にこのことをすごく言われています。

教会の規則やカルチャーなどを設定し、その中で人々をマネジメントして導くことはある意味簡単です。教会が小さいうちは、そんなに人々も多くはないので、牧師がそれぞれのメンバーとの友情や関係を持つことはできるかもしれません。でも教会の人数が増えると、「ルール」や「マニュアル」によって統制するという誘惑がやって来ます。でもここで思い出さなくてはならないことは、「関係」による導きを神様が求めているということです。もちろん牧師がすべての人と関係を持つことはできません。でもリーダーたちはそれぞれの人々と関係を持つことは可能です。でももしそのリーダーたちが「マニュアル」によって教えてこられてしまった場合は、またルール基準のリーダーシップや教会のシステムになってしまいます。

最近良く日本でも聞くことですが、現代の若者たちはすぐ「マニュアル」を欲しがります。学校や仕事・バイトの中で、最初に入って彼らが聞くことは、「マニュアルをください」、「指示をください」だそうです。そこで上司が、「自分で何をどうすれば良いか考えなさい」と答えると途方に暮れるケースが多いいようです。もちろんある程度の最初の指示は大切です。でもずっと指示が無ければ何もできないなら、その人は良い人材とは言えないと思います。創造力や積極性がないからです。数学でいうと、算式は覚えられるが、その算式を使った応用力を生かす問題が解けない状態です。現代では日本人の多くの会社や組織のリーダーたちが、真の「リーダー」ではなく、「マネジャー(管理者)」になってしまったとよく言われます。ようはただ「ルール」や「マニュアル」を管理するだけの人々です。

教会でも同じことになってしまう場合があると思います。リーダーたちが単なる「マネジャー」になると、人々への態度が冷たく感じます。なぜなら弟子やついてくる人々への対応が、ただ「教会のルール」だから、「主任牧師が決めたことだから」、「今までそうして来たから」という応答になるからです。そのようなリーダーたちは、マニュアルだけを覚え、教会や聖書の「WHYなぜ(原則)」を自分自身で考えて理解していません。だから自分の言葉や確信を持って相手の状況や心境に合った受け答えができません。しっかりとしたコミュニケーションを取らずにすぐにその人を突き放したり、グループから除外します。条件や考え方が合わないから出ていけとなります。そこには人間関係もなければ恵みや愛も無くなります。律法(ルール)は愛や恵みの逆です。

私自身教会のリーダーたちをこれから育てていく上で、「WHY」を理解するリーダーたちを育てて行かなくてはいけないと感じます。ただ「この本を読んで使いなさい」、「このやり方でリードしなさい」、「このやり方で伝道しなさい」、「この祈り方で祈りなさい」、「このやり方だけで神様と時間を過ごしなさい」はだけなく、自ら考え、アイデアを出し、神様から与えられた想像力を生かして、日本を変える何かを生み出して行ってほしいというのが私の願いです。そのためにはすぐに「ルール」や「やり方」というマニュアルを作るという誘惑と戦わなければいけないと思っています。時に「良い聖書の原則」であれ、それをルールとしてしまうことで教会が機械的な単なる宗教となってしまうケースがあります。

でもこのリーダーシップは時間が掛かります。イエスの教えや、弟子たちの時間の中でもこれらの事はハッキリと見えています。イエスはとにかく時間を取りました。弟子たちの失敗も何度もあり、時にイライラしながらも、それでも「関係」を築きました。「やり方」を教えるのではなく「生き様」を見せました。「祈り方」ですら弟子たちがアプローチするまで教えませんでした。しかもその教えは原則が中心で、スタイルなどの「やり方」ではありませんでした。マニュアルではなく神様との「関係」を重視したかったからだと思います。だからこそ、弟子たちがイエスを見捨てた後も、イエスとの関係に「戻ってくる」ことができました。弟子たちは、ルールではなくイエスとの「関係」を学んだからです。そしてイエスが離れた後も自分たちで考え、神様の計画をこなしていきました。

私の思いは、将来自分が育てていく人々が、自分の心で神様からの使命と目的を理解し、自分自身が神様との関係から確信を持ち、行動に移して行くことです。結局、人は自分の心で決めて納得しないなら行動に移さないし、動かないからです。ただルールに従う人は、その人の心もそこにはありません。もちろん教会を守っていく部分では、ある程度のルールや教会構成は確立していかなければなりません。でも「人々を導く」と部分では、ルールやマニュアルではなく、「人間関係」、「愛」、「恵み」、「忍耐」、「しっかりとしたコミュニケーション」、そして「信じてあげること」を中心に導きたいと思います。そして教会がそのように人々を自立させ、解き放っていく存在になってほしいと思います。

ではまた次回に。

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2013年3月 2日 (土)

イエスの人選と育て方

様々な組織、チーム、また教会を立ち上げていく上で、誰と共にチームを築き上げていくか、どのような要素を人材または仕える人々から求めるかで、そのチームや組織の価値観が決まってしまう。

一般企業の様に、経歴とスキルを中心に選ぶのであれば、スキルと能力を中心としたチームが出来上がり、態度や姿勢の部分はあまり重視されないケースが多い。そのようなチームでは一致やチームワークを築き上げるのは難しい。結局は「誰が優れているか」という競争心と負けたくない、上司に認められたいなどの「恐れ」による自己中心的な姿勢になりがちだからだ。

弟子たちも最初はそのような態度でイエスに仕えていた。誰が神の国で一番になるのかという競争心を持っていた。そこでイエスは世の中のシステムとは真逆のことを言う。偉くなりたければ仕える者になれ。」と。

1.スキル(能力)、
2.文化(チームや組織の価値観)
3.姿勢・態度

この三つは人が組織やチームで機能していく上で良く重んじられる要素だ。
一般的に世の中のシステムではこの順番通りに優先順位として見られる。
入社するためには、まずスキルと経歴が履歴書によって見られる。
そして気に入られれば面接に呼ばれ、会社の方針(文化や価値観)をちゃんと理解して面接に来ているかをチェックされる。そして最後にやる気と情熱、タスクに見合うコミュニケーション能力があるかなどが見られ、最終的に採用となる。

でもイエスの言う、神の国のシステムは真逆だ。

1.姿勢と態度
2.文化(チームや組織の価値観)
3.スキル(能力)

イエスが言うには、一番「仕える精神と態度」を持っている者が一番だと言う。
そしてイエスは弟子たちに文化(イエスの考え方と神の視点)を理解させるためにトコトン時間を費やし、彼らが分からなくとも忍耐を持って教え続けた。そしてスキルも彼らの持っている経歴などをちゃんと見て、その延長線にあるビジョンを示した。漁師だった者たちには、「人間を取る漁師」にしてやると先のビジョンを与えた。

イエスの12人弟子たちの人選の仕方はすごく興味深い。

しかもほとんどの者たちが最初から正しい態度と姿勢が出来上がってわけではなかった。ある弟子たちは、イエスに反乱する人々に対して、「天から火の玉を呼んで燃やしてやりましょうか?」などと、とんでもないことを言うほどの傲慢な態度だった。それでも可能性と人の将来の変化を知り、信じていたイエスは彼らを選び、チームを結成していった。そして3年で世界を変えるチームを作った。

イエスはまず姿勢と態度を正そうと何度も弟子たちに教えていた。そして最終的にはスキルと言うように繋げていったことが分かる。具体的に並べていくと:

A.ヤル気の姿勢:
「人間を取る漁師にしてやる」というビジョン見せ、やる気とついてくる態度を起こさせた。
 ナタナエルには彼の本人を可能性と「自分が誰か」ということを再確認させて、ついてくる気を起こさせた。

B.健康的な姿勢と自信: 
次にトコトン間違った姿勢を正した。競争心を注意し、傲慢さを正し、「ただ自分の名前が神の書に書き記されていることを喜べ」と言い、自分の自信をミニストリーや地位に置くのではなく神様に置けと教えた。

C.神の国の文化:
またマタイの書では、「神の国はこうである」と言って様々な神様の国のシステムを理解させようと教えた。この分野の教えはそれぞれの福音書の中でも多くあるがゆえに、どれほど弟子たちにちゃんと理解させたかったかが分かる。その中には、撒いたものは自分で狩り取る摂理、任されて与えられたもの(スキル・お金を含む)をちゃんと使い管理することの原則、そして信じる信仰のシステムが多い。

D.スキルと能力
次にイエスは弟子たちに様々なこと任せ始めた、二人一組で送りだし、悪霊を追い出すために祈らせ、洗礼を人々に授けさせ、群衆に対しての対応の仕方や、パーティーなどのイベントを開くこともさせた。時には分かり切っていることをわざと質問して、自分たちで考えることも教えた。

F.態度の再確認(愛と仕えることの姿勢):
ヨハネの13~17章辺たりでは、教えたことの総集編。イエスの彼らに対する愛、仕え合うこと、お互いを認め合い愛すること。神の国のすべてをはっきり説明して再確認させた。

G. 試練と困難に立ち向かう負けないタフさ態度:
そして最終的な要素は、挫折と失敗という試練。弟子たちがイエスの死により失望し、罪悪感を覚え、一旦躓くことだった。でもちゃんと絶対なる希望は失わないこと、イエスが復活し、彼らも必ず立ち直れることを言い励ました。このテストで唯一挫折したのはユダだった。とてつもない罪悪感と罪の意識に飲み込まれ彼は自殺した。でも彼だけが罪悪感を感じたのではない。ペテロも他の弟子たちも同じ感情と戦ったのが現実だ。

F. 本当のミッションへ
そしてマタイ28章では、ビジョンを明確にして送り出した。

このように並べて見てみると、本当に世の中のやり方とは違うことが分かる。土台と観点が全く違う。そして弟子たちの可能性と彼らの持つ良い人間性をとことん引出す育て方だ。本当にすごいと思う。

そしてもう一つ気づいたのは、アブラハムもヨセフも、モーゼも、ダビデたちも同じ様な過程を通っていることだ。ヨセフは夢(ビジョン)で始まり、態度と姿勢を牢獄などの試練で試された。ダビデも王になると分かっていても、サウルに仕え、また殺されかけながら態度と信仰を試され、不倫と殺人の過ちから罪悪感と戦った。

このプロセスは成長しようとしているクリスチャンたちには、必要不可欠な過程だと俺は感じる。ビジョンを与えられ、他の人に仕えて、態度を試され、失望するような出来事があり、それらを乗り越え這い上がっていく。みんなも共感できる部分はあるかもしれない。

リーダーとなっていく上で、この成長過程をちゃんと理解していることで、人々の様々な成長過程の局面での対応が違ってくると俺は感じる。

イエスの様なリーダーをとことん目指したい。

ではまた。

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2013年2月12日 (火)

ビジョンと価値観のバランス

ビジョンと価値観。
この二つは、リーダーシップにおいてかなり重要な2つの要素だと最近感じさせられることが多い。教会開拓を目指す中で、どのような教会を神様に建てるように言われているのか常に考えている。

ビジョンはどんな組織やスポーツチームにも必要不可欠な要素だ。
聖書でも、幻(ビジョン)が無いものは勝手にふるまってしまうと断言している。
要は目的やゴールが無いと人は自己を管理することなくただぐるぐる同じところを回るような人生を送るということだ。

でもそれと同様に大事なのが、価値観という要素。これは例えて言うと、山の頂上をゴールとしいて上っていくチームのお互いの友情や繋がり、チームワークの部分だと思う。チームや組織の価値観がまとまってしっかりした友情と絆が築かれていなければ、頂上にたどり着いても、達成感は薄く、喜びも少ない。しかもそれっきりのチームになってしまうのが大抵のケースだ。

今までの経験上、ビジョンと価値観のバランスを取って動かしている組織やチームまたは教会はそう多くない。どっちかに偏ってしまうケースが良くあると感じる。
片方はビジョンを掲げ、常にゴールと情熱を持ち前進するが、目的の為ならと人間関係を重んじないケースが多い。問題があると簡単にチームやスタッフを切るケースがある。

もう片方は、愛と恵みを重んじ人間関係をできるだけ保ちながらチームや組織を結成するが、お互いの関係が壊れることを恐れ、問題を指摘することや真実を言うことをせずに、成長と前進できないケースが多い。後者は日本のキリスト教会には多いケースかもしれない。でも、どちらも結局のところは従おうとしている人々の信頼を失ってしまう。

どうやってこのバランスを取ることができるのか?
それは聖書の中で、神とイエスキリストがどのように人々に接して、対応しいて来たかにハッキリと示されていると思う。
神はまず絶対なる愛によって、人類を愛した。どんなに裏切られて、反抗され、無視され、侮辱されても、トコトン人間を愛し、そして神の元へ立ち返る道も神自身で用意した。それがイエスキリストの自身だ。
そしてイエスキリストも弟子たちと3年間過ごし、そして彼らが裏切ることを知りながらも戻ってくる可能性を信じた。ペテロには「戻ってきたら他の人々を励ませ」という言葉を語った。離れていく人々を悪く言うことはせず、彼らに選ばせた。時に厳しく、イライラもしながら弟子たちを正し、イエスの言っていることを彼らが今分からなくとも見捨てることは絶対しなかった。だが、意図的に神のビジョンを妨害しようとするパリサイ人や宗教家たちにはトコトン厳しかった。

これが最高にバランスの取れた、愛という価値観の上にビジョンを築き上げたリーダーシップだろう。

目指したいのはそのようなリーダーシップ、そしてそのような土台の上に建つ教会だ。
仲間や絆を守るようなリーダーになりたい。どんなに彼らがつまずこうとも、戻ってくる決意さえあるならば可能性を殺すような真似をしない。だが、意図的に絆を破壊しようとする者たちからは強さと厳しさで守り抜く。

このようなコミュニティーや仲間を現代の若者は求めているから、ナルトやルフィのイメージが人気あるのかもしれない。

この世代は、それを築こうとしていると思う。

そのような教会が日本にもっと多く生まれていくことを願いたい。

ではまた!

また次回に!

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2012年9月 2日 (日)

これからの日本の教会

前にもちょこっと書いたと思うが、今日本の教会に変化が起こりつつある。
教会の数がドンドン減少しているのだ。オレの知る限りでも、ここ一か月で、3つの近辺の教会が閉じることなった。
その理由は、高齢化や救われる若者の数が今まであまり多くなかったことなど、様々な理由がある。

ある統計によると、日本のプロテスタント教会の数は7800~8000。
毎週の平均出席者数は35人とされているが、会員なっている形だけのクリスチャンも多く、毎週ちゃんと通っている人数は、実際には10~15と言われている。
日本は、宗教の自由、そして布教の自由がある国の中では、最下位のクリスチャン率だ。
そういう状況で、教会の数が少なくなって来ているというのは、危機的状況だ。
別に批判の思いやネガティブに日本のクリスチャンを攻めているわけでもなく、ただ現実的に述べているだけだ。

この状況を理解している、牧師さんたちや外国の宣教師の人たちも日本を変えようと頑張っている。オレが今まで仕えていた教会もその中の一つであり、その影響力と開拓精神は本当にすごい。これからも先駆けとなって日本の教会のモデルになっていくだろう。
また他の宗派やグループも、十年間で幾つかの次世代教会を開拓し、試行錯誤しながら徐々に少しずつ成長し始めている。

しかし、全体の統計からみても、まだまだ変化が足りない。関東圏だけ見ても人口約4000万人に対し、成長している教会の数があまりにも少なすぎる。50000人クラスのメガチャーチが10個以上あっても足りないぐらいだ。日本全体の教会が一気に変わるぐらいではないと日本が動かない。

今まで、“出る杭は打たれる”ように、急成長する教会や、今までのイメージやスタイル違う新しい教会やグループは常にクリスチャンによって批判され、ある時は潰されてきた。若いリーダーや牧師たちは、蔑まされて、チャンスを与えられなかったことも良くあった。でももうそんなことで時間を割いている余裕はない時代になっている。俺たちにはパウロと同じ態度が今の日本には必要だと思う。

ピりピ1:15-18 (NLT直訳) ある者たちが嫉妬心やライバル意識からキリストを語っているのは現実だ。また他の者たちは純粋な動機から語り、私を愛し、私が福音を守る使命を与えられているということを知っている。またある者たちは、不純な動機でキリストを語っている。自分の野望のため、不誠実で、私に架せられた鎖にもっと痛みを与えようとしている。でもそれはどうでもいい。彼らの動機が不純だろうと純粋だろうと、どのような形にしろキリストが語られるのであれば、私は喜ぶ。そして喜び続ける!

人々がクリスチャンになっていくこと自体を喜べる時代になってほしいと思う。そのために様々な伝道の仕方を試し、お互いの教会を刺激し合い、教会のサイズを比べることよりも、人々が救われること自体を純粋に喜べるように。その態度で教会を導き、弟子訓練をしていけば、必ず教会はサイズ的にも結果として成長する。

オレ自身、今まで成長してきた教会に関わり、また他の成長する教会を見て研究し、学ばせてもらった。そこでその鍵や要素は何か色々調べ、また聞かれてきた。でも結局気づいたことは、一つ。何も特別な新しい要素や鍵はないということだ。

成長の原則は、初代教会の時代から何も変わっていない。どこの教会も、路傍伝道をし、イベントを開き、コミュニティーを広げて、友情を通して伝道をしてきたと思う。成長する教会も結局同じことをしてきた。でも唯一の違いは、諦めずに状況や時代に順応しながら、伝道し続けてきただけだ。伝道への情熱を失わずに、強制されて伝道するクリスチャンによって伝道するのではなく、自分が心から喜べる伝道の仕方を一人ひとりに示してチャンスを提供する。そして教会に繋げていく。何も新しくない。変な言い方だが、救いに対するドン欲さと優先順位が違う。伝道は教会のミニストリーのただ一つではなく、教会のビジョンの中核としている。そのために弟子訓練をし、クリスチャンが自分の殻から出れるように癒しをもたらし、体制を整え、教会を建てて行く。

逆に成長できない教会は、どこかの過程で「落ち着いて」しまったと思う。その理由も色々あるだろう。いつの間にか、自分のニーズを満たすことが中心となり、賛美も自分のスタイルにこだわり、説教も深い教えだの、メッセージがシンプルすぎて自分の霊的生活の糧にならないなどという。すべてが自分が生き残ることが中心になってしまったのかもしれない。でもクリスチャンがまだこの地上で生きている、一番大切な理由はこれ(マタイ28:18-20)だと思う。

世界に出て行って人々を救い、洗礼を授け、弟子を作っていくこと。一番大切なことを忘れてはけない。もちろん神様との関係を育てていくことはクリスチャンとして超基本だ。でも救い、伝道、弟子訓練は、この地上ででしかできない。今この時代に生きているのは、そのために与えられた時間なんだから。神様と人々の関係を常に成長させながら、トコトン伝道というミッションに関わっていく。これがシンプルな成長するクリスチャン、そして教会のバランスだと確信している。

そして、今の日本に一番必要なのは人々が救われることに関しての情熱と感動だと思う。

どのような形にしろ、人が神様に出会い、天国に行けることを喜ぼう。

そして日本がすばらしい地域教会によって変わっていくのを見つめて行こう。

ではまた。


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2010年11月26日 (金)

ミーティングの仕方

最近、色々なリーダーシップの教えから学ぼうと、有名なビジネスマンの本やビデオ見ているのだが、非常に勉強になる。

特にジャック・ウェルチのリーダーシップは鋭い。
彼はGE(ジェネラル・エレクトリック)の元CEOだ。彼が10年間CEOを勤めることで、GEは26億円稼ぐ企業から120億円稼ぐ企業に生まれ変わった。
とてつもないリーダーシップと知恵を持つ人だ。
今彼はビジネスのセミナーやトレーニングを通じて、他の大企業のアドバイスやコンサル的なことをしている。

そこで、結構学んだのが彼のミーティングのリードの仕方だ。
短い時間で、複雑な問題や討論のポイントを突き、シンプルに問題解決に持っていく。
普通の企業が6ヶ月から1年かけてミーティングを開き、解決し、決断することを2時間程度でまとめてしまう。凄いと思った。もちろん彼の人望と、権威、知恵と経験があるからこそだが、ミーティングの仕方には学ぶことがあると思う。

とくに日本人は会議やミーティングをやたらと開くが、何も解決に向かわないことが多い。政治の会議を見れば一目瞭然だ。意見のぶつかり合い。自分の主張で終わる。
日本人はミーティングが下手だ。

ミーティングはできるだけ完結に短く、効率よくやるように心掛けたい。

そこで、幾つかの重要なポイントをシェアしたいと思う。
最高のミーティングをするために!
知っておくべくこと・・・
1.会議は、討論やディスカッションをする場ではない。決断をする場所だ。
ミーティングではリーダーが必要だ。ただ会議をオーガナイズして、会議でただ座っている人のことを言っているのではない。ディスカッション、会話、議論をデータを把握し、最終的に決断を責任を持って下せるリーダーだ。本来は肩書きをもっている人であるべきだが、現実的世界では、その会議で真のリーダーが結構分かる。決断できるリーダーがいなければミーティングは成り立たない。討論し、色々な意見が飛び交う中で、ミーティングの目的を見失ってはいけない。

2.情報はミーティングで集めるものではなく、その前に集めておくもの。

リーダーは、ミーティングの前に他のリーダー達にどの様なことを話して、討論し、決断しなければならないのかを伝えておくべき。そのために必要なデータ、統計、傾向・トレンドはできるだけ集めておこう。決断を下すリーダーはある程度の結論を想定しておく。ようは自分である程度どの様な方向性の決断をするかは決めておくようなものだ。情報はその決断を確かにするためのバックアップと言えよう。

3.すべての参加者は同じ目的とゴールのためへの心構えを持っているべき
ある程度同じ価値観と、方向性を持っていないと始まらない。じゃないと決断をする基準がずれているからだ。それでは討論で終わる。当たり前のことを討論しないように。
例えば、教会であれば、目的は人々を救うために戦略の会議をするのが当たり前だ。あなので“人々”重視という視点がいつもある。すばらしいリーダーはいつも基本となる企業や組織のDNAをいつも明確にし、リーダー達をその基準に合わせて立てているものだ。
だからジーザスライフハウスでは、外の教会からいきなり牧師を雇おうとは絶対しない。
そとの教会のやり方をいきなり持ってこられても困るからだ。
チームたるもの同じ思いと、価値観をベースにしていなければ成り立たない。

4.必ずポジティブに終わる。決断を納得しないまま終わるな。
結果的に色々な意見が食い違っていたり、合わない場合ももちろんある、でもリーダーは責任を持って最終決断を下す。その決定を聞いたときに、他のリーダー達やメンバーは、その決断を“私達の決断”として捉えよう。あとでことが失敗に終わったときに、”だから俺は同意しなかった。ほら見てみろ”という奴は最悪のチームメンバーだ。リーダーの決断はみんなの決断でなければならない。リーダーの責任と重荷もみんなのものだと言う心構えを持とう。
“なぜジーザスライフハウスでは、あれこれこうするんですか?”と聞かれたときに、“ロッド先生がそう言ったから…”などという答え方は最悪。そいつはリーダーでない証拠だ。
真のリーダーは自分のリーダーの意見や決断を自分のものとして答えることができるはずだ。セコンドハンドではなく、自分のものに!

主任牧師の教会ではなく、“俺達の教会”!その心だ。

5.ミーティングはできるだけ短く、完結に。そして多くのミーティングをすることに頼るな。
できれば多くのミーティングをしないようにしよう。その場でできる決断は会議なしで決定する。多くのミーティングを中心とし、頼ってしまっている組織や教会は強いリーダーが不在の証拠だと思う。ゴールは皆が同じハートと心をトップリーダーと共有すること。ミーティングをイチイチ開かずに、それぞれのリーダー達が重要なことを判断できればそれが最高だ。
上のリーダーのやろうとしていることを、既に熟知して行動に移す。それが理想だ。
ミーティングがありすぎるのはリーダーシップの弱さかもしれない。
でももちろんある程度のミーティングは必要不可欠だけどね。

まー漠然と書いたけど、これさえ頭に入れておけばスムーズにことは運ぶと思う!
あなたのミーティングはどうかな?
最高のチームワークを作っていこう!

また次回に。

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