人間関係

2014年2月21日 (金)

TRUE COMMUNITY 真のコミュニティー PART 2

前回は、イエスが求める「内側の人間関係と接し方の基準」について書いたが、今回は「外側の人々」にどのような価値観と態度を取るようにイエスが教えているかを見てみたいと思う。参考となる聖書箇所は、PART1にあるので参考にしてね。

まず思い出して欲しいのは、しっかりとした「内側の価値感」の基準を持っていることが前提でなければ、外側には正しく向けられないという事だ。キリストの福音は常に、「INSIDE OUT(内側から外へ)」が基本だからだ。

ルカ5章、マタイ5章の始めではイエスは内面的な価値観教えた。その後、「この世の中の光になる」こと、そして赦すことや、人を裁いてはいけないことなど、また反対する人々にひどいことをされた時の態度など、コミュニティーの外側の人々へのふるまいを教え始める。その内容の一つひとつはここでは見ていけないが、基本的にイエスは3つのことを行えと強調している。

‐この世の中とは違った存在になり、輝くこと。

‐彼らの為に祈ること(彼らが癒され、態度を改め、そして真実に気づき、神様を崇めるようになること)

‐そして外側の人々に「良くしてあげる」ことだ。

ここで面白いのは、自分たちの意見やビジョンに同意する人たちだけとは言っていない。むしろ意見や価値観が合わない人々、迫害し「敵」だと思うような人々にそうしろと言う。「仲良くしてくれる人だけにフレンドリーになるなんてことは、誰でもやっているだろう?」とイエスは言う。ここで良く勘違いされるのは、クリスチャンはただやられっぱなしで我慢し、何も言わず何もしない存在だと良く思われることだ。でもイエスの言う事はそれとは違う。

例えば、「片方の頬をぶたれたなら、もう片方も向けなさい」れこの教えにある有名な箇所だが、「もう片方を向けろ」とはただ「もう一度殴ってください」という事ではない。その時代では、「挨拶」する時にお互いに頬にキスを数回して挨拶していた。知っている人はいると思うが、ヨーロッパではまだ同じような習慣がある。俺もヨーロッパで初めて厳ついオジサンにそんな挨拶を受けた時は、超戸惑った(笑)。何が言いたいかと言うと、「もう片方の頬を向ける」とは、非難や批判に対してフレンドリーな挨拶で返し、「和解して友達になろうぜ」という思い切った態度のことをイエスは言っている。ただ何度も打たせるという意味ではない。

これらの聖書の箇所ではイエスが言わんとしていることは、「むしろ普通“敵”となるような人々とできるだけ和解し友達になることを努力しろ」と言う。「自然と友達になって、同意してくれて従ってくれるような人々と仲良くなってコミュニティーを作ってもそれは特別ではないだろう?」と言う。むしろ「自然に敵となるような人々」が集まり、一致していく場所が教会だとイエスは言っているように俺は思える。できるだけ彼らを説得し、悪に対し善で報い、そして分かってもらうようにと。

本当のリーダーシップは、自分とは全く異なる人々や異なる意見を持った人々を、正しい目的にリードしていけることかもしれない。ダビデやイエスの元に集まった者たちや弟子たちがそれぞれ問題を抱えた問題児だったように・・・。

これは聖書全体を通じて同じだった。ルカ書の5章17節を見てみると、様々な地域の人や人種が集まったと書いてある。使途行伝の2章も同じように、外国人や様々な文化や意見を持った人々が集まっていた。旧約聖書でもイスラエルは、外国人でも神様との関係に興味を持ってやってくる人々は受け入れるように命じられていた。

彼らに対して「良くする」とは、彼らの悪い行いを無視して、軽んじるという意味ではない。人に良くするとは、その人の最善を願うことだ。もしその人に欠点や悪い態度が見えたなら、無視して何も言わないことは愛ではない。俺は子供を愛するがために、悪い態度は叱って正す。それが子供の為になるからだ。ようはCONFRONT(指摘)しろとイエスは言う。でもそれをするときは、自分が権力を振るう為、自分の優越感や相手より成功する為、または自分が認められてもらう為にしてはいけない言う。ただその人の成功と修復と、ベストを願ってそうしなさいとイエスは強調する。

「この世の中は、権力、成功、優越感、満足と言う自己中な目的で人を指摘し、コントロールしようとするが、お前たちはそうであってはならない」と言う。むしろ全く違う態度と価値感で「光」になれと。

実は弟子たちも最初はそれを分かっていなかった。ある時は「他のイエスの名を用いてグループがミニストリーをしていた人々を発見」した時、弟子たちは「奴らを止めさせました」と言う。でもイエスは、「何で止める?私の名に従って同じことをしいているなら仲間だ。」と言う。またある時は、サマリア人たちが、イエスが来ることを歓迎しもてなさなかった時、弟子たちは、「火の玉を読んで奴らを焼きましょうか?」というとんでもない態度に対して、イエスは怒った。「お前たちはどんな霊でそんなことを言っているのか分かっているのか?」と。(ルカ9章)

俺たちは自然に、「同意してくれる人だけ」や「同じグループの人たちをだけ」を優先し、他を蔑んでしまう。それはまだ世の中の価値観にこだわっているからだと思う。弟子たちのように、「誰が一番」かにとらわれているから、比べてそして他の存在を恐れ、批判してしまう。

Part1でも伝えたが、この聖書箇所はモーゼの時代背景や状況と比較できるので、「神様がイスラエルの民にどのように他の国々や外国人へ対して振る舞うように教えたか」とも比較し学べることができる。神様が与えた律法をしっかり見ると、外側の人々にどのような対応をするかも学べるので少しだけ例を見てみたい。

例えば、「安息日(現代では日曜日)」。
これは当時イスラエルと言う国に特別に与えた律法だった。あの有名な十戒にもある。実はイエスも安息日についてはここで触れている。一般的には、神様が7日目に休んだので、人も一週間に1日は休むべきだという事だ。でもこのルールの目的はそれ以上のものだ。

イスラエルは外国人や召使たちにもしっかり安息日をしっかり守るように教えた。それはイスラエルと言う国の存在が「他の国々」と全く違う存在になるためだった。イザヤ56章でもあるが、その当時、イスラエルの周りの国々の文化では、成功と家族をどっちか選ばなければならなかった。政治的またはビジネス的に偉い人物になるためには、宦官 Eunuch(去勢された人・結婚できない人)となる必要があった。または大きな家族と子孫たちを持ち、偉大な人物として「成功」するかのどっちかしかなかったのだ。ようは「仕事」と「ファミリー」の両立が難しかったのだ。面白いことにそれは今の時代と全く同じ問題だ。キャリアを選べば家族はないがしろにされ、家族と時間を取ろうとすれば、金銭と成功をある意味諦めなければならない時代だ。

でももっと面白いのが、イスラエルと言う国に対する神様のルールだ。それが「安息日」だった。これは他の国の様に「働きっぱなしではいけない」という事だった。「お前たちは、仕事も家族も大切に出来るようなコミュニティーを作れ」という命令だった。そしてそれを求める外国人には休息を必ず与え、召使たちにはもしっかり休みを与えなさいと言っていた。それ以上に、「安息日」を持つことで、「収入」や「時間」にも制限が掛かる、でも神様が言わんとしているのは、「お前たちはお金や時間に振り回されずに、ちゃんと管理して家族や人間関係など大切なこともちゃんと守れ」という事だったのだ。これはクリスチャンの企業家たちや教会のリーダーたちにもチャレンジだと思う。しっかり従業員やスタッフに「休む日」を与えているかだ。

興味深いことに、使途行伝8章で救われるエチオピア人の宦官もこれに関連している。彼はエチオピアから何千キロも離れたエルサレムにわざわざ神を崇めに来たのだ。彼は外国人だったにも関わらず、なぜそこまでしたのだろうか?それは彼自身が自分の人生行き詰っていたからだ思う。結婚を諦めてまで得た名声と地位では心は満たされずに彷徨っていた。だがある日、本当の神の存在を聞き、家族も仕事もしっかり守れる人生を与えてくれる神と生き方を知り、求めてエルサレムに来たのかもしれない。そこで運命の巡り会わせで、ピリポが送られそしてクリスチャンになった。これは今でも神様は求める人々を見ていてくれる証拠だ。

ちょっともう一つ。その当時、他の国々では「結婚していて子孫を持つ」ことは、大きな社会的ステータスだった。逆に「結婚していない、またはできない人々」は蔑まれていた。でもイスラエルの社会構成は違っていたのだ。「未亡人」や「独身」の人々が守られる社会システムがちゃんとあったのだ。

すべての「神の律法」はイスラエルと言うコミュニティーを束縛するためにあったのではなかったのだ。それ以上に、他の国と明らかに違う存在となり「神の民」として光り輝き、正しい影響を与えて行く目的があった。

これらのことを考えると、イエスがコミュニティーに対して教えていることと完全にマッチする。そして、世の中を真似て、ただ同じ価値観である成功、地位、名声、物質的豊かさ、自己啓発を中心とした生き方やコミュニティーでは世の中に良い影響が与えられないことが良くわかるだろう。

イスラエルと言う国の基準は、常に「神様に救われた民」だった。エジプトから一方的に神の恵みで救われた民であるが故に、「神がしたことを思い出せ」と常に言われていた。その恵みの基準の上に、国(コミュニティー)を建てることが大切だった。この概念は現代のクリスチャンでも同じだ。俺たち一人ひとりが、イエスの十字架によって救われていること、そして恵みによって一方的にそれらが与えられることを心で信じ理解できない限り、このコミュニティーは絶対に不可能なことだ。

逆にすぐ「自分の努力」に戻り、すぐ権力、成功、名声とことにフォーカスし始めてしまう。「自分で成功した、認められた」という思いがあるかぎり、人と比較し優越感を強くしてしまうからだ。誰がその宗派や組織のルールを守り、表面的に良い決断をしているかによって格差をつくってしまう。それが当時の宗教家であるパリサイ人などのコミュニティーだった。

そしてその自己中心的なステータスの基準が一番コミュニティーを壊してしまう要素だ(ヤコブ4:1)。 だからこそ、イエスは「あなたが私の教会を建てる」ではなく、「わたしは私の教会を建てる」と断言した。それはイエスの恵みと救いによってのみ建てられる健康な教会だという事だと思う。

今回このコミュニティーの勉強を通じて学ばされたことは自分自身にとってもすごく大きい。
神様の救いとそして健全な教会と言うコミュニティーへの情熱と思いが聖書では本当にしっかり描かれている。教会の1リーダーとしてその責任の大きさもすごく感じた。イエスが命を懸けてまで救い、作ろうとしている人間関係。もちろんそれは「天国」と言う形で最終的には行き着くが、教会はその神様の思いの形であり、模範になっていかなければならない。そして同時に、ただ世の中的なうまいリーダーシップのやり方や、組織構成などのシステムをを導入し人々を管理しただけでは、健全なコミュニティーには遠く及ばないと感じた。でもクリスチャン一人ひとりがその「神様の思いと情熱」を理解しなければ健全なコミュニティーはできあがらない。

キツイ言い方かもしれないが、どんなことがあってもイエスを信じていながら「教会なしで生きられるという考え」を持っているのならば、それは決して神様の意志ではない。またイエスのしたこと自体、そして彼の命を無駄にしてしまっていることだ。教会に幻滅し、傷ついたり不当な扱いを受けたこともあると思うが、PART1で学んだイエスの価値感を思い出して欲しい。そして「恵み」によって、もう一度教会と言う存在の大切さを見つめ直して欲しい。「正義」とは、その文字通り、イエス(羊)を自分(我)の上に置き、「神様と人々」との関係が「正しく」されるだからね。

OO+も、常にこのことをゴールにしてイエスを中心にコミュニティーそして教会を建ていければと願い、そして祈る。

ではまた!

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2014年2月15日 (土)

TRUE COMMUNITY 真のコミュニティー PART 1

雪で外に出れないので、ブログを書く時間ができた!

今年1月からOO+では、コミュニティーグループと言う「集まり」を始めた。
OO+と言う教会の名前の中には、十字架(キリスト)中心の輪(コミュニティー)という思いも込められているので、どのような健康的なコミュニティーそして人間関係を築いていくべきかすごく考えた。ただ今までの経験や、また他の教会が成功させているのをそのまま適用するのではなく、「聖書的」にどんなことに価値を置いて行かなければならないのかを見出そうとした。もちろん色々な大きな教会のモデルや考え方を比べたり学んだりしたが、結局聖書に忠実にならないといけないからね。でもその中でも一番聖書的に教えて成功させている教会を参考に今回はこのメッセージを書いて、前回のグループでもシェアした内容だ。

イエスが一番このことについて語っているのは、ルカ6章、マタイ5章、使徒2:42~だという事を学んだ。なので今回はまずクリスチャンとしてコミュニティーを築く上で、何に価値を置かなければならないかという事を2部構成でシェアしたいと思う。

まずこの聖書の箇所からイエスが教えた、「内側の人々にどう接し、何に価値を置くべきか」を見ていきたい。

この有名な「山上でのイエスの教え」の箇所を読むと、ほとんどのクリスチャンは、個人的な「クリスチャン生活の生き方」の教えだと思って読む。俺もそうだった。でも実はここでイエスはどのようなにクリスチャンとしての理想の「輪」、「社会」、「人間関係」、「コミュニティー」を作らなければならないかを語っている。

イエスは「神の国は…こうだ」という表現を良く使った。「王国(KINGDOM)」と言う概念は、王様が変わるとその国の価値観、やり方、法律、基準全ての「Administration 運営の仕方]が変わるものだ。会社員なら分かると思うが、自分の上司が変わると自分の部署がガラッと変わる。ある上司は飲み会などを重視するが、次の新しい上司は「定時きっかりに帰れ」と言う価値観を持っているかもしれない。ここでイエスが言わんとしていることは、「私のやり方はこうだ。神の国ではこれらのことが重要になる・・・。」と言っている。要は「山上の教え」は、俺たちにそのような価値観を持って共に生きて欲しいという教えがまず中心だ。

この箇所は旧約聖書のモーゼの十戒と対照的な箇所で、イエスが教えた山とモーゼが律法を受け取った場所が同じシナイ山であることだ。ここで考えて見てほしい。一般的には、「モーゼの律法」は、イスラエル人が「罪を赦してもらい救われるため」のものだったと考えられているが、実はそうではない。なぜならモーゼとイスラエル人たちは既にエジプトから「救われていた」からだ。これももう前に説明したが、キリスト教の概念は他の宗教とは違い、「ルールを守るから救われるではなく、救われているから感謝と恵みにより正しい生き方をする」が基本。それと同じでモーゼの律法は、イスラエル人がこれから「神の民」としてどのような社会とコミュニティーを作るかのガイドブックだった。その基本は、貧しい者を守り、不正をなくすことだであり、人間ではなく神を王とする社会だった。でも歴史的には、人間は人間のリーダー(王)を選び頼ってしまい、どんどん悪い方向に向かってしまった。

長い説明になってしまったが、イエスの山上の教えはこれと対照的で、旧約聖書はプロトタイプだったことに対して、イエスの教えとコミュニティーは本来、神様が描いていたものだ。イエスが地上にやってきて最初に教えようとしたことは、俺たちがどのように人々と接するかだ。神様との関係がイエスによって修復されたのなら、必然的に他の人々との関係も良くなっていくのだから。だからこそここでは、裁かないこと、赦すこと、敵を愛することなど有名な教えがある。

このコミュニティーという視点から「イエスの教え」を読んでみると面白い。
まずイエスは神のコミュニティーの価値観を教えた。

あとで読んでみてほしいが、イエスはこう始める、「貧しい者は幸いだ・・・」。
これも有名だが教えだが、基本的にイエスは、「世の中の価値観」と「神の国の価値観」を対照的に比べている。そして一方を重んじ、一方を軽視することを教えている。
かなり長くなるので詳細的な説明をしないが、基本的に下の様になる。

世の中(社会)  VS  神の国

権力(お金・豊かさ) VS 弱さ(貧しさ、足りなさ)

心地よさ(幸せ)  VS  悲しみ

成功(他人より優れていること)  VS  犠牲(リスク、コスト、寛大さ)

賞賛(他人から認められること) VS 除外(認められない、賞賛されない)

これを見たとき、どっちのコミュニティーに入りたいと聞かれたら、すべての人は自然に「世の中」の方だと答えるだろう(笑)。こっちの方が当たり前の様に思えるからね。俺も最初は、クリスチャンは弱さ、悲しみ、犠牲、除外を好むマゾなのか!?と考えてしまった。

じゃ、なぜイエスはこんな「厳しい」と思えるような教えをしたのだろうか? 
気を付けて欲しいのは、イエスは対照的に比べ、根本的な人間の魂のあり方を教えているところだ。

別の言い方をすると、「世の中の人々は、権力、幸せ、成功、有名になることを絶対的な価値として生き、それを基準に社会を作っているが、神の価値観はそこにはない」という事だ。本当の自由と言うのは、これらの価値観にコントロールされない人生だとイエスは言っている。この聖書の箇所で使われる「笑う者」というギリシャ語の語源は、ただ「笑うSMILE」と言う意味ではない。実は、「嘲け笑う」と言う意味だ。ようは「お前は負け、俺が勝った」と言う時に使う笑い方であり、幸せから来る笑いではない。イエスはそんなことに価値は置かないという。誰が優れているか、成功しているか、人気があるか、権力と影響力を持っているかは、私のコミュニティーの基準にならないと。

逆に、「弱さ」に気付いたとき、悲しい時を通った時、リスクや犠牲を払わないといけない時、人から理解されない時の方がよほど価値があるという。でもここで気づいて欲しいのは、クリスチャンは将来にのみ、それらが変わるとは言っていない。逆に悲しむ者は「今」幸いだという。現在進行形だ。イエスは、「弱い時、同時に強くなれる」、「悲しい時、同時に喜びを」、「犠牲を払う時、約束そして成長と言う成功を」、「除け者にされた時、本当の仲間そして神の存在の近さを」と言う。イエスは決して、クリスチャンは悲しまないとは言っていない、でも「悲しい」ことに真の意味を持たせることが可能だと言う。この世の中で、唯一クリスチャンと言う生き方が、この「悲しみ」と「喜び」の両方を「同時」に生きることが可能だと俺は思う。世の中は、「悲しい」時は、ただ悲しいだけだ。絶望に打ちのめされ、状況が良くなったらやっと希望を見出せる。でもイエスが言う生き方は違う。悲しい時に同時に成長し、喜び、そして次に進めるのだ。

イエスはこれらに、あなた達のコミュニティーで価値を置いて欲しいと言う。別に、「権力、幸せ、成功、そして賞賛」を嫌えとは言ってはいない。だが間違った方向に行く危険性があり、それらにコントロールされてしまうことを疑えという事だ。逆に、「弱さ、悲しさ、犠牲、除外」を好めとは言っていない。でもそれらから逃げずに、益と祝福がそれらの中にあることを知れと言う。

これらのことを心で本当に信じ、価値を置くことで、教会やクリスチャン同士の接し方が変わる。弱い者にただ同情するのではなく、自分自身を見て共に成長し合える、悲しい時に心底共感できる、犠牲を共に払えるようになる、正しい決断をなかなか出来ない者を、「俺はできている。お前はできない」というように差別にしようとは思わずに、本当の意味で友情を築くことが可能になる。愛と真実を両方持ち、素直に率直にそして同時に愛と忍耐を持って接することができる。

これは使途の2章でも同じだった。そこには多くの異なった人種、文化、年齢、グループが一緒になり神を崇めていた。それを見た人々はそのコミュニティーに魅了された。なぜこんなにも違う人々が一緒にひとつになれるのかと・・・。そこには組織されたイベントやプログラムを中心としたものだけでなく、「本当のコミュニティー」があったからだ。だから毎日自然に神によって人々が加わっていった。別にイベントやプログラムが悪いわけではない。私たちの教会でもイベントはある。でも、イベントやプログラムが、コミュニティーそのものよりも魅力的になり、一番大切な要素をを忘れてはいけないという事だ。時に日本人は、「形だけ」の関係には敏感だ。俺たちは心の奥では「本当の繋がり」を求めていると思う。

このようなコミュニティーを土台にOO+は成長したいと願う。どんなに人が増えても、イエスが理想とするこの価値は失わないようにするのが、教会の大きな課題だと感じる。その為に正しい「リーダーシップ」と「構成」が必要になってくる。

ある人が他の人よりも「成果」を出しているから認めて「リーダー」のバッチを与えるのではなく、まずその人を見てユニークな存在として認め、そして一番その人が開花できる場所や環境を進めてあげることだ。ただ人気や影響力、スキルがあるからではなく、「もっと仕えたい」と言う思いを中心にリーダーシップを構成していく。またこのコミュニティーでは、多種多様性を受け入れられる土台があるので、一つの目的の為に様々なやり方もできる。意見が違うことを怖がらなくても良くなり、逆にその違いから新たな一致を生み出せる。一人ひとりが、「他より優れている」にはコントロールされないからだ。

これらの事は、イエスが何を弟子たちに教えて言ったかに答えがあるが、教会が成長すると共にもっと将来シェアしていければいいなと思う。

そしてこのようなコミュニティーを築くためには、俺たち一人が神様によって変えられ、世の中の価値を基準に生きるのではなく、心底イエスの基準の上に生きられるようにしないと難しい。

みんなのいるコミュニティーももっと良いものになるように祈っている!

長かったけど、読んでくれてありがとう。
次回は、同じ聖書の箇所から、「コミュニティーの外側の人々」にどう接したら良いかを書いていきたい。

ではまた!

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2013年11月14日 (木)

出会い

お久しぶりです。
教会や自分の仕事で忙しく、なかなかアップできませんでした。

OO+教会も始まってからもうほぼ5ヶ月になり、徐々に人が増え成長しています。
最初は一人しかいなかった、ワーシップチームもメンバーが与えられ、やっと礼拝らしい礼拝ができるようになってきたかな。

昔ある牧師が言っていた「一緒に旅する仲間は、自分から見つけるものではなく、神様が与えてくれるものだ」っていうのを覚えているけど、本当にそうだと思う。自然と正しい仲間とチームが正しいタイミングで教会に加わっている。毎週どんな新しい出会いがあるかすごくワクワクする。イエスの弟子たちも一見イエスが探しに言ったように見えるが、最後の祈りの時では、神様が「与えてくれた者たち」だと言っていた。イエスは弟子たちが躓いても、イエスがが離れた後でも彼らを守り、築いた人間関係を通して世界を変えた。同じように、俺たちも神様が与えてくれた「出会い」そして「人間関係」を守っていかなければいけない。同じ目的の為に旅をしていく仲間とは教会が変わろうが、開拓しようができるだけ守っていかなくてはならないと感じる。だからこそお互いを赦すことを神様は常に強調したのかもしれない。教会は「出会い」が常に起こる場所だ。そしてその出会いは様々な形で起こる。その一つひとつの出会いが「奇跡」そのものだと思う。

先週の日曜日、教会の人からある手紙を渡された。その手紙はその教会のメンバーの昔の知人からの手紙で、その知人はその教会のメンバーの人が救われた時に最初に聖書を渡してくれた人らしい。しかもその知人は、俺がイギリス時代に働いていた教会で救われてクリスチャンになったのだ。俺自身そこでの牧師の一人だったので、俺のことも知っていた。そしてその繋がりが地球の反対側でも影響し、この開拓した教会でも繋がっている。最近このようなことは多くある、友達に紹介されて教会に来てみたら、地元で共通の友達がいる人が教会にいたとか。とにかく神様の「ネットワーク」は奥が深い。

日本では「類は友よ呼ぶ」とよく言うが、これも最近本当だなと思う。まだ教会の人数は少ないが、結構似たもの同士が集まる傾向にあると感じる。教会に初めから来ている人たちの半数は、グラフィックデザイン関係の仕事、カメラ関係、ファッションや雑貨などに関わっている人たちが多く、面白いことに同じ興味などを持つ人たちが良く来る。またビジネス関係の人たちもいるので、自然とそのようなネットワークが広がって行くように感じる。そして俺たちが祖であるように、カップルや家族も比較的多い。この間、初めて大学生も来てくれたので、ドンドン様々な年齢や分野の人々が来るだろう。

聖書の1コリントでパウロが言っていたように、教会は様々な能力や機能を持つ人々が集まり出来上がる「体」と同じ存在だという事を本当に感じている。その多種多様な仕事、立場、能力、世代、役割、経験を持った人々がちゃんと一致する形で機能したときに健康で影響力のある教会になる。それが特定の方向や能力、また世代に偏ったりしてしまうと、教会としての「体の健康」が崩れ始める。もちろん教会が建てられる地域や場所により、「表現」というスタイルは異なるだろう。でも結局、教会は神様を中心に生きる「人々」で組み合わされている限り、どんな能力や年齢に違いがあろうとも、できるだけ多くの人々が機能できる健康的な環境を作り出していかなくてはいけない。

パウロはまた教会の環境を「庭」の様にも表現している。「植える」、「水をやる」、そして神様が「成長」させてくれる(1コリント3)。教会の重要な責任のひとつは、人々が根付けるように植えてあげて、そして「水」をやる事だ。そしてそこには神様と言う「光」がある。そして土が健康ならば栄養をドンドン吸収し、そこに植えられた「花」や「木」は自然と成長する。でもその庭にある「植物」も様々な種類のものがあるのは当たり前。それぞれの色が違えば、種類も成長速度も異なる。一つだけの色や種類だけだったらつまらないし、魅力も薄れる。牧師としての責任は、その庭のデザインの「一致」と「健康」を守ることでもあるだろう。日本の庭園は、その技術と美しさで有名だ。同じように日本で建てられる教会にも同じことが可能だと信じている。その為には神様が教会に「与えてくれる人々」をしっかり守り導くと同時に、教会の「健康」を守ることは大切だと思う。

もっと多くの出会いを通して、教会が成長し、ネットワークを広げて行きたいね。

今日の出会いを大切にしよう!

ではまた。

 

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2013年2月 6日 (水)

世間がなくなっていく日本

またまたテレビの話で始まるが、この間ある番組を見ていたところある新しいビジネスの分野で活躍している企業家がハイライトされていた。
しかも今までになかった市場で興味深い職業だ。
それは「コミュニティーデザイナー」という仕事だ。
この仕事は不動産・建築業界では、通常マンションやアパートを建てる際に建物を中心としたコミュニティー作りを行う仕事だ。しかしこのコミュニティーデザイナーは全く違うものだ。

一言でいうと、日本で無くなりつつある「世間(コミュニティー)」を活性化させる仕事だそうだ。

最近、特に日本の地方の市や町では昔からあった商店街が無くなりつつあり、若者も田舎から離れて大きな町に集まる傾向にある。巨大なショッピングセンターやアウトレットモールが次々と建てられ、「世間」という人間関係を中心とした商店街やコミュニティーがドンドンなくなっていく。

大概、海外の「世間」(コミュニティー)は様々な宗教の教会やモスクを中心に人間関係が形成されてきてたが、日本では教会という存在よりも、商売を通じて商店街や近所を中心にコミュニティーを形成してきた。もちろん昔から神社はあったがコミュニティーという形では役割は果たしてこなかった。でも現代人々は忙しくなると共に今までの「世間」と人間関係から離れ、もっと小さい「世間」で生きていく形となっている。それは会社、学校の友達、家族だけという形がほとんどだろう。または趣味を中心に、アイドルを追っかけたりと様々な分野でマニア同士のコミュニティーが形成されているのも現実だ。ようはサブカルチャーだ。

この変化は必ずしもは悪いことでないが、趣味ではなく人生そのものを共有する人間の輪が狭くなってしまっている。数十年ほど前までは、「世間」が結婚相手を提供していたのも現実だ。でも世間がなくなったことで、今の若者は別の場所で結婚相手を探さなくてはならない形となっている。合コンや婚活サービスもその需要に対して出てきた。

このまま行くと最終的には個人一人ひとりが市や町、または大きなコミュニティー規模では物事を考えなくなる。今のほとんどの若者が国自体を良くすることや政治に全く興味を示さないのもその結果かもしれない。

要は日本の「世間」そのものがなくなりつつあるのだ。
だからコミュニティーデザイナーという職業すら必要になってくる。
彼らは市町村からお呼びがかかれば、現地の町や村に赴き、世間を活性化させるために色々なアイデアを見つける。

そのやり方はすごく興味深い。
まず彼らは現地の町の住人たちと人間関係を作る。
それから世間を活性化させたいという同じ思いがある人々を集め、彼ら自身にどうすれば良いか考えさせ、そのアイデアやビジョンをまとめる。デザイナー達がアイデアを出すのではなく、住人が考えなくてはならない。なぜならデザイナーたちは一生そこにいるのではないからだ。もちろんアイデアを実行するためのスキルやリソースは提供する。でもデザイナーたちが去った後にも住人達が自分たちの手で、自分の街そして世間を再構築していけなければ成功とはいえない。結局、町そのものを活性化するためには、そこに住む一人ひとりを活性化しなければならないそうだ。

この話を聞きながら、最初に思ったこと。
それは、クリスチャンの教会だ。そして地域教会の本当の役割だ。
そしてこのコミュニティーデザイナーの仕事とすごく共通する部分がある。
そう、人々を救い本来の神の使命のために生きる人々へと活性化していくこと。

教会は本来世界、そして社会、要は「世間」に良い影響を与えることができ、人々を開花させていける存在として神が作ったコミュニティーだ。日本でもある部分はそうだが、当初は教会という存在から様々な社会システムが生まれてきた。たとえば病院はキリスト教の修道女や修道士が神に仕えるために病人を集めて日常生活上の世話をしたのが始まりだと言われている。

教会という存在が良いコミュニティーを作れべき存在だということだ。でも悲しいことに現代の多くの教会がその役割や性質から離れてしまっているとも感じる。ある教会は世間に出て行こうともせず、「守り(サバイバル)」に入ってしまっている。逆にある教会は、あまりにもスタイルや「やり方」、またはイメージにこだわり、それに当てはまらないと除外するという鎖国状態になる教会もあるかもしれない。

このコミュニティーデザイナーの特集でも言っていたが、下手したら今の日本はもう「世間」を復活させることは手遅れかもしれないと言っていた。でも俺はそうは思わない。地域教会という存在がまだあり、そしてそれぞれの地域教会が自分の地域「世間」を活性化(リバイブ)したという思いがあるならば、もっと良い形で「世間」が結成されていけると信じる。

そのためには、人間関係を築こうとする教会の行動と愛が絶対必要となって来るだろう。
どうか日本のそれぞれの教会に様々な形で立ち上がってほしい。「世間」を失わずに、人々を勝ち取るために。

また次回に!



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2008年8月21日 (木)

男らしさ

お久しぶり~。
またまた長い間書いていなかったね。ごめんごめん。

最近、けっこー興味深い雑誌を買ったんだよね。
女性雑誌なんだけど、その雑誌の特集は“男は顔で選ぶな”。
ようはどういう男がいい男なのかを特集として取り上げていたんだよね。

そのうち、同感できたのが以下のこと:

情熱がある= 大好きなものや趣味を持っている。ビジョンや信念がある。

想像力がある= いい雰囲気がある店やレストラン、注文するメニューセレクトが絶妙。ようはセンスのある男。

思いやりがある= 女性と歩くとき自然と道路側を歩いてくれる、些細な変化に気付いてくれる、話を聞く時ちゃんと手を止めて聞いてくれる。

謙虚さがある= お店の人にでかい態度をとらない。調子に乗って自慢話しない。道に迷ったときに人に聞ける!

社交的・コミュニケーションができる= 行きつけの店の店員さんと仲が良い。物事をはっきり伝えられる。

向上心がある= 本・新聞を読んだり、調べたり、常に成長している。

リーダーシップを取れる= 誰もリードを取らないとき進んでそれができる。

対応力がある= 何かがうまくいかな場合、プランBをすかさず提案できる。

マナーがある= エレベーターやドアを押さえる。

ユーモアがある= 何気ない時事をネタに面白いことが言える。

正義感がある= 間違っていることは、人を恐れずにはっきり指摘できる。

仕事をエンジョイしている= 愚痴や文句を言うのではなく、ポジティブに人生を生きている。

このほかにも男として仕事ができることや、経済的・精神的に自立していること。

失敗を笑えるぐらいの精神力とタフさ、どんな場所でも同じ姿でいられること(表裏が無い)など素晴らしいことがいっぱい書いてありました。

まーこれ全部できたらかなりもてるんじゃんというぐらいです。完全無欠になっちゃうよね。

さっき男は顔じゃないといっていたけど、実は大切なのが、表情、スタイル・服・第一印象だって。なぜならこれらのことは内側がちゃんとしていれば自然と良くなること。

内側も外側も大事ということです。内側だけ良くても、外に現れていなければ何かおかしい。また外見ばっかりでも、内側がなっていなければ偽善者だしね。

ようはすべてを磨け!!!
それが真の男だ!
そうイエスのように・・・。
クリスチャンには外見も磨いて欲しい。

いや~、ダンディーないい男になりたいね。
クリスチャンとして輝こう!

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