生き方

2015年7月 3日 (金)

人間の成長と変化 part 3

前回に引き続き、クリスチャンとしての成長についてもうちょっと踏み込んでいきたいと思います。

前回はガラテア 5:22‐23にある「聖霊の実」について話しました。それが9のつの違った種類の実があるのではなく、1つの実にすべて9つ要素が入っているということ、結果的に一つの要素だけ成長させたりはできず、すべて一緒に成長させているのが本物ということ。また世の中のシステムで、別の形で似た要素を生み出せてしまうこともにも触れました。

今回は、一つひとつが本来どういう品性なのか、そしてそれに対して世の中や宗教が作り出している、偽物や反発する要素を見ていきたいと思います。今回はティム・ケラー先生のガラテアや他の神学者たちのコメンタリーを元にしています。

まずは「愛」。
これはギリシャ語では、あの有名な「アガぺ」です。この愛は、愛を与える人から「与え返してもらえる」から好意をもつのではなく、ただその人に為に、その人の利益の為に自分を捨て、その人に仕えることです。この愛の反対は、「恐れ」であり、その恐れによって自己防衛に入ります。自分を守るためや自分の利益の為に他人を結果的に利用します。
この愛の代理(偽物)となってしまっている世の中や宗教で機能しているものは、「自己中心的な愛情」です。この偽物の愛で機能している場合、その相手が自分に尽くしてくれたり、良く思っていてくれたり、人生で利点や得るものがあるから、その人を好きになるということをします。ある意味、「利益」がなくなった途端、関係を切り、冷たくなります。

喜び(カーラ)
これは、神様の存在の素晴らしさと美しさを見つめ、その存在がただ嬉しく喜ばしいために受け取る品性です。この喜びの反対は「絶望」であり、喜ばしい存在が何もない状態です。
この偽物は、「祝福を体験した時だけに上機嫌になる」ことです。要は祝福をあたえる神そのものの存在を喜ぶのではなく、祝福そのもの自体を喜んでいることです。創造主ではなく、創造主が与えるものを喜びとしてしまうことです。

平安(アイリーン)
これは、神様の絶対なる知恵と支配に自信を持ち、そこに安息(rest)を見つけることです。結果的に自分で自分の人生をコントロールしなくてはという不安はなくなります。要はこの逆は、心配と不安です。本物の平安の偽物となってしまう代わりは、「気にしない」、「無視」、「興味を示さない」ということです。そうすることにより一時的にストレスを軽減できるからです。思い出してください。9のつすべてが一緒に機能しているのが本物です。

例えば、ある苦手な人に対して、自分に一時的な平安を持たせるために「気にしない」や「無視」という方法を用いているなら、自分の内に本物の「愛」も「平安」もないということです。なぜなら本当の愛は、相手を心底 「気にかける」からです。

イエスは「他人をラカ(バカ)と言う者は、地獄に行く危険がある」と言いましたが、実はこの「ラカ」は、「価値がない」という意味で、その人を無視することで、「その人にはもう価値がない」としていることなのです。結果的に聖書では、無視(無関心)=人殺しです。心でその人を殺しているわけです。そんなのは平安どころじゃないです。悪そのものです。喧嘩している夫婦はまだ希望があります。また気にかけているからです。無関心な関係はほぼ絶望的です。

忍耐強さ(マクロスーミア)
これは、困難な状況や苦しみに、パ二くったり、投げ出さずに落ち着いて向き合える品性です。この品性に対照的な感情は、神や周りの人に対して怒ったりイライラすることです。結局、神や人のせいにしているからです。この偽物は、「皮肉的になる」ことであり、今向き合っている問題を小さく見ようとし、「気に欠けるのに値しない」という態度を取ることにより、「忍耐強い」というハッタリを装うとします。でも結局は問題から逃げていることになります。

優しさ(クレストテス)
これは、自分の自己防衛システムを解除し、傷つけられる状態でありながらも、相手の為に「実践的に仕える」ということです。これは、自分の存在意義に対する揺るがない自信と安定からのみできることです。この反対となる要素は、「嫉妬」です。相手が祝福されたとき、喜べないことです。「私に同じ祝福がないなら、アイツもそれを持つべきじゃない」という感情であり、ハッキリ言うと「心の暴力」です。
この「優しさ」の偽物は、「巧みな慈善行為」です。相手に仕えることにより、自分が良い人間だと思われ称賛されるため、自分でそう思うためにする行動です。そして神や人に対して、自分には十分な価値があるんだと自分に思い込ませるためにそれをします。

誠実さ(アガソスーネ)

常に誰にもどこでも、「同じ自分」でいるということです。要は本当の自分に対して忠実であることです。もちろんこの逆は、八方美人であり、偽物は偽善を装う偽善者です。でも気を付けてほしいのは、常に自分の意見や真実を誰にでもどこでも愛なしに言うことではありません。言いたいことを言ってストレスを発散させるためや、自分を良く見せるための「誠実さ」ではないのです。ただ恵みにあって、救われている自分をしっかり持っている為、正直であり、裁かず、自分を無理に良く見せたり作ろうとしないということです。

忠実さ(ピスティス)
忠誠心と勇気です。完全に自分の言動が一致していることです。
この反対は、チャンスがある時だけ行動を起こすような人です。良い状況の時だけ、友達でいる人たちです。忠実さの代わりとなってしまう偽物は、「真実のない愛」です。ただいつも優しくフレンドリーに振る舞い、真実や本当のことを言わない状態です。このような人は、他人の過ちに対して何も言わずに、人間関係での問題を避けようとします。
また思い出して下さい。本当の愛、優しさ、忍耐強さ、さらに誠実さが機能しているなら、愛をもって真実を相手に伝えられるということです。

柔和(プラウトス)、英語ではGentleness
これは、謙遜になることであり、「自分を忘れる」を忘れるということです。相手を優先させることです。この反対は、「優越感」と「自己吸収」です。自分が他により優れていると思い、見下します。この偽物またはフェイクver.は、自分が劣っているという間違った謙遜の取り方です。謙遜であり同時に神にあって絶対な自信を持つことが、真のジェントルマンという男、また気品あふれた謙遜で自身のある女性ということです。

自制(エグクラテイア)
これは、目の前の「緊急的」なことよりも、揺るがない優先順位をしっかり持ってそれに沿って生きれることです。衝動的、自制が聞かない状態ではないです。自制できない人は、優先順位がコロコロかわります。ある時は教会に来たり、急に来なくなったりという状況です。安定性がない人生です。

この偽物が結構面白いです。それはプライドから来る「意志の力」です。他人や自分の人生をコントロールしようとする衝動が原理で、自制しようというものです。またまた思い出してみてください。本当の自制は、謙遜も兼ね備えているので、人に勝ろうとする意志から来る自制ではないのです。


どうでしょう? 自分は聖霊の実によって生きていると思いますか?
正直これらを見つめなおした時の、自分の最初の反応は、「全然だめじゃん!」って感じでした。

自分の人生の様々な分野で、「偽物」を駆使して、ただ自分のクリスチャンという宗教を生きているに過ぎないかもと思いました。でも、それが自然な反応かと思います。自分が「できている」と思ったらそれはできていない証拠です。

更に今まで経験してきた多くの人間関係や教会での人生ですらそうだと感じたこともあります。「恐れ」によって従わせ機能する教会システム。神の愛を宣言し礼拝で歌っていながら、自分に合わない、従わない、出ていく人々には、「無視」、「無関心」、「絶交」などもするような極端に間違った愛の理解。他人に対しての優越感と、人に勝とうとする「やる気」を利用しビジョンを奮い立たせようとする弟子訓練や生き方。「神から祝福があるから」と言い、それを受け取り表面だけで装おうことで「喜び」を作ろうとする雰囲気づくりと生き方。自分は他より良いことをしている、リーダーシップを持っているんだというプライドから来る自制心。「自分が認められる」から忠実に「忠実」になろうとする仕え方。

見て分かるように、やろうと思えば、表面はキリスト教であり聖書的に見え、聖書箇所を使って説教しながら、中身は福音から遠く離れた、「偽物」の教会や自分自身の信仰ですら作ることもできてしまうということです。結局、福音を他のものですり替えた、Counterfeit God(偽の神)を崇める宗教になってしまう危険性は、誰にでも、そしてどんな教会にもあります。

鍵は、まずそれに気づくことです。そしてこの聖霊の実ですら、イエスなしでは絶対に生み出せないということに気づくことです。上で書いたクオリーティーをすべてを持ち、ただ神を愛し、自分の利益の為でなく、俺たち人間の利益の為に生きてくれた唯一の存在はイエスだけだからです。Part1に戻りますが、その「健康さ」を俺たちに常に与え成長させてくれるのは、「福音」という種であり、神の国の知らせでありであり、神の文化であり、システムであり、原則でだけです。

また言います。
「イエスの福音に戻ろう。」

ではまた次回に。

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2015年1月22日 (木)

聖書的な聖書の読み方 (福音中心とした聖書の捉え方)

以前、OO+教会を開拓するに当たって自分の中で多くのことを変えさせられ、考えさせられたという事をことをシェアさせて頂いた。

その中でも自分にとって、ある意味一番重要な理解の変化の一つを今日は分かち合いたいと思う。

それは「聖書の読み方と理解の仕方」だ。

聖書は一番歴史的に人々に読まれた書物として、また同時に多くの影響を与えてきた。
歴史や文化を通して、人に様々な形で読まれ、理解され、また良い方向にも悪い方向にも解釈され、使われていた。
聖書は神を無視して、ただの歴史の本として読まれてしまうこともできる。また宗教的にも人間が作り出す宗教の信仰の対象となり、ビジネスにおいても知恵の根源として箴言や伝道者の書は用いられてきた。

でもクリスチャンとして知らなくてはならないのは、人間が作り出す神が基準の理解ではなく、全知全能の神自身がが何の目的でどういう意図でそれを書き、そして何を伝えようとしているのかを理解しなくてはならないということだ。特に自分自身のメッセンジャーとしての役割の中で、この理解はとてつもなく重要だと感じた。

聖書は究極的に分けると2つの読み方ができる、それは「自分の為」に読むか、または「本当の神を発見し知る」ために読むかだ。これは「福音を中心としたミニストリー」のトレーニングの中ですごく考えさせられたことだ。この聖書的な概念や詳細を明確に提供してくれたCTCのMovement、ティム・ケラー先生、そして福音を中心とする教会や団体のリーダーや仲間たちに感謝したい。

このことを学ぶ中で、牧師やリーダーたちが聖書の解釈を間違ってしまうことにより、教会やミニストリーそのものがズレて行ってしまうと本当に思った。そして多くのクリスチャンもこの区別を分からずにただ聖書を読んで、何をどう捉えたら良いかわからない現実があることもにも気づいた。はっきり言ってしまうと、聖書は間違えると「危険」なものにもなるし、また逆に「真の癒しと救い」をもたらすものにもなる。

ではこの二つの読み方は何がどう違うのだろう?
まずはただ「自分の為」に読んでしまうことの危険性を見てみよう。

聖書は、旧約聖書も新約聖書もその中にある歴史や登場人物の生涯も、一つのテーマを指して常に描かれている。それはもちろん「イエス・キリストと彼の福音」だ。イエス自身も明確にそのことは福音書で言っている、「すべての律法や預言者の言ったことは私についてであり、それらを壊すのではなく成就するために来た」(マタイ5:17-21)、また「すべての聖書は私についての証であり、すべて私について書かれている」(ヨハネ4:39、ルカ 24:13~34)とも宗教家たちや弟子たちにも断言した。まず聖書は「イエスが救世主であり、俺たちの罪を十字架で背負いまた死から復活したこと」を示し、そしてその事実を土台とした信仰がどのようなものかを描き、そして同時に俺たちに信仰を与え、本当の神の性質を知りとの関係を深めていくためにあるということだ。

「自分の為」に読んでしまうとは、まずその福音を自分に適用せずに読んでしまうことであり、イエスを見つけることを優先して読むのではなく、ただ自分が「何をしなければならないか?」を基準に読んでしまうことだ。聖書を読むときにイエスから目をそらすと、自分の利益・祝福・成功をもらうため、自分の努力で神に認めてもらうため、罪悪感を消すため、「良いクリスチャンになるため」、また単なる自己啓発というレベルに聖書を下げてしまう。

前にも話したが、多くの日本の文豪たちが聖書を読んだことにより自殺しそうになったということがあるが、それは彼らが聖書を間違った視点、そして「自分中心」に読んでしまったことに原因があると説明した。

聖書の中で神様が求める道徳的基準はどの宗教よりもとてつもなく高い。旧約聖書の律法だけでもすごく高いが、新約でイエスが言う基準はもっと高い。敵を愛し、常に隣人を愛し、自分がしてもらいたいように相手にも接すること・・・、結局「完璧になれ」と断言している(笑)。「無理だ~!」と普通の人間なら思うだろう。でもそれが正しい反応だ。
でも日本人は超真面目だ。その基準を頑張ってこなそうとする。その時、できない自分に気づいたとき失望し自分をさげすみ、罪悪感に襲われる。例えできたとしても、そいつはパリサイ人のように傲慢になり自分で良いクリスチャンになったと思い込みひどい人間になるだろう。だからそのような「自分の為(自分で自分を変えようする自分中心の聖書の読み方)」はどちらにしても危険だとこのブログでも説明した。

聖書はイエスの福音の真実と愛と恵みを理解せずに読むようにはできていないのだ。聖書は「人間の愚かさ」と、「神の基準にどう足掻いても達することができない人間の罪深さを示し」、その罪に対する神の神聖さと怒りを明確にすると同時に、それを解決する圧倒的な神の愛と恵みの両方をしっかり示している。だからイエスが「完璧になれ」という時、すべての神の基準をこなしたイエスを受け入れることを通して「完璧」になるということになる。敵を愛することも、異性を正しく見ることも、霊的成長そのものもすべてだ。聖書はその二つの神の怒りと愛が矛盾しているように見えて、でも「福音」によって両方の真実を守っている。でもそれを忘れて聖書を読んでいる限りは、すべて自分の為になり、神の恵みと働きではなく「自分の努力で神に近づく」という、まさしく宗教をやりは始めてしまう。要は極端に傾いてしまう。

そしてもし教会がただ「自分でがんばれ~」を土台に聖書を解釈し、ミニストリーを建て始めると、それこそもっとたちの悪い宗教になる。こういう意味ですべてがズレるということだ。イエスの時代もそうだったが、その宗教世界では、自分の努力が中心なので、必然的に「できる人」と「できない人」に区別される、「成功できる人」・「できない人」、「祝福されている人」・「祝福がない人」、「断食して祈り人」・「あまり祈らない人」、「多く教会で奉仕する人」・「できない人」。これらの要素や度合いが霊的な成熟さだと思い始めてしまう。そしてそれを中心にすべてのミニストリーの成果と基準が判断されるようなシステムが出来上がる。そうなると究極的には、「内部の人」と「外部の人」となる。言い換えれば、教会や組織の基準(ルール)に当てはまる人、当てはまらない人とを区別する。こうなるとイエスの福音が「良い知らせ」ではなく、特定の教会やある環境にいることが「良い知らせ」であり「良いクリスチャン」となってしまう。

「福音」という基準をを忘れてしまうとすべての基準がズレしまうのだ。クリスチャンとそうでない人たちの唯一の違いは、ただイエスの救いにある恵みと愛じゃなかったのか?皆神から離れた同じ罪人だったじゃないのか?俺たちが救われたのは何か俺たちが良いことをしたから?または他より少し賢かったからだろうか?なぜ完全な恵みと愛によって救われたのに、自分の努力で良い人間になり始めることができると思ってしまうんだ?これらはガラテア人への手紙でも問題となっていたことだ。パウロは「違った福音」のことも注意している。

そしてこの「ズレ」は聖書の捉え方と読み方一つにも表れてしまう。ただ読めば良いというものではない。ただ毎日「神様は何をしろ(アドバイス)」と言っているかを理解するための聖書の読書ではなく、まず「神が何をすでにしてくれたか(良い知らせ)」を理解することから始まり、正しい理解が生まれ、そして毎日が始まる。神からただアドバイスを受け取ることが聖書の目的ではない。それだけならどんな宗教もアドバイスをくれし、先生と呼ばれる存在も多くいる。でもイエスは単なる良い教師(ラビ)ではない。聖書はイエスにある救いを示すものであり、俺たちに「福音(良い知らせ)」を与えるものだ。要は聖書をどれだけ読んで理解しているかが霊的レベルや良いクリスチャンではなく、どれだけ福音と神の恵みに感動し、心打たれ、そしてそれが自分の変化と成長に繋がっているかが大切だ。

そして教会の存在も変わってくる。福音を見つめている人々は自分の弱さを理解すると同時に、神の愛に頼り生きているので、赦しあう、受け入れ合う、違いを認め合い、お互いの違いがあってもイエスにあって一致を築こうとする共同体となる。ある道徳的・宗教的・社会的基準に達するかどうかではなく、お互いの間違いや失敗からも福音の素晴らしさを再確認し合い、立ち上がり前進し合える場所となる。福音という、ある意味究極のバランスがあると、教会はただ「病院」いう傷を舐めあう場所にはならず、また逆の厳しさだけの弟子訓練と成長を基準とした教会だけにもならない。両方の極端さを避けることができる。イエスが「恵みと真実」を両方持ち合わせたように、福音の中で教会も「恵みと真実」の両方を兼ね備えたミニストリーを形成できる。

では神を知る為そして関係を深める為の読み方とはどういうことだろう?

それは既に上記でも答えを出していると思うが、イエスと福音を発見する読み方だ。
すべての聖書はそれが中心となっている。

具体的にどういうことかもう少し説明したいと思う。
これは、「福音中心」をモットーとするOO+のメッセージの仕方にもすごく重要視していることなので参考にしてほしい。

例えば、良くあるダビデからの説教。
正直、自分自身も今までは、ダビデのストーリーを使って「俺たちが何をすべきかしか」という説教しかしていなかった自分に気づいた。

「ダビデは勇敢で、皆がビビッているときに一人巨人に立ち向かった。そしてサウル王の剣と鎧ではなく、自分のスキルという投石器で倒した。なので、私たちも自分の良さとスキルを生かして、人の目を気にせず勇気を持って成功に立ち向かいましょう~」というのが、現代の一般的な人気あるメッセージになるだろう。それらを言ったあとに、「ハイ。イエスを信じればその勇気が持てますよ。彼を信じますか?」となるかも知れない。

でも考えてみれば、これでは究極的には「自分の努力でダビデのようになれ、頑張れ」と言っているに過ぎない。イエスの事を話していても、イエスを救世主としてではなく、単なる自分の成功のための「後ろ盾となるアドバイザー」程度としか伝えていないということに気づかされた。イエスがなぜどのようにして俺たちの救い主なのか説明すらできていない。
自分自身もある意味、福音を明確に説明するメッセージをせずに罪悪感を感じた時もある。「自分は本当の福音を語って来たのだろうか?」と。

では福音を中心とした捉え方はどのような感じだろう?
その為にはイエスと福音がこのストーリーや時代の背景の中でどう示されているのかを見なくてはいけない。

その当時イスラエルはぺリシテ人に圧倒され攻撃を受けて、皆怯えていた。この戦争で負ければ、完全に彼らの奴隷になってしまう状況だ。でもだれもぺシリテ軍のボスである巨人ゴリアテに立ち向かおうとする勇気ある者はいなかった。でも羊飼いであり末っ子のダビデが神の好意によって巨人と戦う状況が作り出され、結果的にダビデが巨人を倒したことによりイスラエル全員が救われ解放された。

これを福音に照らし合わせるとこうなる。

ダビデはこれからやってくる救世主イエスの象徴でありプロトタイプ。ダビデが勇気を持って踏み出し巨人と戦って勝利したように、イエスも神でありながら、地上に一歩踏み出し、十字架で罪と死に打ち勝った。同じようにダビデの勇気ある行動によってイスラエルが解放されたように、俺たちもイエスを通し、罪という奴隷から解放される。それだけではなく、ダビデは単なる弱い羊飼いであり末っ子(その当時では一番権利がないこと)だったように、イエスも武力で勝利するのではなく弱さそして人類の「長男(神の子)」という立場や神である権利を俺たちの為に捨て「仕える」ことにより、十字架という人間にとっての愚かさと弱さを通し勝利した。だから俺たちは、ビビっていて何もできなかったイスラエル人と同じだったが、イエスを信じ頼ることにより、イエスを通して俺たちもダビデのように神に従い、勇気を持てるようになっていける。だから俺たちにはイエスが絶対に必要であり福音を信じることにより、自分の力ではなくイエスによって救われ変わっていける。ダビデのようにその当時の社会で末っ子と言う「弱さ」と思われたていたものが、神にあって強さになり、俺たちの愚かさを通して神の知恵が現れる。

すごく簡単に説明したが、基本的にこのような解釈の仕方になる。もちろんこの視点から様々な福音の適応はクリエイティブにできる。でも根本的な違いは分かってくれただろうか?
このような読み方や解釈の視点はすべての聖書箇所に適応される。アダム、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、エステルのストーリーさえもイエスと福音が完成形となり、彼らはイエスの形でを示す存在だ。預言者も律法の性質と目的ですら福音を示している。新約でのイエスの教えの本来の意図や例え話も、すべて福音の要素につながる。

このような読み方になると、神様を発見し、「自分が願う神様のイメージ」ではなく、聖書が示すバランスのとれた神様の存在を学ぶ。神様のしてくれたことに感動するようになり、神様を知ることにワクワクする。読むたびに良いクリスチャンになれない自分に罪悪感を感じるのではなく、「できない自分」ですらすべて分かった上でイエスを与えてくれた神に感謝し始める。それと共に、「こんなに恵みを与えてくれた神」を本当の意味で感謝することに繋がり、「従わなければ」という恐れではなく、あふれ出る「従いたい」という思いから神に仕えることができる。イエスが言うように、「多く赦された者は多く愛する」が現実になる。これは「もっと罪を犯して、もっと赦してもらってから愛すること」ではなく、イエスの福音を深く理解することにより、「どれほど赦されているかを理解すること」から生まれる愛と感謝のことだ。

福音を土台に聖書を読むとき以下のことを頭に入れて読んでみてほしい。

1.神様は何を求めているか?(聖書が示す神の基準)
2.なぜ俺たちはそれを出来ないのか?(罪と自分たちの弱さ愚かさという問題)
3.イエスはそれを解決するために福音(十字架の死と復活)を通してどうやって解決したか?(イエスの中での解決)
4.そしてどうその福音を自分に適応することにより変わり、神様の基準や求めていることに従えるようになれるのか?(福音の適応)

気を付けてほしいのは、すべての要素をしっかり考えることだ。2番目で止まってしまったら、さっきも書いたように、罪悪感や自分の弱さに失望しただけで終わってしまう。できても自己啓発で終わり、出来ない人を蔑む。3番目だけでも、「神様感謝します」だけで自分は何も変わらず変化もなく、結果的には福音を分かってないことになる。4番目まで適応して初めて福音を信じ受け取り理解したことになる。

これらの要素は、牧師という立場である自分も教会に語るメッセージで必ず入れ込まなくては言えない要素と思っている。

2番目までしか伝えないメッセージだと、ただ人々に「はい。じゃ自分たちで頑張ってください~」、または「だからお前たちはできないんだ」や「俺はできている。だからお前らもやれよ」というメッセージになる。基本的には罪悪感を用いて人々を変えようとしているようなものであり、ある意味「自己啓発」よりたちが悪い。最悪見下すようなメッセージだ。

3番目だけだと、「神様すばらしいですね~。ハレルヤ~」で終わり、何をイエス通して自分の人生で変えないければならないのかを教えず、理想と現実のギャップがどんどん生まれていくだけだ。最悪のケース、日曜日にはハレルヤで、職場や家では感謝するどころか全く福音と関係ない人生を生きてしまう危険性も生まれてくる。

聖書は、ただ自分の言いたいテーマやポイントに合わせて、引用すればよいものではない。
それだけでは結局自分の意見や哲学を中心に、聖書を利用しているに過ぎない。
本来は逆でなくてはいけない。神の基準と真実に、俺たちの考えや思いを合わせなくてはならない。メッセージも同じだ。必ずしも、聖書を利用している=聖書的なメッセージとは限らない。「イエスと福音」という、神がこの世の始まりから意図した計画にある価値感と目的、そこにある様々な神の性質に合わせることにより、真の「聖書的」になる。

キリストを語る教会の牧師として、聖書の真実を語る者として、この責任は重要だ。
福音を正しく伝えていないなら、「他の福音」を伝えてしまっている危険性がある。
そうなるともう別の宗教となる。

俺の個人的な願いは、クリスチャンみんなが自分たちでしっかりとした福音を聖書を読むときに発見し、理解できるようになることだ。そうすることにより真の福音が日本に伝わっていくことを願う。

福音中心とした聖書の読み方は本当に聖書を明確にしてくれると同時に、本当に「神の奥義」、ようは「福音」のシンプルさと同時に深さを教えてくれるものだ。ここでは書ききれない聖書的な要素もあるので、質問がある方は遠慮なく聞いてほしい。コメントは許可なしにはブログに反映されないようになっているので、気軽に質問してくれても大丈夫だ。

ではまた次回に。

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2015年1月 6日 (火)

Vision

皆さん。明けましておめでとう!
今年もブログの方も頑張っていきたいのでよろしく~!。
今回はちょっぴり「長め」です(笑)

新年と言えば、「新しい始まり」ということで、今年の抱負やビジョンなど、色々達成したいこと、新しく変えたいことなど考えているんじゃないかな?また多くの教会でもビジョンについてメッセージでも話していることでしょう。

でも牧師として人生のビジョンや目的を人々に語る時、いつも教会で感じるのが皆のなかにある「混乱」だ。
「ビジョン」という言葉を聞くとあまりにも漠然としていて、多くの人たちは「私のビジョンは?」、「何をしたらいいの?」、「自分の使命は?」と考える。クリスチャンならなおさら「この自分のビジョンや思いは神様のもの?それとも自分の勝手な思い?」と考えて疑ってしまう。何を基準に、どう正しいビジョンを判断したらいいのかが分からない。そしてビジョンについてのメッセージや教えを聞いても毎回様々な見方、またはただのビジネス的な感覚でしかビジョンを教えてくれない場合があるので余計な混乱する場合も多い。基本的に世の中が言う「ビジョン」と神様が言う「計画」には決定的な違いがある。全く違う視点と土台から「ビジョン」というものを見ているからだ。

なので今回は聖書的に「ビジョン」とは何か、そしてそれを基準にどう自分たちの人生を組み立て決断し生きていけばよいのかをできるだけ明確にしたいと思う。

まず最初に言いたいことは、聖書は神様の思いやビジョンを超明確に示しているということだ。例えば、マタイの書22:36-39、

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 (37) そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(38) これがたいせつな第一の戒めです。(39) 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これは何度も福音書で出てくる内容だが、これは宗教家たちがイエスの下にやってきて質問した内容だ。この宗教家たちは「モーゼの律法の専門家」でイエスを試すためにこの質問をした。そこでイエスは簡単にすべての律法の目的をまとめたのだ。要は、「神を愛すること、人々を愛すること」、これらが神が俺たちに求めることだと。

すごく簡単なことだと思えるが、実はそう簡単にこなせるものではない。なぜなら、もし俺たち人間がこれらを楽に実行できていたらイエスが地上にやってくる必要はなかったからね。この箇所をちゃんと理解するには、ある程度「モーゼの律法」を理解する必要があるので、そこから見ていきたい。

まず「モーゼの律法」なので、モーゼの話が出てくる「出エジプト記」や「レビ記、申命記」などを思い出してほしい。このブログだけでは全部これらの書の内容を説明することはできないので、今回は簡単にまとめよう。

モーゼの律法は基本的に、「十戒」から始まる。神様がエジプトから神とモーゼによって救出されたイスラエルの民に与えられた「ルール」だ。ここで理解してほしいのは、これらのルールは彼らが「救われるため」に与えられたのではなく、「神の民」として正しい人間関係とコミュニティーを作るためのものだったということだ。なぜなら彼らこのルールを受け取った時は、もう既に神によってエジプトの奴隷下から救われ解放された状態だったからだ。しかも一方的な神の恵みと愛によって。以前にも「イエスの山上の教え」の内容でブログでも触れたので関連性についてはそちらを参考にしてほしい。後で説明するが、この理解はすごく重要だ。

このルールを民に与えた時に、神が強調したことが2つある。それは「神が愛と恵みのゆえにイスラエルを救ったということを思い出して神を愛すること」、そして「人々を愛し、貧しい者もやもめも外国人も公平にすべての人々を守り接すること」だった。

もっと簡単に言うと、「神様のしてくれたことを思い出しながら神を感謝して愛し、人々を愛して素晴らしい神のコミュニティーを作る」ことだったということだ。「十戒」を見てもわかると思うが、最初の3つの命令は神を愛することに関しての内容、そしてその残り7つは人々への接し方やコミュニティーについてだ。

究極的には、これが神が俺たちに求めるものであり「ビジョン」そのものそし、すべての計画の最終ゴールだ。これらがクリスチャンのすべてのビジョンの土台となるべきであり、それ以外の俺たちの思いや願望、計画やゴールがすべてこの2つの神のビジョンに繋がっているかを常に確認しなくてはならないということだ。でもその「ちゃんと神様のビジョンに繋がっているかの判断」がすごく気を付けないといけないことであり、俺たちが間違えやすいところだ。

それは反面教師である、先ほどの「宗教家やパリサイ人の間違い」から学べることができる。思い出してほしい、彼らは通称「律法のエキスパート」だったのに、完全に神様のビジョンを分かっているはずの人々だったのに完全に神様のビジョンから外れていたことを。なぜそうなってしまったのか?これもすごくイスラエルの民とモーゼの壮大なストーリーと関係している。

まず彼らの究極的な問題は、「自分たちの努力」でその2つの神のビジョンを成し遂げようとしたことだ。神様がまず強調したかったのは、「神様の愛と恵みを思い起こせ」だった。それだけは子孫にも伝えて記念碑を建て、祭りをして思い出せとイスラエルに強く教えた。現代のクリスチャンが行う聖餐式や教会の礼拝の目的も究極的には神のしたこと(福音)を思い出し賛美することにある。でもイスラエルの問題は、すぐにそれを忘れて「自分達で作り上げた神(最初は金の牛)を祭り、自分達でコミュニティー(宗教)を作ろうとした」ことだった。

パリサイ人達はもっと厄介で、イスラエルの民がそうならないように神が与えた律法を逆に利用して、「俺たちは誰よりも律法を守り神を愛し従っている」と言いながら、「神が恵みによりしてくれたこと」ではなく、自分の努力で築き上げた「義」を基準にそれを押し付け、できない人々をさげすまし、そして余計なルールで固めた超厄介なカルト集団にまで作ってしまった。表向きではすべて「律法」を守っている良いクリスチャンであるかのように見せ、中身の目的はすべて自分たちの地位や名声、そして願望を叶えるためにルールを作り利用した。これにはイエスもめちゃくちゃ怒っていた。でも怖いのが、実は俺たちも知らずにその方向に向かって行ってしまう傾向にあるということだ。

ある人はクリスチャンとして教会に行って聖書を毎日読んでいるかもしれない、奉仕して仕えているかもしれない。
結婚して旦那と妻と一緒に神に仕えたいという願望があるかも知れない。ビジネスで成功してお金やリソースを通して神に仕えたいかもしれない。
また牧師になり「献身」して神に仕えたいという願望があるかも知れない。
これらはすべて素晴らしいことだ。

でもここで重要な質問は、「何のために?」だ。

教会に行って毎日聖書を読むのは、そうしないとクリスチャンとして「ちゃんと生きていない」という罪悪感に襲われるから?
仕えていないと、周りのクリスチャンに忠実でないと思われるから?
結婚しないと幸せになれない、愛してくれる人がいないと不安だから?子供ができ家族を作れないと孤独だから?または惨めになるから?
成功してお金を持っていないと、クリスチャンとして自分の為に自由に使えるお金が無くなるから?
牧師や献身者になることで、自分の存在意義と使命を達成しているという「自分の存在意義」が持てるから?

もしこれらの理由付けが俺たちの心の奥底にあるのなら俺たちは「宗教家」たちと全く同じことをしているに過ぎない。結局それらのものを使って自分の力で自信、アイデンティティー、罪悪感の解決、幸せを得ようとしているに過ぎないからだ。機能的にそれらが自分の救いとなっていることになり、それらがないと生きていけない幸せになれない、自分が形成されないと言わずとも行動で示していることになる。でも本当にクリスチャンならイエスと福音によって、生まれ変わり、神の子供とされ、罪悪感の代わりに喜びも与えられ、罪を赦され、義ですら与えられたんじゃなか?

実はパリサイ人たちですら、すべての「クリスチャン的」なことはしていた。自分たちの弟子も作り伝道し、集会を作っていた。ある時イエスはこう言っていた、「彼らは一人の弟子を作くるために海や地を超え、見つけたらもっと酷い状態にしてしまう」(マタイ23:15)と。彼らは奇跡を行い伝道をして貧しい人々を助けているつもりでも、イエスは彼らを知らないとまで言い張った。なぜだろう?ビジョンと目的に向かう行動が間違っていたのか?違う。それは彼らの動機と心が自分の利益にあり、救いは神ではなく、自分の努力と行動によって得ようとしていたからだ。

俺自身も常にこのような誘惑には気をつけなくてはけない。教会を任されている牧師の一人として、気を付けなければ「イエスの弟子」ではなく、「自分の弟子」を作ってしまうこともできてしまう。自分の自我を形成するために、教会を建てようとすることもできてしまう。自分がすごい牧師やリーダーと思われるために、または自分が理想とするグループを作るために。更には「教会のビジョンに合う弟子」ということにもなってしまう。常に俺たちが作っていかなくてはいけないのは、「イエスの弟子」あり特定の教会だけで通用するようなリーダーや牧師を育てることではないことを俺自身が思い出さなければならない。アポロの弟子やパウロの弟子でないように(1コリント1:12)。俺自身究極的には、10年後牧師でなくなろうとも、「神を愛し、人々を愛する」という神のビジョンだけは決して変わらないことを自覚し、必要であればそのビジョンの為に今ある仕事や教会をいつでも神がそうしろという時にできる状態でなければいけない。それと同時に任せれている間は、全力で自分の人生を使う覚悟も必要だ。

先ほどにも言ったように、仕事、成功、結婚、奉仕などそれらは悪いものではない。でも本当の俺たちの問題は、「神の為に良いことができているかどうか」ではなく、「良いことですら自分の神の代わりとなってしまっている」ことだ。その良い行いが機能的に自分を満たす偶像となった時、「神を第一に心を尽くして愛すること」が失われてしまう。そうなると、すべての行動が自分の心の奥底の願望やニーズ満たし、存在意義を形成するために行動し始めるので、自然に2番目の本当の意味で「人々を愛すること」もできなくなっている。友情、教会、仕えることも仕事も自分を形成するためになる。結婚も本来は「愛と自分自身を与え合う」もののはずなのに、自分の利益の為に、相手の愛を求め始めてしまう。そうなると神が定めた本来の結婚するも目的も履き違え、相手に間違った自分の願望を求め始め、間違った理由でパートナーを判断してしまう。「神を第一に愛する」がずれてしまうことで、すべてがズレて行くのは分かってもらえただろうか?

じゃなぜ俺たち人間はそう簡単にズレて行ってしまうのか?
どうしたらこの連鎖を止められるのか?

それは今も昔もモーゼの時代も同じ解決法しかない。
先ほども書いたが、「神がしたことを思い出す」ことが鍵だ。
イスラエルに神がまずしてほしかったのは、神の救いと恵みと愛に感謝することだった。
約束の地に向かう道中も安息の地に住み始めても、それだけは忘れてほしくなかった。
これと同じように、神がイエスを信じる者に求めていることは、「福音」を常に見つめ、思い出し、感動し心打たれ、そして感謝して神を愛し生きることだ。イエスが俺たちの為にしたこと、十字架の死と復活により罪が赦されたという「良い知らせ」が救いとなり、ビジョンへの道しるべだ。イエスが道であり、真実であり、そして命そのものであり、ビジョンそのものだ。
なぜなら、俺たち人間みんな、神の2つの究極な目的である「神を愛すること人々を愛すること」を達成できなかったからだ。
唯一、それを成し遂げたのは人類でたった一人、イエス・キリスト。
そのイエスを信じ頼ることで、初めて俺たちは神のビジョン達成に向かい始めることができる。その土台の上に、人生を建てるときに、本来するべき仕事も、作る人間関係も教会もコミュニティーも正しい方向に正しい基準で築き上げることができると確信する。

パリサイ人や宗教家たちの問題は、それを自分で達成できると思っていたことだ。だからイエスが来た理由も理解できず、毎日聖書を読んでいながらも、律法を研究しながらも、神のビジョンに従っていると自覚しながらも、実は神の本当の計画が分からなかった。

イエスは面白いことに彼らにこう言った、「お前たちは永遠の命を求め聖書を調べているが、聖書は私について証しているいるのだ。でもお前たちは命を得るために、私のもとに来ようともしない。」(ヨハネ5:39-40)

同じように俺たちの致命的な問題は、永遠の命、幸せ、成功、満たし、愛を求めてクリスチャンになり、聖書を読んで頑張るが、一番大切なイエスを置いてきてしまうことだ。イエスは真実を見せるために来たのではない、神への道を教えに来たのではない、ただ幸せと人生をあたえにきたのではない。イエスはそんな、宗教の先生だけという存在ではない。イエス自身が、真理であり、道でありそして命だということを忘れないでほしい。俺たちにとってイエス単なる良い先生になってしまった時、ビジョンを「自分で達成できる」という自負に変わってしまう。そして表面ではイエスを信じ救いを受けた思い振る舞っていても、心では自分の力で聖書の言っていることを忠実に守ることで、「良いクリスチャン」になろうとしているなら、それは単なる宗教に逆戻りになる。そして守れていない時は罪悪感を感じて落ち込み、守れているときは高飛車になり他を見下すような、献身度も感情的にもUPとDOWNが激しいクリスチャンにしかならないだろう。

今年の初めにイエスを、福音を思い出してほしい。
そして、すべての自分がすること、仕事も人間関係も奉仕も、「神を愛すること、人々を愛すること」に繋がっているかどうか確かめてほしい。

その上で、することすべてが祝福される2015年になるように祈っている!
今年もよろしく!
ではまた。


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2014年10月24日 (金)

自分自身の価値

お久しぶりです。
教会も新しい場所に移ることができ、やっと落ち着き、またブログを書ける時間が取れました。今回は比較的短いです(笑)

今回はマタイ10:39・マルコ8:35をもとに、最近考えていることや教会のメッセージの中心となっていることをシェアしたいと思う。

聖書では、人間はこの世の中の何から「自分の価値」をもらい、その上に自分の存在意義やアイデンティティーを作って生きていると示している。
前のブログでも書いたが、それを創造主である神以外から受け取ることは、偶像礼拝と言い、結果的に真の神ではなく、それらを心で崇拝し生きていることになる。これは「私はイエスを信じています」と言いながらも、もし自分の絶対的な信頼や信仰がイエスになく、「今ある仕事」、「持っているお金の金額」、「自分のイメージや名声」、「美貌やスタイル」、または「結婚相手や恋人」や「家族」などが心底の自分の頼みと頼りであるならば、それらが自分の実質的な「神」となるということだ。それは自分で気づいてなくとも、自分の奥底の願望によってそうなってしまっている。究極的に言うと、信仰=「はい。信じます」だけではなく、「はい。本当にすべてにおいて神様あなたを信頼し頼ります」になる。それがクリスチャンとして生きることであり、神様と関係だ。

結局、罪とは「悪いことした」=罪なのではなく、良いものでも悪いものでも真の神の代わりにしてしまうこと自体が罪の性質であり根源になる。

でももっと問題なのが、この問題に対して俺たちの力では何もできないということだ。聖書では、人間は神から心も霊的にも遠く離れてしまったがために、「誰も本当に心底から神を求めるものはいない」(ローマ3:10-12)と断言している。なので、例えばある宗教家が神を求めているように見えても、結局自分の「価値」を高めるためになってしまう。「私は神を求める聖人だ」となり、そうでない人と比べたり見下し始める。また社会福祉をしている人でも、究極的には自分の為にってしまう。善を尽くしている自分、福祉をしている自分=良い人間であるとするための行動となる。裏を返せば、自分の価値を高めるためになる。これはすべての善や良い行動、ミニストリーですらそうなってしまう。逆に、マザーテレザのように本当に心からイエスに頼り、自分の価値が奉仕にではなく神にあると知るとき、すべての彼女の奉仕や福祉が真の意味で人々の為になる。結果的に彼女はカルカッタという小さな地域で忠実にしたことが世界に影響を与えた。

結局、誰もが本当の神から自分のアイデンティティーや価値観を見出していなければ、世界の何かから自分の存在意義と価値を探し求めて生きているようになる。

だからイエスはこう言った。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(マルコ8:35)

ここでの「命」という言葉は、ギリシャ語ではいくつか種類がある。よく「命」に対して使われる言葉は「ZOE」だ。この意味は、「すべての命(身体的にも霊的にも」。でもこの聖書箇所で使われる言葉は、「ZOE」ではない。ここでは、「Phycheサイキ」が使われている。これは「サイコロジー(精神やマインド)の語源だ。またその当時のギリシャの世界では、人間の「魂」や存在意義そのものという意味で使われていた。自分のアイデンティティそのものだ。

要は、イエスは何を言っているかというとこうだ。

「もしあなたが自分で自分のアイデンティティー(自分自身)を見つけようとするなら、あなたは自分を見失うだろう。でも私(イエス)と福音(神の愛と恵みのメッセージ)の為に、自分を捨てるなら、あなたは本当の自分を見つけるだろう」。

これは簡単な概念に思えるが、すごく奥深いことだ。

多くの人々は、世の中の何かしらによって「自分を形成」してるので、常にそれが人生の土台となる。
例えば、もしある人が、自分の美貌やルックスが自分の自信とアイデンティティーに繋がっているとどうなるだろう?そしてある日、もっと美人でハンサムな人が現れたら?その人の土台は一気に崩れる。自分が脅威にさらされている感覚を得るだろう。それだけではなく、その人を嫉妬するかもしれない。挙句の果て、その人よりも自分は美人・ハンサムだと競り合うかもしれない。自分の存在自体が揺るがされているのだから。

ある人にとってそれが自分の仕事スキルだったら?必ず自分の上をいく人間はいる。
ある人によって知性と知識だったら?必ず自分より頭の良い人、学歴が上の人が現れる。
ある人にとって、それがお金がどれほどあるかだったら?それももっと上がいる。
イケてる恋人?結婚相手?素晴らしい家族?家?地位?ファッションセンス?名声?

もっと突っ込もう。

あるクリスチャンにとって、自分の価値が「聖書をどれほど知っているか」にあったらどうだろう?自分より神学の知識で勝っている人に出会ったら自分の自信が揺らいでしまう。
それがワーシップリードのスキルだったら?牧会のリーダーシップだったら?
教会のサイズ、弟子の数、メッセージのうまさ、祈っている量、奉仕をしている自分そのものだったら?
その人は、それらの分野でもっと活躍している人を妬むだろう。他の成功しているミニストリーや成長している教会を脅威に思うかもしれない。自分が用いられることにやたらに拘るだろう。そしてその分野で批判をされたり、揺るがされたりしたら過剰に反応するだろう。もしかしたら他を非難し、迫害するかもしれない。パリサイ人や宗教家がそうだったように。彼らの自分自身の価値が自分の従順さと義にあったからだ。だからイエスの恵みと愛という基準に嫉妬し、それを嫌がったのだ。それを受け入れたら自分で築いてきた自分自身の価値がすべて崩れるからだ。

これは誰にでもありうることだ。そして常にその誘惑はある。
そしてその解決はイエスと福音の中でしか絶対に見つけられない。
神を唯一一番に愛し求めることは、俺たち自分自身の努力ではできないからだ。

福音とは簡単に言うとこうだ。
「俺たち人間は自分が思う以上にとてつもなく罪深くどうしようもない存在だと気づくと同時に、イエスの十字架の死と復活により、俺たちが想像できる以上に神様に圧倒的に愛され受け入れられている」ということだ。

この「良い知らせ」を心で受け入れ信じることにより、まず自分自身では自分の価値を形成できず、どうしようもなく絶望的な自分に気づき、一人ぼっちで自己中で、小さな存在だとわかる。それと同時に、こんな自分がイエスを通して神様に圧倒的に愛され、感動し泣き崩れ、そしてイエスがしてくれたことのデカさを知り感謝し大きな喜びがあふれ、自分の価値が神の中だけにあることを心から知る。

そこに自分の価値ができると、自分より美人・イケメン、優秀、高学歴でスキルがあり成功している人々と会ってもビビり臆することはなく脅威には思わず、逆に心底からその人々を尊敬できる。他と比較し他の人が何を持っているかの基準で頑張るのではなく、本当に正しい動機から神様から与えられた自分の容貌、スキルやチャンスを正しい方向へと最大限生かし始める。アドバイスや批判も謙遜的に受け入れると同時に、いざという時は人の目を気にせず、大胆に行動ができる。世の中の価値観に振り回されないので、その価値を基準とし自分を比較しなくて良いからだ。そしてやる仕事も初めて、自分の為ではなく、他人の為・世の為、そして神様の為になる。

神様という基準からズレるとすべてがズレていくが、逆に神様との一致ができることによってすべてが整い始めるのだ。そしてどんな困難や苦しみ、迫害も挫折や失敗とは考えずに、将来の益とすることができる。

なぜ俺たちは、未だに人の目や意見を怖がるのだろう?
なぜ小さなことにリアクションを取って怒り、自分を守ろうとし、人を妬み、自分と人に嘘をつき、良く見せようとし、比べ、失うことを恐れ、働き過ぎ、同時にやらなくてはならない時に怠け、鬱になり、ストレスが溜まるのだろう?
その理由はただ一つ、福音が分かっていないのだ。神様の愛や恵みのデカさがわかっていないのだ。頭で理解しても、心で福音の素晴らしさを信じ神様に頼っていないからだ。要は信じていないのだ。分かっていたら、自分を必死に作り、自分の価値を世の中で見つけようとはしないだろう。

福音を自分の人生の中心とする言うことはこういうことだ。
福音の理解がすべての人生に影響し関わってくる。
それが仕事でも、結婚でも、友情や人間関係、そして教会というコミュニティーのあり方もだ。「自分の命をイエスと福音にあって捨てる」とは、自分の存在意義・価値をすべて福音のイエスの中で手放し、すべてをその基準から生きることだ。

みんなの存在意義と自分自身の価値はどこにあるだろう?

俺の思いは日本人を始め世界中の一人ひとりが福音を心底知り、そして変えられることだ。そこからすべてが変わっていくと信じている。

ではまた!

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2014年9月11日 (木)

人を究極的に動かすもの

最近教会では、ある重要なトピックについて話し、考え、そして教えいる。

それは人間一人ひとりを動かす原動力、そして究極的に必要としているものは何かと言うことだ。今回は結構長いが、凄く重要で為になることだと思うのでしっかり読んでみてほしい。

聖書の概念から見ると、「人は究極的に何かに頼り、崇拝しながら生きている」と言っている。そしてその「究極的な何か」は、真実で唯一の創造主である神そのものでなくてはならないとしている。それができていないが故に、人間が持つ様々な問題や罪が生じていると断言している。だからこそ、あの有名な「十戒」の最初の三つは、「本当の神だけを崇める」、「真実の神以外のどんなものでも「イメージ」を作り崇拝してはいけない」、「そして神の名をむやみに利用したり、唱えてはならない」とある。唯一の神を全身全霊で礼拝する。イエス自身も、すべての旧約聖書にあるルールや預言をすべてこの一言にまとめた、「唯一の神を、心を尽くして、魂を尽くして、知性を尽くして愛しなさい。」と。すべての人の根源はここにあり、すべて人生は「何を愛し崇めるか」によって動いていることになる。

そして、この「唯一の神」が誰なのか、そしてどういう存在なのかをはっきり示しているのが、聖書であり、そして本当の神の「イメージ」そのものであるイエス・キリストと言うことだ。十字架とイエスの死と復活は、神の愛の表現であり、世界が始まってから今までの壮大な神様の救いと贖いのストーリーだ。その唯一の神に救われ、そして共に生きることがクリスチャンのメッセージと生き方。

でも現実的に、崇めなければならない唯一の神を知っていながら、究極的には「他の何か」を俺たちは現実的に崇拝してしまっている。聖書はそれを「偶像礼拝」と言っている。そして一番危険なことは、俺たちクリスチャンたちは「偶像(IDOL)という存在を間違って認識してしまっているところにある。そしてそれがどれほど、神を信じる俺たちにとって危険な事なのかを知らなければならない。

「偶像」と言う言葉を聞くと、大概に人々は、「他の神々」と思うだろう。それが他の宗教の神であれ、お地蔵さんや、阿修羅像、ギリシャ神話のゼウス、日本の山の神、海の神、またはどっかのアイドルグループや音楽や映画のスターかもしれない。でも「偶像」とはそんな単純明確で分かりやすいものではない。

聖書でいう偶像とは、俺たちの人生で「究極的な心の頼みや必要」となってしまっているもの、「生きる糧」、「生き甲斐そのもの」、または「それなしでは絶対に生きていけない」と思われるものだと言っている。本来、神=すべての創造主、すべての根源、すべての源ということなるため、もし人がその「神」を欠いているなら、他の何かがその人を満たす、究極的な根源になっていることだ。なぜなら知らずとも、また宗教を持っていなくても、何かしらを本当の神の代わりに崇めているのだから。要は、実際的に「神」の代わりに俺たちの人生で「生きる原動力」として「機能」しているものが実は「偶像」なのだ。

ある心理学者がこのような事を言った。「自分の本当のアイドル(偶像)を見つけたいなら、自分が「一番愛するもの」を見つけようとするのではなく、自分の「悪夢」の中を探せ」と。
なぜだろう?それは簡単だ。悪夢の中に、「これがなかったら私の人生は終わり」と思っている存在があるからだ。それを失ったらその人にとって「悪夢」になるだろう。

そして大概の場合、その「失いたくないもの」はほとんどの場合、「悪いもの」ではなく「良いもの」であり、一見害の無いように見える存在だ。例えばそれは、自分の「仕事」かもしれない。自分の「美貌」でもそうなりうる。成功や昇進で得た「立場」、必死に「身に付けたスキル」、「夫」、「家族」、「子供」、どんなものでもだ。そしてこれらはすべて良いものだ。でも「良い」ものが「究極的に大切なもの」となってしまった時、それが「神の代わり」となってしまう。そして俺たち人間は、それらのものが取り上げられたり、揺るがされたり、脅威にさらされた時、様々なリアクションととんでもない行動を取る。

ある時は、自分の「立場」を守るために嘘をつく。自分の「美貌」や「スキル」が他より優れていることを守るために、他の人間をけなす。または他の人間が持っているものを妬み、嫉妬し、憎む。または自分の「究極的なもの」が脅威にさらされてしまった時、怒り、最悪のケース、人を殺してしまう。嘘、怒り、嫉妬、殺しなどは「十戒」の他の戒めでも触れているものでもある。
前にも言ったように、一番大切な最初の「唯一の神を崇める」という三つの戒めを破ることにより、自動的に他の戒めを破る行動に出てしまうのだ。

なぜ、人は恋人と別れた時、ある人はすぐ立ち直れて人生で先に進み、またある人はいつまでも恋人が忘れられず、鬱になり、他の人を拒否し、最悪自殺までするのだろう?それは後者が、その「恋人」を自分に究極的に必要な存在としてしまっていたからだ。
そしてその人は言うだろう、「私はその恋人を本当に愛していたからだ」と。でも実際の所、自分の究極的な「必要を満たす」ためであり、結局のところ「愛」ではなく、「束縛と自己中心」でしかない。

またある母親は、成長した自分の子供を快く手放し励ますことができ、ある母親は自分の子供からいつまでたっても自立できずに、コントロールしマザコンの子供を作ってしまう。なぜだろう?それも同じ理由だ。その母親にとって、旦那よりも何よりも、子供が究極的に必要になっているからだ。

イエスは、これらの「偶像」を捨てなくてはいけないと言っている。子供や夫、家族、恋人、仕事と決別しろと言う意味ではない。でもそれらを究極的な存在とするなという意味だ。そしてそれらにコントロールされなくなって初めて、本当の正しい意味でバランスよく、子を愛し、夫と結婚生活をすごし、家庭を養い、そしてバランスの取れた仕事の仕方ができると言っている。

正しい心の状態であれば、親として子供には叱るべき時にしかり、励ますときに本当に励ますことができる。でももし自分の子が究極的に必要になってしまっていたらどうだろう?その親は、その子供に好かれる為に、しかるべき時に、「嫌われるのではないか?」と過剰に思い、愛を持って叱れない。またはもし「良い母親になれば世間や夫から認めてもらえる」と言うことが、その親の究極的なニーズだったら、逆に子供に対して厳しすぎているかもしれない。「行儀良い子供=自分の母親としての評価」になってしまっているからだ。

もし牧師自身が、この偶像の問題を持っていたらどうだろう?もし神ではなく、ミニストリーが究極的にその牧師やリーダーに自信を与え、「人に奉仕している自分」から受け取れる正義感と「義」をミニストリーで成功することによって養っていたら?言葉では「福音」語り、愛を唱え、聖書の言葉使い説教をしている。でも心の中はどのような状態だろう?神を究極的に愛していることになるだろうか?

もしその人のミニストリーが揺るがされたり、成功しなかったら?または教会が批判されたれり、もしあるメンバーがその教会から離れようとしたら?ミニストリーというその人の「究極的なもの」を脅かされたら?

その人は、怒り、過剰に反応しするだろう。もしかしたらメンバーが離れないよう支配し過剰にコントロールやルールを作るかもしれない。自分に同意しない人間を憎み、悪口を言うかもしれない。もしかしたら様々な嘘を用い、自分の立場や正当さを守ろうとするかもしれない。自分のミニストリーを立て上げて影響力を持たせるために全身全霊を注ぐだろう。なぜならそれらがその人自身の心と霊的なニーズ(自信、存在意義、自分の価値、幸せ、喜び)を神の代わりに究極的に与えているからだ。

自分自身もこの誘惑とチャレンジに気付かされた時期もあった。とてつもなく蔑まされる成長の過程であり、神からのレッスンだった。ミニストリーだけでなく、他の何かが気づかないうちに自分の霊的糧になってしまっているかもしれないと気づかされた。

同じようにどのような「良いもの」、たとえそれが奉仕や神に仕える行動でも偶像になってしまう。

延々と説明してきたが、理解し始めてくれただろうか?人の心と行動がどう「偶像」と結びついているかを?

では、どのように自分の本来の動機や心を探り、自分の人生で「機能的な偶像」となってしまっているものから離れ、本当の神を中心に生きていけるのか?今回はそこまで書きたい。

それをしていくためにはまず、自分の「偶像」を認識(IDENTIFY)しなくてはならない。

その鍵は、マタイの書4章~5章にある。

これは今回の1ヵ月間のトレーニングでも学んだことだが、人は4つの分野のことを基準に偶像を作り出していると言われている。この4つのうちどれかを究極的に心で求め、そして偶像を生産し、イメージを作りながら人は生きてしまっている。

その4つは、イエスが悪魔に試された中にまずヒントがある。

-COMFORT(快楽と心地よさ):自分の時間を持つこと、自由、解放。
-APPROVAL(認められること):愛されること、賞賛されること、有名になること、大切だと思われること。
-CONTROL(支配とコントロール):物事をすべて管理すること、不安要素がないこと
-POWER(権力・影響力):成功すること、人より勝り勝つこと、影響力を持つこと

これら4つが人々の核となる偶像になりうる存在だ。

イエスは、最初に悪魔からこう言われた、「もしあなたが神の子なら…」 要は、「お前が神の子として認めて欲しいなら、~してみろ。」だ。これはまさしくAPPROVALの(認められようとする)誘惑だ。
次に悪魔はこういう、「石をパンに変えて見ろ。」、言い換えると、「お前断食で腹減っているんだろう?自分の能力で自分の空腹を満たしてみろよ」だ。これはCOMFORT(快楽と心地よさ)を基準に誘惑している。

その次は、「神殿の上から飛び降りて、天使が助けてくれるようにしてみろ」だった。これも言い換えると、「お前には天使がついているんだろう?すべてがしっかりコントロールされていて、身の安全があることを証明してみろよ」だ。これはもちろんCONTROLの誘惑。

最後も簡単に分かるだろう。「オレを崇め、跪けば、この世のすべてを挙げよう」だった。そうこれは、権力であり、支配する誰よりも勝るという誘惑だ。

更にこの後マタイ5章で、イエスは山上で「神の国の価値観」を最初に教える。それは何だっただろう? 弱さ、悲しみ、貧しさ、謙遜、迫害(拒絶)、そして平和を作り出す者。実はこれらの価値は、上の4つの悪魔が使った価値感と真逆となる。

これは真のコミュニティーの記事でも書いたので参考にしてほしいが、比べるとこうなる。

 

World世の中(社会)  VS  The Kingdom of God神の国

Power権力(お金・豊かさ) VS Weakness弱さ(貧しさ、足りなさ)

Comfort心地よさ(幸せ)  VS Sadness悲しみ

Success成功(他人より優れている)VS Sacrifice犠牲(リスク、コスト、寛大さ)

Praise and approval賞賛(他人から認められること) VS Rejection 除外(認められない、賞賛されない)

まとめると、こういうことだ。クリスチャンであると言いながらも、もし俺たちの心の中で究極的に、世の中の価値観が人生で重要になっている状態なら、自分でそこから何かしらの偶像を作り出して、それに仕えていることになる。もっと突っ込むと「教会」そのものがその間違った価値観をもとに建てられてしまうこともある。

でも逆に福音によって、自分の「弱さ」に気付き、イエスの中で強くされている状態。悲しみを苦しみを恐れず、その中でも喜びを持っている状態。他人より勝る・優れるを追い求めずに、神から来る自信により、リスクを犯し、犠牲を払いながら人生を前進させている状態。そして認められるためではなく、神に既に認められいるが故に、除外されても人々を変わりなく愛し続けようとする状態。これらに価値を置いて生きているなら、唯一の神をしっかり愛し生きていると言うことだ。

でもまず俺たちは自分の心の中にある、偶像を認識しなくてはならない。敵がどこにいるか分からなければ、奇襲を受けて対処できないように、もし把握していないならそれは一番危険と言うことだ。でも逆に把握していれば、自分の心が世の中の価値観が傾き始めてしまう瞬間をとらえ、すぐに対処できる。

俺自身の偶像は、「認められること」だったと気づかされた。それに気づき始めた時、自分の心の行動パターンが良く分かるようになった。例えば、父親として、自分の娘に対して過剰に怒ってしまうときもあれば、怒らない時もある。なぜあることには過剰に反応して、あることにはしないのだろうか?例えば娘が部屋を散らかしている時は、そんなに俺は怒らない。でも娘が、父親として尊敬を表さない態度を少しでも取った時、俺はすぐに過剰に反応してしまう。なぜだろう?それは自分の中で「認められること」が偶像になってしまっているからだ。「尊敬される父親として認めてくれないこと」に反応しているのだ。でももし俺の自信が完全にイエスの愛によって受け入れられていることを自覚している状態なら、過剰な反応を取らなくて済む。落ち着いて、娘を悟して問題に対処できる。

あるこういう話を聞いた。ある時ある教会に、プレイボーイ(女性との遊びがヒドイ)で有名な男がやって来た。彼は自分の女性との関係にうんざりしていて、変わりたいと思い教会にやって来た。だがもちろん最初は、教会の牧師やメンバーたちも少し警戒していた。「こいつは本当に変わるんだろうか?他の女性に悪影響を及ぼさないだろうか?」と。だが、彼は教会に来てメッセージを聞いていくうちに、本当に女性との間違った性的関係を止めて、教会に毎週来始めた。それから聖書勉強のグループに入りクリスチャンとして成長しているように見えた。数か月経った後、ある問題が見え始めた。彼は毎週聖書勉強のグループに参加していたのだが、グループに参加する度に、意見がドンドン強くなり、しまいにはグループを仕切ろうとし始めた。何度注意しても、グループのリーダーに過剰に意見し、常にグループをリードしようとし始めたのだ。終いには牧師に注意され、怒って教会を離れてしまった。

そこで牧師は考えた、「何が彼の問題だったのだろう?」と。そこで数年後に牧師はある日ハッと気付いた、彼の問題は、「コントロール」だったと。彼が女性との性的関係に問題があったのは、実は女性と寝て関係を持つことで、その女性を感情的にも支配し、コントロールしている状態が彼に取っての心の「糧」だった。そして教会と言うに「環境」に変わっが、外側の宗教的な行動を身に付けただけで、根本的な「偶像」を対処したわけではなかったのだ。だから聖書勉強のグループでも、「コントロール」を得ようとする行動に出た。イエスという絶対的な愛と心の糧が、彼の心の中で究極的な神に変わってなかった為、結局昔と同じ「偶像」を追いかけていたに過ぎなかった。この視点から見ると、彼は本当にクリスチャンとして変わり、イエスを信じていたのだろうか?と言うことも問える。

実は、俺も含め多くのクリスチャンたちも同じことを繰り返ししてきているかもしれない。本当の「心の根の問題」を解決せずに。表面だけの行動・態度は、最初のクリスチャンになる興奮で彼のように変わったかもしれない。でも一番大切な、「唯一の神を究極的に愛する」と言うことには程遠いかもしれない。聖書でも、イエスはこのことをとことん追求した。表面だけ宗教をやってる宗教家を批判した。奇跡や奉仕で結果を出していても、「あなたは知らない」とキツイことまで言った。放蕩息子では、明確な罪をしてきて立ち返った弟よりも、「従う」という行動と家(教会)にいることを通して、父本人ではなく、「父の持っているもの」を得ようとした兄を危険視した。「神の持っているもの」が究極的に欲しいものだった故に、それもまさしく「偶像礼拝」だ。

皆の心の奥底にある「偶像」なんだろうか?
この教えをすると、大概多くの人は2つのどちらかのリアクションを取る。ある人は、「私、4つ全部当てはまるんですけども」という反応と、「俺には何の問題もない」と言う人だ。実はこの両者とも、同じ問題を抱えている。それは、しっかり自分の偶像を認識していないということだ。前者は、「何が実際に自分の心を左右しているか混乱している状態」、後者は「自分の問題を完全否定している状態」だからだ。でも先ほど、言ったように、自分の敵と心の中の状態を知らないのは一番罠に陥りやすく、標的の的となる。

これは聖書の自分たちも皆個人的に乗り越えてきたことだ。
例えばペテロ。彼の偶像は何だっただろう?それは「認められる」ことだ。ペテロは何度もイエスに気に入られるために発言をし、大胆な行動で周りにも認めてもらおうとした。だが結局、一番この分野でイエスを裏切り、恥ずかしみを体験する。その時本当に、イエスの無条件の愛で受け入れられ、他に認めてもらう必要のないことに気付く。ヨハネは、「心地よさ」。イエスの常にそばにいて、一番情熱的だが、一番イエスにべったりついていた。でも彼は一番他の弟子たちよりも、長く、苦しい人生を生きることになる。黙示録を書いた時も、拷問で全身火傷の状態だった。一番「心地よさ」を求めていた人間が、ある意味「一番苦しみを通ったかもしれない」。トマスは疑う心から、コントロールと言った、すべての物事を明確に把握していなければ気が済まなかったかもしれない。その他多くの聖書の人物たちも、神と歩と共に、自分の「偶像」に向き合って、乗り越えていった。俺たちも同じだと思う。でも逃げていては、何も解決されず、そして神を唯一愛することはできないだろう。

最後に、どう解決していくかを簡単に書きたい。

まず最初に、自分の「偶像」を認識できているだけでも、半分は解決していると知って欲しい。先ほども書いたように、認識できていればパターンが分かるため、それに気づく度に、イエスに立ち返る行動と祈りをすることができる。例えば「COMFORT 心地良さ」が偶像の場合、その人は誰よりも「自由やプライバシー」を求めるため、人から強要されたりストレスされることを大いに嫌い、過剰に反応する。仕事で休暇を取っても本当の意味で休めないのは大概これが問題だ。でもそれを知っていれば、その瞬間、「イヤ、イエスにあって常に休息(自由)を得ているし、誰からもプレッシャーを感じる必要はない」と心を切り替えられる。そして本当の意味で、「安息(心地良さ)」を得られる。

「認められること」が偶像ならば、「他の人がどう思うか、何を噂しているか」など過剰に考えてしまっていることが良くあるので、その「考え」がやって来た瞬間に、「イエスに認められているから、別に関係ないじゃん」と切り替えることができる。

「コントロール」なら、心配しそうになった時、または物事が自分の思っている方向に行っていない時に、イエスに「心配」を投げられる。

「権力」なら、競争心にあおられた時、負けたとき、失敗して辱めを受けた時にも、過剰に反応して自分を強く見せなくても済むようになる。

「認識」は解決の始まりだと思ってほしい。そして時間もかかることも知っておこう。ペテロやヤコブがあれほどの年数を過ごして徐々に解決したなら、俺たちも日々の生活で常に向き合わなければならない。

次に解決に関して言いたいことは、「賛美とワーシップ」だ。一番シンプルであり、一番大切なことだ。もちろん毎日聖書を読み、賛美することも大切だが、しっかり教会という環境で、他の多くの同じ唯一の神を愛する仲間と賛美して、神様に目を向けることは絶対に欠かしてはいけない要素だ。この視点からみると、ちゃんと教会の環境にいないクリスチャンはどれほど、「偶像」に影響され生きてしまっているか分かるだろう。どんな理由や言い訳をしていても、教会に繋がっていないということは、「神の優先していることを俺たちが優先していない」と言うことになる。クリスチャンとして、他の神の兄弟たちと過ごし、そして共に礼拝することは聖書でもはっきり行うように教えていることだ。他の兄弟たちを受け入れ愛さないことは、神を愛さないことに繋がる。「神を愛し隣人を愛する」と言うことは二つで一つでもあるからだ。

最後に、毎日、福音を再認識して、福音によって感動し、心を打たれ、変えられて生きて行くことだ。クリスチャンの人生は、自分で自分を変える自己啓発ではない。「HOW TO」でも「原則」でもない。イエスの救いから来る力によって変えられ、そしてその同じ力によって、今まで自分ではできなかった「神に従う」という人生を生きることだ。イエスの救いで始まった人生なのに、自己啓発に戻ってしまったら、それは逆戻りと同じだ。自分を救うことは自分ではできないのだから。福音を毎日再発見してほしい。そうしていく中で、自然に心の中の優先順位は変わり、神を一番にできると思う。

「偶像」というトピックはかなり膨大な内容だが、今回読んでくれてありがとう。
このことを解決することで、更なる癒しと人生の問題を乗り越えることに繋がるように祈っている。質問等あれば何でも聞いてほしい。

ではまた。

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2014年8月11日 (月)

福音と日本人

今回アジアの都市やまたヨーロッパで奉仕する中、色々気づかされたことがあった。
それは日本人がどのような国民性を持っていて、またそれらがどのようにキリストが伝える福音を受け取る状態に影響しているかという事だ。

OO+を初めてから、「日本人に福音を理解し、受け取ってもらうにはどのように伝えれば一番効果的か?」をもっと考えるようになった。もちろん今回受けた教会開拓のトレーニングの中でも常に考えながら学んでいた。

トレーニングの中で、シンガポールに行く機会があったが、自分にとってこの都市が一番アジアの中でも行ってみたい場所だった。シンガポールと言えば良く聞くことが、「きれいな街」だ。ゴミを道端に捨てただけで罰金、電車の中で飲み食いすれば5万以上の罰金。ようはルールで、何とか街をきれいに保とうとしている。だが実際行ってみると、確かに「きれい」ではあるが、東京とあまり変わらない、むしろある地域では東京よりひどく汚い場所もあった。

東京に来る多くの外国人からは、「東京の街はすごく清潔だ」と良く聞いていたが、シンガポールや他の大都市と比べるまで。東京がどれほど高い清潔感の水準を保っているか気づかなかった。しかも、シンガポールはルールでそれを保っているが、日本は国民性がそうしている。

今回イタリアや香港を見た時も思った。イタリアは昔あれほどの素晴らしい文化や建造物、芸術というものを生み出していながら、今は国や国民性自体がドンドン廃れていってしまっているように見えた。レストランではぼったくり、サービスは不親切、運転では危ないくらい自己中。香港もゴミはそこらじゅうに家庭のゴミを置き去りにして、ゴキブリがうじゃうじゃ道を走っている。別にそれらの国をけなしているつもりはないが、実際にそれが現実だった。

世界の中で他の国に比べ日本という国は、様々な分野でかなりの高い水準を保っている。ビジネスや顧客へサービスと丁寧さ、町の清潔感、親切さ、マナー、そして一般的な人々のモラル。国の法律でそうなっているのではなく、なぜか日本人という国民の中に埋め込まれていると感じる。地震や津波の災害時の日本人の態度とモラルの高さも各国で取り上げられ、また最近のワールドカップでもニュースになったが、日本人だけが観客席からゴミを拾って帰るという事からも分かるだろう。そして日本人はそれを誇りに思っている。

だが良く考えて見ると、実はそのプライドが、「福音」を受け取ることの妨げにも同時になってしまっていると今回気づかされた。

先ほども言ったが、最近日本人は、自分たちにその高い道徳心(モラル)があることに今まで以上に気付き始めている。そしてそれを素晴らしい国民性として誇りに思っている。もちろん日本人である俺もその一人だ。でも更にその思いや考えを良く見てみると、「自分たちは良い人間だ」と考えていることになる。もちろんモラルの基準が高いことは素晴らしいことだ。それは人間が共に生きていくには必要な事であり、共に住む上で素晴らしいことだ。聖書を始め、様々な宗教の書物や書物でも常に道徳心を持つことを強調している。俺自身、日本人にそれを無くしては欲しくない。

でも問題は、そこにあるプライドと「宗教心」だ。
日本は昔から、「人生で良い行いをしていれば天国に、悪いことをしてきた人は地獄に行く」という考えがあった。これだけが理由ではないが、そのため日本人は、「人様の前で良い人間」になる努力をどの国民よりも努力してきた。「人様に迷惑をかけないよう生きなさい」と特に俺たちの世代の前の人々も常に親や爺ちゃん・お婆ちゃんに言われて来ただろう。商売でも、「お客様は神様」と言い、サービス精神を高めてきた。常に世間でも良い評判を気にして、良い学校・大学・就職へと努力する日本人。そしてその結果が今の日本人の国民性だ。それと共に日本人が考え始めたのは、「自分は他より良い人間」または「私は悪い人間ではない」という事だ。

でもここでイエスが伝える「福音」を受け取る際に、躓きになってしまう。
「私は既に良い人間」=「救いは必要ない」という事になってしまう。
日本人が「罪からの救い」を聞くと、「なぜ?」となる。
「え?良い人間である私たちになぜ救いが必要なの?」と。
そしてイエスの十字架と死からの復活の意味がよく理解できない。神学的や哲学的に理解できても、福音が実際にどう自分の心に適用し、人生を変え、自分が人間として変わるのかが理解できないのだ。日本人として俺もそうだった。本当に自分がどうしようもない人間だと分かるまでは・・・。
そして日本人は世界の中でも特に、「自分は大丈夫だ。良い人間だ」という自覚が強い。

聖書では、人間は全て「神様の基準」に達することができなく、皆が罪人だと。
でも本当にこの事実を俺たちは理解しているだろうか?
もっとこの真実を深く掘って考えて見るとこのように言える、それは“誰も「ヒットラー」や「大量虐殺してきたテロリスト」に対してですら、「俺はお前らよりもましだ」と言えないという事だ。”

ある人はこういうかもしれない、「でも俺は人を殺してない」と。
でもイエスはマタイの書でこういう、「もしお前たちが、他の人に対してバカと言っただけでも、その人を心の中で殺していると同じだ」と。このイエスが使う「バカ」という本来の意味は、「人を無視する、または価値がないとする」という意味だ。もしこれが神の基準なら、俺たちは既に何度も人を拒絶し、無視し、その人々を価値がないとする度に「人を殺している」ことになる。すでに十戒のかなりシビアな律法を破っているわけだ。どんな人間でもね。
そしてそれ以前に、嘘をつき、他のモノを神々として生きている。もうフルスロットルで十戒全部破っている。もし俺たちクリスチャンですら、モラルや生き方で他人に勝っている、「アイツよりもマシだ」と思っているなら、福音を全く理解してない証拠だ。

今でもそうだが昔の日本の多くの小説作家達ですら人間のどうしようもないドロドロとした性質には気づいていた。作家という職業は、人間性をトコトン追求するが上に、人間が本来持っている悪や心の闇を深く知ってしまう。それを知ってしまうが故に、絶望や鬱に追い込まれ自殺する作家も多い。多くの作家が様々な書物を読む中で、聖書を読む者も多い。中には聖書を読み、聖書の真実を知り福音を受け取る者もいるが、中には聖書が示す神のモラルの基準の高さに自分たち人間の足りなさに気付き、逆に絶望する者もいる。それは聖書が一番強調するイエスの恵みと福音を理解せずに読んでしまっている結果だ。
確実かどうかは分からないが、夏目漱石が聖書を読んだ後に、自殺をしそうになったとも聞いたことがある。彼もまた「イエスなし」で聖書を理解しようとしたかもしれない。聖書の道徳の教えがイエスなしでは、彼には重すぎたのだ。

聖書はある意味危険な書物だ。イエスの山上での教えを見ても分かるが、神が俺たちに求めている基準はとてつもなく高い。ハッキリ言うが、その基準を俺たちの努力で達成することは無理だ。「目が罪を犯すのなら、その目を取ってしまえ、手が罪を犯すのならその手を切り落としてしまえ」、「敵を愛せ、自分がしてほしいと思うように他人にそのように接してなさい」。これらはイエスが教えるモラルの一部の基準だ。だが、誰が一体このすべてを100%こなしてきただろう?誰もいない。

でもここが聖書そしてイエスの教えの重要なポイントだ。イエス本人以外に、この「基準」で生きた者はいないという事だ。前にも書いたが、イエスのモラルの教えは、「できないことリスト」だ。そして聖書の福音のメッセージは、だからそれを唯一した、神であり同時に人間であったイエスを信じ、共に生きることにより、それらを可能にしていけるという事だ。それだけでなく、俺たちがしてきたすべての過ちや悪をイエス自身が十字架で背負い、その死からよみがえることにより、俺たちを救い出しそして新たなスタートを与えてくれる。「人を殺してきた」俺たち人間を赦し変えてくれる。それは一方的な恵みであり、愛だ。

もし俺たち日本人が、「俺はまだマシな(良い)人間だ」という事を信じつづけるなら、イエスの福音は完全には心に届かないだろう。そして聖書が言わんとしていることを理解するのは難しいだろう。もっと踏み込むと、日本人は誰よりも「宗教的」だということだ。
「誰よりも自分の努力で良い人間になろうとしている」=「誰よりも宗教的」なのだ。
宗教=自分の働きで自分を救う・神に近づくだからだ。
一番宗教を嫌う日本人が一番宗教的というのは皮肉的だ。
でも俺たちはそれに気づかなくてはならない。

だから一番宗教的にキリスト教をしてきた日本人クリスチャンが、挫折してしまった時一番落ち込むこともある意味理解できる。必死に教会に行き、聖書を読み、そして仕えて来たクリスチャンがある日、教会やまたは同じ信者に躓いたり、または気づ付けられることは正解中でも良くある。そして日本では特に、この状態で長期に落ち込み挫折するクリスチャンが多いように感じる。これも日本人が人一倍自分の道徳心が高いからだ。一生懸命仕え、信じて来た者が躓いた時、相手を責めることもするが、それ以上に自分自身を赦せないケースが多い。強いクリスチャンでいられなかった自分、教会や奉仕に忠実になれなかった自分、牧師や他の仲間を失望させた自分が赦せないのだ。それは自分の努力でしてきたからだ。

または最悪のケース、神様に文句を言い始める。「俺はこれほど仕えて来たのに」、「これほど教会に尽くしてきたのに」、「なぜ祝福されない?」、「なんだこの仕打ちは?」。放蕩息子の話の兄の態度だ。

でも本当の福音を理解している時、このどちらからも解放される。
福音よって生きて来たクリスチャンは、自分の努力中心で仕えて来た思いは少ないが故に、神様が自分に対して貸しがあるとは思わない。「仕えるから祝福される」とは基本的に思わず、感謝の気持ちから仕えたいから仕えることができる。

逆に失望や挫折した時も、自分の努力中心ではないために、自分を責める必要もない。別に教会や牧師に貸しがある、または他を失望させたと他人の目を気にしたり思わなくて良くなる。正しい時に、神様が動かしてくれるように決断し、必要な時に強い決断を自信を持って決め、また耐え忍ぶ時期であれば自信を持って仕えることができる。

日本人はクリスチャンであっても無くても、今一度、「福音」を見直す必要があると思う。
日本人に必要なのは、
「自分をもっと良い態度で、もっと良い人間になりましょう。
良い仕事をもらいましょう。
素晴らしいパートナー神様に与えてもらいましょう。
良い結婚生活を持ちましょう。
そしてもっと成功しましょう。」を教える宗教ではない。

それらは素晴らしいことであり、もちろん正しいクリスチャン生活を生きる上で結果的に受け取ることかもしれない。でもそれら自体が、福音(良い知らせ)になってしまったらそれはもはやキリストから離れた全く別の宗教だ。

もし結婚できなかったら?
もし成功できなかったら?
もし結婚生活がうまくいかなかったら?
もし思っている以上に良い人間になれなかったら?

「自分の人生でそれが機能」するからクリスチャンになったのだろうか?
それとも「イエスが真実」だから信じ、神について行く決断をしたのか?
キリスト教は、ハッピーになれるからクリスチャンになるものではない。
成功できるからでもない、むしろもっと苦しむ時もあり、困難や現実に立ち向かわなければならいだろう。この世の中の偽りに対抗して生きているのだから。
「自分の人生で機能するから」と理由だったら、真実は失われてしまう。要は機能するなら何でもよくなるからだ。お金が機能するならそれで良くなってしまう。悪の宗教がその人にとって機能するならそれでよくなってしまう。キリストを真実時、それが絶対なる真実であるから受け入れるべきだと俺は思う。それによって世の中の視点から人生が良くなろうが悪くなろうが。

宗教をやっている状態だったらそれらの状況にぶつかった時、キリストを捨て、教会に通う事を止めてしまうだろう。でも本当に福音によって感動させられ動かされて生きているクリスチャンたちは、キリストにあって強く生きていくだろう。また新たに正しい教会をまた見つけ、仲間を見つけ、また新たなビジョンを持ち、ただ傷つけられたからとって挫折するどころか、困難によってもっと強くなっていくだろう。それが聖書の話に出てくる神を信じる人々が生きた生き様だったからだ。

日本に本当の福音を伝えたい。

ではまた。

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2013年12月20日 (金)

本当の自由

前回は、キリスト教の中核となる「福音」の意味と大切さについて書いたが、今回はそれが実際にどのように俺たちの生活に影響していくかを話していきたいと思う。これは先週のメッセージの内容でもあるので参考にしてほしい。

一般的に、世の中の考えでは何かしらの「宗教を持っている人」、「宗教を持っていない人」と言う二つに分けている。宗教的vs無宗教、道徳的vs非道徳的、律法主義vs無法律主義など、「神」と言う存在が「あり・なし」かのどちらかで考える。でも「福音」はこのどっちかと言う単純なものではない。「福音」は宗教でも無宗教でもなく唯一まったく違うものだ。

聖書では、基本的に「本当の神」を信じて従っていないのであれば、結果的に他の何かを「神の代わり」として従い、それによって影響されコントロールされていると言っている。聖書ではそれらをIDOLS(偶像)と言っていて、人間は必ず何かしらの「奴隷」となってしまっているという。もっと簡単な言い方をすると、人間は何かしらの「宗教」を自分たちで作ってしまっていることになる。たとえ、ある人が自分は、どんな束縛も無く完全に「自由」と信じていても、必ず何かに影響されている状態であり、自分が一番大切だと思っていることによって自分の行動や決断に影響しているわけだ。無神論者と言う人がいるが、ある学者は、無神論ほど信仰が必要な考えはないと言ったこともある。すべて神が存在せずすべてが偶然で起こるという考えのほうが、信じることが大変だという事だ。結局それもある意味宗教となる。同じように人生のどんな良いことであっても悪いことであっても、神の代わりとなってしまう危険性がある。

人にはそれぞれ大切なものがある。例えば俺にとっては、妻や娘がとても大切であり、もしその大切な存在が危険にさらされたり脅かされたりすれば、心配になり、時には害をもたらした人間に対して怒りを覚えたりすることがある。それは人間としてごく自然なことであり、当たり前のことだ。だが、人生で究極的に一番大切だと思っていることに対しては、俺たち人間はそれ以上の感情や過剰な思いを置いてしまうものだ。もし究極的に大切なもの、または頼っていたものが奪われたり、脅かされたりすると、人間は大抵どうしようもない恐れに駆られる。希望も失い、感情的にマヒすることもあれば、激怒する場合もある。それらがその人の人生の目的や生きる理由になっているからだ。

アメリカのティム・ケラーと言う牧師の経験でこういう話がある。
彼がまだ若い牧師の頃、ある二人の奥さん方をカウンセリングしていた。二人とも結婚していて息子がおり、クリスチャンだったが、両方とも旦那さんがあまり良い旦那ではなく、二人とも夫の事が赦せない状態だった。A子さんは比較的献身的なクリスチャンであり、彼女の旦那さんもB子さんほどひどい旦那さんではなかった。逆にB子さんは、あまり強いクリスチャンには見えず、旦那さんもA子さんよりもひどい旦那だったので、彼女の方が「赦す」ことが困難に思えた。ティム牧師は、若い牧師なりに二人にできる限りのアドバイスを与えた。そして結果的には、強いクリスチャンと思われたA子さんは旦那を赦せず、逆にもっとひどい旦那さんを持っていたB子さんが赦すことができ悪い状況も乗り越え始めた。その当時、ティム牧師はなぜB子さんにはできて、もっと可能性があるように見えたA子さんには赦すことができなかったのかが大きな疑問だった。そして、数年後ティム牧師はその理由にやっと気づいた。

その理由は、A子さんにとって究極的に大切だったものは、自分の息子だったという事だ。それは神様以上、そして自分の夫以上だった。もちろん子供を愛することは人として当たり前だ。でも彼女の考えはこうだった、「もし私の息子が健全に成長し、良い大人になり、世の中に貢献できるような人間になれば、私は報われ、私も価値のある良い母親として生きれる」。
一見、自然な思いのように見えるが、実は彼女の自分の存在価値、唯一の生きる目的、認められる基準、そしてアイデンティティーそのものが自分の息子にあったのだ。結局、本当の理由は、本当に息子を愛することではなく自分の必要の為にあった。そして結果的にその存在を脅かす夫を赦せなかったのだ。

2010年に日本ではある衝撃的な事件が起こった。ある30歳ぐらいの男性が引きこもりだった。家族はなんとか彼を社会に復帰させようとしたが、結局できずに両親は毎日昼夜と食事を息子の部屋の前に置くという生活を続けていた。ある日、これ以上こんな生活は許せないと思った父親は、家のインターネット回線の契約を止めてしまった。その途端、今まで部屋に閉じこもっていた息子が叫んで出てきた、「インターネットを解約したのは誰だ!」と。そして彼は包丁で他の家族4人を刺し始めた。結果的に、父親は亡くなり、1歳ちょっとの赤ん坊の命までも奪われた。

その後、弁護士や警察は、なぜそのような行動に出たのか男に問い詰めた。すると彼はこう説明した。男は部屋ではいつもヤフーオークションで様々なものを買っていたそうだ。購入していた商品は、キッチンの雑貨など全く彼には必要ない物だった。なぜそのような物をわざわざ買っていたかのか?実は、彼にとって求めていたものは、商品ではなくヤフオクでの取引で起こる人とのコンタクトだったのだ。引きこもりの男にとって唯一外の世界の人間との交流の場所がヤフオクの取引だったのだ。それは彼に取って唯一の「生き甲斐」だったのかもしれない。そしてその「究極的な支え」を失った時、彼は理性を失い、怒り狂った。これはテレビで言っていたことだが、その瞬間彼は頭の中である声を聴いたと言っている。「やっちゃえば?」と言う声だったそうだ。

これらは極端な例だが、俺たち人間は誰しもその究極的な大切なものがある。自分でそれらを気付いていない場合が多くある。必要以上に追い求めるものや存在は結局俺たちの「神」と代わりとなってしまう。だからある人は、恋人と別れて何年経っても立ち直ず、中年で仕事を失うと自殺をし、若者は大学の試験に受からなかっただけで命を絶ってしまう。また必要以上に子供を愛するが故に、一番子供に必要な父親母親という夫婦の関係に対して初めから努力しない場合もある。また自分の子供を手放せないが故に、嫁や婿に嫌がらせをする姑がいる。

ある宗教では、神を間違った形でとらえ、その信仰そのものが行き過ぎた行動に人を動かしてしまう場合もある。その理由は多くは自分勝手な場合が多い。基本的に「宗教」は、自分自身の良い行いと努力によって救われ、神に認められようとするのが概念だ。故に、結局自分自身に目が行く。他の誰よりも神聖だと思い、自分の生き方と行動そして献身の態度が勝っていると考えてしまう。結果的に、神と言う存在そのものが生きる目的になるのではなく、努力している自分、神に近づき神聖化している自分に価値を置くことが中心となっていく。そこに自分の存在価値を作り始める。だからその規則や信仰の考えが脅かされると怒り、他の考えをあからさまに否定し始める。そして悲しいことに暴力や戦争につながった歴史もある。イエスの時代では、パリサイ人という宗教家がまさしくそうだった。

これらの例を見るだけでも、様々な問題の根源が、人が何を崇め、崇拝するかにあるかが分かるだろう。人は宗教を持っていなくとも、結果的に究極的に何かを大切にし、追い求めるものが「自分の宗教」になっているのだ。そしてその根源は、愛され認められたい、尊敬されたい、自分の存在を確立したいという人の心にある。そのぽっかり空いた穴を埋めるために、人は何かを崇め、崇拝するようになっている。神から離れてしまった人間はそれらがすべての人間の「初期設定」になってしまったのだ。

では「福音」は何が違うのか?なぜ人を根本的に変えることができるのか?
それは前回も書いた内容にもある。
「福音」とは、俺たち人間が何か良い行いをする前に、神は人間を愛し、神自身が行動を起こし、イエスと言う犠牲を払い、そして人々の罪を取り除いたという「良い知らせ」だ。人は皆すべて罪を犯したが故に、誰一人として、自分で自分を救うことはできない。正しい行いをした正しい人だけが救われるのではなく、完全な一方的な神の愛と恵みの故に、俺たちは救われたという事が福音のメッセージだ。

このことを良く考えてほしい。
「何かして達成する以前に、神様から愛され受け入られた」というこの真実を本当の意味で受け取る時、俺たち人間の「初期設定」の必要が完全に満たされる。愛され認められる為に生きる必要がなくなる。自分の存在を何かの成功や、持っているものや金の上に築く必要がなくなる。また人と比べなくてもよくなる。結局、自分が何かしたから救われたのではないからだ。自分勝手な考えから、神への感謝と喜びに心が変わり始める。自分の夫や妻、そして子供を、自分の存在を確かめるために愛そうとするのではなく、本当の意味で愛することが可能となる。どんな人種の人々とも公平に接することができ始め、自分のコントロール下に置こうとしなくても良くなる。これがすべての束縛からの完全な解放であり、本当の自由だ。「自分を満たすためだけに生きる宗教」に、コントロールされない本当の自由。

じゃなぜ、これを信じ受け取っている俺たちの多くは、未だに自分自身に自信がなく、人目を気にし、脅かす存在に恐れ、人を赦せず、人と比べ、うつになり、まだ幸せを神以外のもので求め、自分を満たそうとしてもがいているんだ?

それは俺たちが「福音」のメッセージと本質を頭で分かっていながら、魂と霊の奥底に受け取っていないからだ。結局、「福音」のとてつもない力と本当のメッセージを心で理解していないのだ。

旧約聖書では、有名な十戒と言う10の法律がある。その最初の2つに来る事は、「主が唯一の神であり、その神だけを愛すること」、そして「他の偶像を作ってはいけないこと」だ。昔マーティン・ルターは、「人間が十戒の3番~10番目を破る理由は、最初の2つを既に破っているからだ」と説いたことがある。

なぜ人は嘘をつくのか?それは結局、神以外のものが大切だからだ。自分の名誉、誇り、または人にどう思われるか、またそれ以外の事を隠し守るために嘘をつく。結局、本当に神が一番だったのなら、自分の自信やアイデンティティーもそこにあるため、嘘をついて自分をうまく見せる必要はないわけだ。先ほどの30歳の男が家族を殺した理由も同じだ。

俺たちは常に神の「絶対的な愛」に戻らなくてはいけない。福音は単なる、「はい。信じました。では先へ進みます」と言うような単純なものではない。俺たち人間の一番の軸であり、中核となっていなければならない。少しでもそれから離れるようなら、すぐ俺たちは「初期設定」に戻ってしまう。そしてまた本当の神様以外の他のもので自分の心を埋めようとする。

牧師や教会のリーダーたちも例外ではない。奉仕やミニストリーで忙しくなっていくうちに、いつの間にか牧師やリーダーとしての立場が神より何よりも大切になっていく危険性がある。そして気づくとそれ以外のすべてをそれを守るために、一番守らなければいけない家族にも苛立ち、そして導かなければいけない教会の人々に対してもイライラしきつく当たり冷たくなる。彼らが「自分の大切なもの」を脅かそうとしていると感じ始めるからだ。

またある時は、牧師にとって自分が開拓した教会がそれに代わってしまう場合も良くある。神そして人々の為に開拓した教会がいつの間にかあたかも自分の育てたベイビーの様になってしまう。自分の成功や自身の存在をそこに置き始めると、大概その教会はそれを守るために、固いルールを作り、ある特定の人々しか受け付けなくなるシステムを築く。また違う意見を持つ人々を危険視し始める。もちろん教会を守ることも大切だが、この場合必要以上に敏感になる。また他の教会の成功や新たな教会開拓が自分の教会の脅威となり始める。神と人々への愛と信仰で始まったものが、いつの間にか恐れと警戒心になってしまう。これも一番大切なものからブレてしまった結果起こりうることだ。

どんなに長いクリスチャンであっても、福音を常に軸としていなければ、気づかないうちに他のものが神となってしまう。そうならないためには常に、俺たちは福音を見直し、イエスを思い起しながら常に進んで行かなければならない。自由人としてされたのだから、この世界の奴隷だった時の習慣は、徐々に変えていかなければいけない。

イエス・キリストは歴史上もっとも世界に影響を与え、そして紀元前と紀元後と言うように歴史まで分けてしまった存在だ。しかし、彼は政治や権力で世界を変えたわけではない。権力でリーダーシップをふるう代わりに、仕えるリーダーシップを取り、破壊の代わりに癒しと修復、そして敵として憎む代わりに、愛によって世界を変え、人々を解放した。この世の中とやり方とは真逆だ。俺たち人間が唯一変われる方法も全く同じだ。何かを得ること、成功や努力、他をコントロールできる権力などを持つことでは本当の意味では絶対に自由になれない。

本当の意味で自由かどうか考えて見てほしい。そして既にイエスにあって自由であるならば、その意味と大切さをもう一度噛みしめてほしい。まだ自由でないのならば、このクリスマスの時期に、本当のクリスマスの意味であるイエス・キリストとその福音を受け取って信じて見てほしい。それがこの世で最大の贈り物であり、人類に与えられた唯一の救いだから。

最高のクリスマス、そして新年を!

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2013年8月10日 (土)

義理と恥

義理と恥。

この二つの事は、日本人という国民の性質に深く関わる要素だ。

この間、テレビの番組を見ていたところ、最近日本では全国的に詐欺の被害の件数が大幅に増えているということだった。被害は年間で数億円単位だそうだ。
そこで「なぜ日本人という国民は他の国の人々と比べ、凄く簡単な詐欺に引っかかってしまうのか?」ということを話していた。他の国の人から見たらバカらしいという手口に引っかかっている。
専門家によると、詐欺をする人々はうまく日本人の弱みと性質を突いて、巧妙に計画しているということだ。

その話の中で専門家が上げた日本人の2つの昔からの要素が、「義理」、そして「恥」だった。

まずは「義理」。
例えば、ある友達が遠くからわざわざ家に遊びに来てくれたとしよう。
そして楽しく時間を過ごしたが、気づいて時計を見たらもう夜の11時だ。
そこで自分は、「何で友達は帰ろうとしないのか」と考え始める。
ハッキリ「帰ってください。」とは言いづらいし、どう伝えたらいいのか分からないのがほとんどの日本人の心情だろう。
でも、俺自身の海外での経験も含め、外人であるうちの奥さんはこういう状況では、日本人とは全く違う態度を取る。俺が言うのを渋っていると、大概うちの奥さんは、「はい。じゃ、私たち明日仕事だし、あなたも朝早いと思うから帰る時間ね。来てくれてありがとう。おやすみ。」とハッキリ言う。何のためらいもなしに。

専門家に言わせると、ここで「義理」が日本人の心情に作用しているという。
ここでなぜ大概の日本人がハッキリ言えないかというと、「友達は遠くからわざわざ来てくれたんだからもう少し時間を過ごしてもいいだろう。」と考える。「~してくれたから。」、「お世話になったから。」、これらは日本人が良く持つ心境と考えだ。お土産をお互いに買い合うのも、お歳暮などのシステムもある意味、「義理」で最近は成り立っている場合が多い。

詐欺をする人々は、この日本人の弱さによく付け込んでくるらしい。
恩着せがましくして、借りがあるだろうと言い、「ノー」とハッキリ言えない状態に持ち込む手口だ。良くあった「オレオレ詐欺」、最近では「お母さん、助けて!」詐欺などもそこの弱みに付け込むことが非常に多い。

そして次は「恥」だ。日本人は基本的に「世間体」を常に気にしてきた人種だ。町内や近所での顔。人からどう思われるかを非常に気にする。日本人が一番避けたいのが「恥」だ。また「見栄」を張る行動も日本人ではよくある。

あるぼったくりに合ったお爺ちゃんが、インタビューされて聞かれたのが、「何で早く警察に通報しなかったのか?」という質問だった。そこでお爺ちゃんが答えたのは、「自分も気づかずに引っかかったのにも責任があるから、恥ずかしくて言えなかった。」と言う。まさしく「恥」が原因だ。外人だったら、権利を主張してすぐに訴えるだろう。

またあるお婆さんが、息子らしき人物から電話があって「人様から借りたお金があり、返せない状態だから助けてくれ!」と電話があったそうだ。そこで彼女はすぐに指定された銀行口座に振り込んでしまったらしい。そこで、彼女もインタビューされた時に、「なぜ身内の家族や周りの人に相談せずに、振り込んでしまったのか?」を聞かれた。彼女の答えは、「人に相談することで、息子が人様に借金作って、迷惑かけていることなどを知られたくはなかった。」が答えだそうだ。これはまさしく、「恥」を利用し、また「義理」にも付け込んでいる。

詐欺の分野だけではなく、「義理」や「恥」は様々な日本人の文化に良かれ悪かれ影響していると感じる。なぜ日本人の親は、子供たちを必死にプッシュし、お金をつぎ込んで有名大学や地位のある立場に置かせようとするのか?伝統的には家系や家族として「恥」ないためだ。逆に多くの外人さんの親は、「自分で自分の道」を決めろと言うだろう。なのでお婆ちゃんが合った詐欺のケースでも、もし本当に借金を作ってしまったのなら、「自分で自分の責任を取って来い」と言うかもしれない。

実は、この「弱み」は日本人のクリスチャンの中にも影響してしまっていると俺は感じる。
教会であまりやりたくない奉仕、または続けるのがスケジュール的にきつい奉仕をやり続ける日本人。大概の場合は「ノー」とは言えずにそれをやり続ける。その理由は「義理」だ。「せっかく任せてくれたし、お世話になっているし、頼まれたことだから。」 もちろん忠実さは大切だろう。でも嫌々ながらハートもそこに無い状態で、やり続けるのは「忠実」とは言えない。

または教会でひどい対応を何度もされ、呆れるようなふてぶてしいリーダーの態度や、まさしく束縛やコントロールだろうと思われることをされながらも、誰にも言えない。または陰で不満を言うものの、教会を変えるなどの決断も出来ない。なぜかと言うと、これもやはり「義理」かもしれない。「今まで~してくれたから。」という、「恩」があると考えるからだ。でもその状態で居続けることは、教会のためにもならないし、自分のためにもなっていない。結局不満を貯め過ぎると、結果的にはもっと傷ついて苦みを持つことが多い。

一番大切なことは、トコトン自分の牧師やリーダーたちとしっかりコミュニケ―ションを取り話し合うことだ。俺がその教会の牧師だったなら、怒鳴りつけられても真実を言ってほしかった、コミュニケ―ションを取ってほしかったと思う。そしてもしリーダーである自分が、人々の不満や批判を冷静に受け止め、しっかりと話し合いをできないのであれば、それはリーダーとして自分に自信が無い証拠だろう。真のリーダーはしっかりコミュニケーションを取り、どんなことでも信仰に対して弁明できなくてはならい(1ペテロ3:15)。

正直言うと俺的には、この日本人の持つ「義理」と言う価値観は結構好きだ。この「義理」により、他の人々よりも日本人はより忠実な場合が多く、我慢強いからだ。でもそれにも限度がある。オレ自身も日本人であるが故に、何も自分の意見を言わずにただ黙って仕え、言われたことを「イエスマン」なってするような生き方をしていたこともあった。そして同意できなかったにも関わらず、何も話し合いをすることなく受け入れてしまったことで、他の多くの人々に理不尽な対応をしてしまったこともあった。そして結果的には、自分が勝手に正しいと思っていた「義理」を貫きすぎることで、周りの人々や自分の家族まで苦しめていたことに気付いた。

またこれは自分の働いている会社でも同じことがあるかもしれない。上司に理不尽な要求をされながらも、自分の意見をハッキリ言えない。例えば定時通りに帰って家族と時間を過ごせる「権利」を持っているにもかかわらず、帰れない。なぜか?それは「申し訳ない」からだ。上司に対しても部下に対しても。でも家族と会社の同僚たちとどっちが大切かと言う時に、決断できないのが大抵の日本人である。間違った義理を選んでしまう。そして家族や妻も、「仕方ない」と割り切ってしまう。でも一番苦しむのは、自分の結婚生活であり、子供たちだ。一番大切な人々を守っていない。これはクリスチャンになって一番大切な学んだことだ感じる。どんな状況でも、一番守るべき人々やものを選ぶとき、神様は必ず報い、次の道を開いてくれることだ。そこで妥協してしまったら、自分が今まで大切だと宣言してきた価値観を捨てるということだ。

 

「義理」の言葉の由来は、「正義の道理」だ。もしそれが本当の「義理」なら、「恩」や「義理」と言う基準でからではなく、「正しいことをする」という基準で物事を判断するべきだ。時にそれは、我慢することかもしれないし、また時には物事をハッキリ言い、自分の意見を主張することかもしれない。多くの外人さんの様に自分を主張しすぎてもいけないし、または日本人のように本当の自分を隠し、我慢しすぎてもいけない。どんな状況でも「正しい道理」を選べる、それが真の「義理」かもしれない。クリスチャンにとって一番「義理」を返さなければならない存在は、神様だからね。

また「恥」と言う基準だけは日本人は捨てなくてはならない。伝統的には、サムライの時代など、「恥」を受けれるならば、「切腹」するという文化も日本にはあった。日本人は常に「誇り」を基準に生きて来たからだ。だが本当に日本人が守らないければならない「誇り」とは英語で言う「プライド」ではなく、「自信(CONFIDENCE)」だと俺は思う。でも「恥」を怖がって自分を表に出せない状態では、その人には本当の「自信」はない。特にクリスチャンは「恥」ですらイエス・キリストに救われて、そして洗い流されたのだから。「恥ずかしい」から正しい行動や決断をできないのは間違っている。どんなに避難されても、けなされても、恥を受けようとも時には貫き通さなければいけない時があり、決断があると思う。人の目や意見によって自分を制限することをやめなければならない。

外人さんが日本人に対してよく言われることだが、一般的に日本人は外の顔と内の顔をすごく使い分ける人種だ。悪い言い方をすると「偽りの仮面」を被ることが多い。良い言い方をすれば他人に対して「礼儀正しい」かもしれない。でも神様が形作った本来の自分自身を持つクリスチャンとしては、仮面でなく自分を正直に表現しつつも、礼儀正しく生きれるようになるのが日本人らしいクリスチャンの生き方かもしれない。その為には「恥」を受けることに関して異常に敏感になることを止めるべきだと思う。イエス・キリストが目的の為に「恥」を忍んだように。もし神様から与えられた使命とミッションがあるならば、恥や人の目を気にせず一歩進んでみよう。そして失敗し、躓いたのならそれを素直に受け入れまた立ち上がって進めばいい。そんな素直さを持って生きたいと思う。

ではまた。

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2013年7月 1日 (月)

もう一歩先へ

先日、日曜日のメッセージのまとめ。

メッセージの聖書の箇所は、マタイ14:22‐33からでした。
有名なイエスが水の上を歩く場面です。

まずこのメッセージの最初のポイントは、この背景にあります。
ここでは、イエスと弟子たちが一日中人々に奉仕した後、イエスは弟子たちに船に乗って向こう側に行くように命じて、自分は山の方へ一人になるために出かけて行くところから始まります。一日中の疲れもあり、しかも夜中の三時でした。湖の風も強く、暗いし、イエスは何の目的の説明もせずに、ただ「向こう側へ行け」というだけでした。

ようは一日の終わり、そして次の日への変わり目の場面です。そんな時、イエスがいきなり水の上を歩いてくるもんだから、みんなかなりビビっていました。

私たちの人生でもこういうような状況はあるかもしれません。
色々な変化、そして「次の場面へと移り変わる時期」。今までのシーズンの疲れもあり、なんか重く、当たり風も強い人生の場面。もちろんクリスチャンの人生は「楽」な人生ではなく、色々なチャンレンジもあれば、つらい時期があるのが当たり前。弟子たちにとっても最悪な状況ではなくとも、「疲れていた」時でした。

でも最初にここから言いたいことは、その「つらい時期」、「変化の時期」、「疲れている状態」の中に、奇跡の体験があるかもしれないってことです。イエスは何の前触れもなく、いきなり普通じゃない事をして現れました。正直言うと、それを「見てみたかった」と俺自身思う。その場にいたかった!ある意味、そんなワクワク感を持って、つらい時期や変化の時期を通っても良いんじゃないかと思います。今そういう状況にいる人はむしろ期待しよう!

二番目に言いたいことは、そういう状況だからこそ「もう一歩」が大切だということです。
初めは弟子たちみんな、ビビっていました。「幽霊だ!」と叫ぶぐらいビビりました。昔学校でやった肝試しみたいなドキドキ感かも。ふつうは逃げます、「キャー」って言って。
でもここで面白いのが、ペテロの反応。
ビビるとともに、好奇心がわきます。そして変なアイデアが思い浮かびます。

「俺も水の上歩けるかも!?」

神様は、このようなノリは大好きだと個人的に感じてます。
「え~っ。この状況でそれか?!」っていう感じが。

そしてイエスはあっさり、「いいよ。来てみれば。」です。

この間ある知り合いの方のブログを読んでいて、面白い内容がありました。
ある若い大学卒業したばかりの学生が、ある会社の求人広告を見つけ、電話をかけたそうです。そこでまだ採用はしているかと聞いたところ、その会社ではもう募集していないとのことでした。そこで若者はあっさり分かりましたと電話を切ったそうです。でも、その時、社長さんは、もしその若者がそこで諦めずに、もう一歩踏み出して、それでも会社に興味があるので見学させてもらえませんかなどと聞くのなら採用しても良いと思っていたそうです。そこでも言っていましたが、「最近の若者は、正直だが、常識やルールを覆す、もう一歩が足りない」と言っていました。

特に日本人は、あえて何も聞かないところが多いと思います。

うちの奥さんは外人なんで、いつも日本の常識をチャレンジしてきます。例えばレストランなどでメニューに無いものや普通お願いしないことを俺に聞けと言ってきます。そこで、「メニューに無いし、普通常識ではしないから、やってくれないよ。」と答えると、「聞いてみなきゃ分かんないじゃない!」と奥さんに怒られます。そこで渋々聞くと、あっさり店員さんにやってもらえたケースは何度もありました。もちろん従わなければいけないルールはあるけれど、変えられるものは変える心構えも必要な事を学んでます。

ペテロは、その態度を持っていたと思います。
奇跡や成功は、一歩先かも知れない。まだ試して無いことかもしれない。
恐れの中で踏む一歩先に奇跡があることが多いと俺自身最近感じています。
難しい状況だからこそ、頭をフル回転させてアイデアを見出して見てはどうかな?

考えて見たら、自分の人生でそれぞれの成功への大きな決断は、難しい状況を通ってきた中で決断してきたものが多い。クリスチャンになるのも、日本への決意とビジョンが生まれたのも、そして今回の教会開拓も。

「聞け、求めろ、叩け、そうすれば答えられ、与えられ、開かれる」マタイ7:7の通りだと思います。分からないことを聞いてみる、探して調べてみる、そしてドアを叩いてみる。これらは日本人には特に必要だと思います。

うちの教会でも教会に来る人たちが、「恐れなく」それらのことを出来るような、環境を作ってあげたい。それが牧師としての思いです。なぜならリーダーシップは「恐れ」で導くものではないからね。聞けない、言えない、意見をチャレンジできない環境は危険だと思います。

最後は、神様を信頼し続けるということ。

ペテロは数歩奇跡の中を歩いていました。でもまた風や波が怖くなり、イエスではなく「状況」に焦点が移り、沈み始めます。
これも私たちの人生でも良くあることです。成功やミラクルの上を歩んでいる時、いきなり思います。「どうやってこの状況に来たんだ?」、「どうやってこんな成功を得たんだ?」と。そこで責任を重く感じ始め、その成功や心地よさを失いたくないと思い始めます。でも私たちが持つべき態度は、結局その成功ですら神様が自分の目の前にいて導いてくれたから、達成できたことだということ。自分に目を向けるとすぐにプレッシャーと心配が増します。でも神様を信頼することで、安定と状況に流されない一歩一歩が歩けると思います。

結局、人生で一番大切なことは「水の上を歩く」という成功ではなくて、「イエスの手を掴んでいる」という神様との関係だからね。

どっちにフォーカスしているかで、人生が変わってきます。

もう一歩踏み出そう!

ではまた。

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2013年6月26日 (水)

持っている人と持っていない人

これからちょくちょく教会でのメッセージ内容をシェアしていきたいと思います。

先週のメッセージはマタイ25:29からでした。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。


この聖書の箇所は3人のしもべが主人にそれぞれの能力に見合ったタラントの量(お金)を任され、それをどう人生やビジネスで投資していったかという、イエスの例え話の中でも有名なものです。個人的には良く読む箇所であり、メッセージもここからすることが多いです。

この箇所は、イエスが十字架に架かる直前に弟子たちに話したことです。3年間一緒に過ごした彼らに、この後をどう生きるか、そして「与えられたもの」をどう使い、ミニストリーそしてミッション、リーダーシップを取っていくか、また生きる上での態度を教える要素がいっぱい詰まっています。

今回はこの29節に焦点を置きました。

クリスチャンになって間もないころ、この箇所を読んだときあまり意味が分からなかった箇所です。単純に、「金持ちはもっと与えられ、貧しい人はもっと貧しくなる。」と思って、不公平じゃん?と勘違いしていたのを覚えています。

でも今は新約聖書の語源であるギリシャ語で調べることも簡単にできるので、今回ここでの「持っている」を調べたところ、色々な意味合いが含まれていることが分かりました。その中でも興味深い意味合いが、「認識する」、「~という存在になる」、「しっかりしがみつく」、「楽しむ」という意味です。

まず最初のポイントは、最初の5タラントと2タラント与えられた2人は、自分が与えられた「もの」をしっかり「認識していた」ということです。聖書には、「それぞれの能力に応じてタラントを与えられた」とあります。神様は俺たちを形造った存在であり、個々の能力やタレントをしっかり把握しています。その技量に応じて、俺たちが対応できるだけの責任やチャンスを与えてくれています。それは不公平ではなく、ただそれぞれの人々の役割と使命が異なるだけの事です。

でもその神様から離れてしまった私たち人間は、自分のスキルや能力を発見するのにすごく迷い、苦しみ、人生の目的が見つからずに途方に暮れている状態です。それは世の中を見ればすぐ分かります。特に日本人のほとんどの人々は、「自分の専門分野を伸ばすため」に大学に入るのではなく、一応入ってから「そこで発見するため」に大学に入ります。そして卒業して、実際にどんな仕事をしたいのかもはっきり分からずに、とりあえず就職します。もちろん中にはちゃんと自分を認識して、専門の道に進む人もいますが、多くの人々は「自分のするべき職業や進むべき道」に悩んでいるのが今の社会です。別に悪いことではないですが、現実的にいつまで経っても自分を発見できない状態が多いのが現実です。

英語の訳では、最初の2人は「すぐ」出て行って、ビジネスをしたという表現がされている訳があります。たぶん二人は既に、投資したいビジネスや分野が分かっていたのかもしれません。一つ確実に言えることは、彼らは「自信」を持っていたということです。

出エジプト記で神様は、人生で失敗し荒野に逃げて羊飼いをしていたモーゼに会い、使命を言い渡しましたが、その時のモーゼには自信がなく、「イヤ」だと言いました。そこで神は、「お前の持っている者はなんだ?What's in our hand?」という質問をしました。モーゼは、エジプトの王子として当時の英才教育を受けながらも自信を失っていました。羊飼いという職業のなかで学んだリーダーシップスキルに対しても見下していたかもしれません。でもモーゼが持っていたものは「杖」という、リーダーシップと権威の象徴でした。そしてその杖をヘビ(命があるもの)に変えて、「それを通じて奇跡を行う」と神様は言いました。モーゼはそれを再認識する必要がありました。

皆さんの中でもモーゼと同じことをしているかもしれません。今までの経験が無駄だと思っているかもしれません。何も持っていない、貰っていないと思っているかもしれません。でも鍵は、それらを「認識」することです。人と比べずに、今自分にある物ものを認識する。マンガやゲームしかしてこなかった私が認識し、使命を目的をそこから見出せたのですから、みんなにはもっとできるはずです。

2番目の事は、それをうまく使うことです。NLTの英語訳では、29節を、「うまくそれらを使うる者は、もっと多くを与えられる」とあります。話に出てくる最後の一人は、ちゃんと何かを「持って」いました。他の2人よりも少ないですが、持っていました。でも、使わずに隠してしまいました。その理由は3番目のポイントで書きますが、とにかく最後の一人は全て与えられたものを無駄にしました。銀行に預けるという「最低限の事」もしなかったのです。

自分の能力やタレントを把握していても、どんな職業、どこの町や国、またどんな分野でそれを生かしたら良いだろうと思っている人々は沢山います。でも実は、その答えも最初のポイントに含まれています。自分自身をもっと把握することです。

私は高校を出た後、イギリスに留学しました。そして日本に帰りたくなかったので、イギリスで一生暮らそうとしていました。でも日本人牧師として生きる上で、一番効果を発揮し、必要とされる環境はイギリスではなかったことに気づきました。これはあくまで一例ですが、ちゃんと正直になりこれらの事を考えていくと自然と「使う場所」が「使い方」はハッキリしてきます。神様が与えてくれたこれらの「当たり前の要素」を無視して、予言などだけに頼ってしまうクリスチャンを沢山見てきましたが、結構危険な事です。予言が正しいものならそれらのすべての要素とかみ合い、不安の中にも平安があると思います。

ここで少しアドバイス。この三つの分野を見つめてみてください。

-自分の能力が一番生かされる場所はどこか。
-自分の能力を一番誰(組織や教会も含め)の為に一番効果を発揮するか。
-誰がその自分の能力を求めて必要としているか。

これらのことを少し考えて見てください。神様から与えられたものを使う場所や使い方がもっと明確になるかもしれません。

三番目は、すべては私たちの内側にある態度と心の問題だということです。
最初の方で、書いた「持っている」の語源の意味の中に、「楽しむ」という意味がありました。これはすごく重要な事だと思っています。

最初の2人は、自分が受け取ったチャンスと財産、そして主人から認められ任された責任を喜んで、ある意味ワクワク感を「楽しんでいた」と思います。だからそこからリスクなども取りビジネス投資できたと思います。またその態度により、主人に対して良いイメージを持っていました。主人が戻り、清算したときに、彼らは「与えてくれたので」と言って主人に話しかけます。でも逆に最後の一人は、いきなりネガティブに主人の事を思い、「不公平な人」という表現を使います。

最初の2人は、既に与えられたものを喜び、感謝し、そして更に主人に対しても良いイメージを持ち、そして成功しもっと与えられます。

最後の一人は、与えられたものを、感謝せず、逆に恐れ、喜んでもいませんでした。持っていないと思い、他の2人をねたんでいたかもしれません。更に主人に対して間違ったイメージを持ち、結局すべてを失いました。

すべては心の態度と気持ちの持ち方から始まりました。
正しい気持ちと心を「持ってた」2人はもっと与えられ、良い態度と心を「持てなかった」一人はもっと失いました。
悲しいことに多くのクリスチャンの人々もこの罠に陥ることがあります。
他の人と比べてしまい、同じクリスチャンでも成功したり、行動的に何かをしようとしている人々を批判します。終いには神様に対して間違ってイメージやネガティブな考えを持ち始めます。最悪の場合、その神様のイメージを自分たちの神学の基準としてしまうケースもあります。ようは神様にある可能性を信じるよりも、自分が経験してきたことだけを基準に、物事と現実を決めつけます。そして新しいことや今までと違うやり方を拒みます。最後の一人は主人に対してこう言いました、「あなたがこのような方だと分かったいたので、~しました。」と。結局自分だけの理解と経験だけをもとに判断し、行動すらしなったということです。

今までの経験がネガティブだっただけで、これからの可能性も壊さないでほしいと思います。今までの仕事の環境が悪かったから、また新しい仕事を探すことに否定的に考えないでほしいと思います。もしかしたら次の仕事が天職かもしれません。今までの恋愛で失敗したからと言って、これから出会う人に対して同じ視点で見てしまい、その人を本当に知る前に判断しないでほしいと思います。今までの教会での経験が悪かったからと言って、これから立ち上がり、開拓される教会が悪いと決めつけないでほしいと思います。

過去に左右されず、今日神様から与えられたものを「楽しんで」いますか?
それらを「認識」して、思い切って与えられたチャンスを使って行こう。

神様がイエス・キリストを通して与えてくれた、「チャンス」を最大限に生かして行こう。

ではまた次回に。

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