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2015年5月18日 (月)

人間の成長と変化 part 2

引き続き、前回からのトピックです。

今回は、私たちが成長し、どのような「実(Fruit)」を出すように求められているのかを見ていきます。

聖書では、その実を聖霊の実という形で、ガラテア 5:22‐23でパウロが明確に示してくれています。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23  柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」

ここで気を付けてほしいことは、ただこの9つのクオリティーを育てればよいということではないことです。日本語では、分かりにくいですがここでの「実」の言葉は、複数形ではなく、単体での言葉が使われています。英語でいうと「Fruits」ではなく「Fruit」です。要は、9つの違った種類の実があるのではなく、9つの要素が一つの実に全部一気に含まれているという意味です。

なので、実を成長させるうえで、「1つ~3つの要素だけ成長していて、あとの残りはちょっと成長してないんだよね~」、なんてことはできないということです。愛だけ成長させておいて、自制心が無いという状態は、神様の求めている実ではないということです。

別の言い方をすると、すべての9つの要素が繋ぎ合っていて連携して生み出してこそ、それぞれの本当の品性が現れるということです。これが聖書的な成長と世の中の根本的な違いになります。もちろん世の中や宗教の方法でも、これらの一つ一つの要素を持つことは可能です。でも生み出し方が違います。

例えば、世の中の「自制心(Self-Control)」はこうなります。
日本では、よく男の子に、「女々しく泣くな」とか「男は泣かない」となどと昔は言われていました。「泣かない、メソメソしない」という自制をするために、どのような動機を使っているでしょうか?それは、「女々しくならない」、「女みたいになるな」や「俺は女とはちがう」というプライドという動機や、他人を見下す思いから自制を作ろうとしていることになります。

世の中は自制を得るために、同じような原理を使います。規則正しい訓練された生活を送るためにの原動力として様々な隠れた理由があります。ビジネスで成功するためにそのようなコントロールが必要な場合は、「俺は他より仕事で勝らなくては」や「あいつに勝って昇進したい」が心の中では基本的にあるかもしれません。持てるため自制する場合は、「あの子より可愛くになるため」、「私はあの子みたいじゃない」と思い努力します。

そして宗教的な人たちも同じ動機で自制を作り出します。「私はあいつよりもモラル的に良い人間だ」、「誰よりも祈っている、聖書を読んでいる、誰よりも仕えている、私の教会は他とは違う」と自負することで、自制や努力の力が生まれています。結局、自分の価値や存在感、アイデンティティーを確立するためにやっていることになります。

世の中での「愛」、「やさしさ」、「慈愛」、「慈善」はどうでしょうか?それを与える対象の人に、気に入られたいという動機によっても表面的にすることも可能です。または、それらをしている「良い人間」の自分を作り出す為、自分の存在意義を確立することが動機にもなってしまいます。それらは本当の愛ではなく、偽物であり偽善に結果的になってしまいます。心底相手の為ではなく、自分の為という動機が奥底に隠れています。結局、このような動機が土台なら、貧しい人々を助けたりする施しの行動ですら、自分の為になってしまいます。結局、自分が「良い人間」だと感じるために彼らを利用しているにすぎません。

では聖書の言う、同時に9つの要素を生み出すとはどういうことでしょうか?
それは先ほど言ったように、すべての動機がお互いに繋り、頼り合っているということです。

例えば、自分を自制するとき、プライドが根源ではなく、愛になります。「神様に愛されている自分、犠牲を払ってまで罪人の自分を愛してくれた事実」から来ます。 自分の存在価値はイエスから既にもらっているはずなので、プライドや他人に「負けないため」という恐れや「自分の価値」を高める理由から行動する必要がなくなります。逆に。ただ与えてもらった人生を最大限に神様と人々の為に使えるように、神に受け入れられている「喜び」と感謝から自分を自制し使命を全うできるようになります。また人と比べることも、他の人より勝ろうという完璧主義的なプレッシャーもないので「平安」もあります。時間を無駄にせず、同時に明日の心配し切羽詰ることなく神様に頼りながら自制できます。更に、自分を自制するとき、自制できない人々を裁くことなく、「優しさ」と「慈愛」で見ることができます。自分も本来イエスなしではそうなると自覚しているからです。それ故、「謙遜」もしっかりあります。

慈善や慈愛の行動も、自分のためではなくなります。既に自分のアイデンティティーは神様の愛からもらっているので、存在意義を自分を形成しなくて良いからです。初めてその時、自分の為のではなく純粋に人々の為に行動できます。他の人に気に入られるために優しくなるのではなく、正しい時に「優しさ」を与え、時に厳しさと真実が必要な人には、「謙遜」を持ちながら戒めることができます。これは神様に対しても「忠実」な行動になり、まだその相手の為にという視点からも「忠実」な行動になります。自分のニーズによって動機や行動が決してブレないからです。

上の線で引いた箇所がカギだと分かるように、これらがすべて福音の要素が根源になっていることは分かると思います。要は、前回の内容のように、福音が種であり源でなければ、自然には正しい実は生まれてきません。結局、宗教的に偏った自分を作り出してしまうだけです。

ミニストリーで活躍している自分がいても傲慢になります。自制心があり成功しても優しさに欠け、すぐ人を裁き、見下す人間になります。表では愛を語り、自分を好いてくれる特定の人には慈善も善意を見せれるかもしれません。でも自分と合わない人や、違う意見も持つ人にはイライラし、また避けたり、追い出したりする行動に出るような人間になってしまいます。間違っていることが自分の目の前で行われているのに、世間の目や自分の立場や心地よさを守るために、立ち上がることができない臆病な人にもなります。それはミニストリーや組織に忠実ではあるように見えても、結局は神様の価値観に対しては忠実になっていないことです。パリサイ人という宗教家達がまさしくこんな状態だったので、イエスは彼らの種(教え)に気を付けろと言いました。

皆さんは、どのような「実」をクリスチャンの人生で生み出していますか?
正しいイエスの福音により、正しい「実」と人生の影響力を持ってほしいと願います。
これはみんな福音によって日々再確認していかなくてはいけないことです。

私たちのイエスなしでのディフォルトモード(基本設定)が宗教的なので、福音によって常に更新する必要があるからです(ローマ12:1‐2)。

神様の「実」を日本に生み出して行きましょう。

ではまた次回に。

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2015年5月14日 (木)

人間の成長と変化 part 1

数週間前の教会のメッセージの一部です。

当り前のことですが、この世の中にあるものは常に変化し変わっていきます。
良くなり成長するという変化もあれば、悪化し劣化していく変化もあります。
私たち人間も同じで、成長するかまたは劣化していくか人生ではどちらかしかありません。
変化が遅く見えても同じ状態でいることはできません。嫌でも、子供は成長し大人になり、そそして老いていきます。

聖書では、私たち人間の成長を「植物」や「農業」のプロセスに例えています。
特にマタイの福音書13章では、人間が神様にあってどうやって霊的に成長していくかがはっきりイエスによって説明されています。今日はしっかり健康的に成長していく大切な要素をいくつか見ていきます。

まず最初に、成長は絶対に必要不可欠(inevitable)だということです。植物はちゃんと土の中に埋まり、正しい環境と必要なものがあれば(太陽と水、良い土)、自然に成長するということです。成長していないのなら、死んでいるかまたは劣化(枯れて)言っているということです。

でもこの要素見ていく前に、もっと大切なことがあります。

それは「何を成長させる」かです。何の種を自分の人生に植えているかです。

クリスチャンの人生で、それは神の言葉、または「良い知らせ」という福音が種でなくてはならないと言っています。例え話の中にもありますが、厄介なことに「悪い種」や「間違った」種を撒こうとする敵も存在すると言っています。イエスは「パリサイ人の教え(種)に気を付けろ」とも言いました。ということは、まず何よりも私たちは「正しい種」である福音をしっかり自分の心に植えているかが、とてつもなく重要になります。なぜならそれが間違った種ならせっかく成長させても、間違った実が出てきてしまうからです。

リンゴの種を植えて、リンゴという実が成るのを期待していたのに、ミカンが成ってしまったといことも人生では起きてしまうということです。しかも怖いことに、実が成るまではそれが何かほとんど分からないことです。要は判断には時間がかかるということになります。種はみんな小さく、土の中にある間は何が成長しているのかわかりません。芽が出てもさほど見た目には違いはないので最初は気が付きません。クリスチャンの人生や教会自体もある意味同じです。似たような2人の人が似たような環境で、似たような態度で、似たような信仰を持っているように見えても、結果的に片方はかなりズレた宗教的な人間になり、別の方は正しい信仰と神様との歩みを成長させるという結果にもなりうると言うことです。

イエスはそれを別の形でこう言いました:
同じ2つの家があり、一つは岩の上に建てられもう一つは砂の上に建てられた。
2つのドアがあり一つは小さく正しい場所に行き、一つは大きく地獄へ続く。
2人の預言者がいて、片方は偽物、片方は本物。
2人の祈る者がいて、一人は宗教的に、もう一人は真の神に正しく祈る。
2人が「主よ、主よ」とイエスを呼ぶが、一人はイエスはその人を知らないと言い、もう一人はイエスは知っていると言う。

何をイエスがここで言おうとしているかわかると思いますが、結局自分が「何の種」を育てるかがどんなことよりも究極的に重要だということです。別の言い方をすると、福音をしっかり把握し、理解しているかが成長のカギとなります。なのでイエスはこう言って例え話の説明を始めました、「耳ある者はちゃんと聞き、そして理解しろ」と。また例え話の中でも「理解する」という言葉がカギとなっています。

ここでは、理解しない(または把握しない)=心(土)に入っていない状態を表しています。結果的に、種が道端に落ちたままなので、「鳥(悪魔)に種を持っていかれた」となってしまったり、「日が照って、焼かれてしまった」という結果もあります。興味深いのは、「太陽の光」は本来は成長するための良い要素でもあるのに、逆に成長の妨げの要素になってしまっていることです。福音を理解しているかどうかで、本来私たちのためには良いものが、悪影響になるということでもあります。それは聖書を読むという行動自体も同じです。以前のブログでも説明したように、福音を中心に読まなければ、結果的に自己啓発的に読んでしまい、自分の努力で自分を救おうとする宗教的な読み方になります。先ほどの例えと同じように、「祈る」という素晴らしい行動も結果的に宗教的になります。教会という存在も、福音の理解が間違っていたり、ズレていたりすることで、宗教的になり、下手をすればカルト的になったり、コントロールし冷たい愛がない組織になってしまいます。でも怖いのは見た目は最初は同じということです。

また種が浅く、根が張り切らないために、心配事や世の中の富(世の中の価値観)によって成長が妨げられる結果もイエスは話しています。これは福音がある程度知識的に理解していても、しっかり自分の心に根付いていないので、他の優先順位や価値観によってズレていってしまうことです。これもクリスチャンでは良くあると思います。福音を土台に成長させることよりも、人生で成功すること、ビジョンを持つこと、祝福されること、立場的に偉くなること、人気者にあって活躍することの方がクリスチャンの人生でも大切になってしまう場合があります。それらは本来悪いものではなく良いものですが、それらが本当の福音と真の神様の代わりになってしまっている状態です。

「イエスを信じれば成功する」、「教会に根付けば祝福される」、「聖書をしっかり読んで祈ればすべてうまくいく」、これらは聞こえはよいですし、悪いことではなく、むしろ良いことですが、福音(私たちの罪の為に死に復活したというにイエスが成し遂げたこと)とはかけ離れています。それらを福音という土台には絶対になりません。それらが福音であるなら偽物になります。イエスはそれらの約束はしませんでした。どんなことがあっても常に一緒にいてくれることは約束してくれました。でも必ず金銭的に祝福され、またビジネスで成功して、必ず良い結婚できるとは約束はなく、むしろ逆に困難と苦しみは必ずあるとさえ言いました。使徒行伝では、信仰の為に拷問にかけられ、投獄され、結婚もせずに殺された人も多くいました。世の中的に見れば、彼らは決して「成功」はしていません。でも殺される寸前でも喜びあふれて、とてつもない神様の使命を全うしました。もし成功や祝福が信仰をスタートする種であったのなら、それらを得られなかったときどうなるでしょうか?結局人生で失望します。下手をすれば自分を責め、良いクリスチャンでなかったと罪悪感を覚え、または他人や神様のせいにするでしょう。できたとしても謙遜は全くない人間になると思います。もしそれらの間違った福音を種として、自分を成長させているのなら何年後かには宗教的になるでしょう。

本当の福音は「イエスがしたこと」によって変わり、常に感動し心動かされ感謝しながら成長し続けるライフスタイルを生み出すものです。自分がどれほど「ウマく・頑張って」、聖書の原則に従い成功できるかという自分の努力ではないのです。

そのように間違った種を育てている自分にもある日気が付きました。そしてそれがあたかも聖書のメッセージであり、人々に伝えるべき福音だと勘違いしていました。もちろんそのように「幸せになれるよ」、「成功できるよ」、「結婚できるよ」というのは人々に受け入れてもらい易いかもしれません。クリスチャンのことを知る最初のきっかけとしては、それらの自分のニーズや癒しからでも良いかもしれません。でも本来の福音の本質を教えて、理解させていないなら、本当にクリスチャンかどうかも怪しくなってしまいます。本当に神様を心から信じて福音の真実に頼っているのかも分かりません。たぶん福音を成長させるどころか、とてつもなく世の中的なものを成長させていることになります。

前にも言ったように、福音はGOOD ADVICE(良いアドバイス)ではなくGOOD NEWS(既にイエスが成し遂げたこと)です。アドバイスは、それを受け取りこれからする自分たちの努力でどうするかに掛かってします。アドバイスなら釈迦でも、モハメドでも、自己啓発でも、会社でも、どんな宗教のリーダーたちでも沢山教えて「くれるでしょう。でも福音(既に救いを成し遂げてくれた)はイエスだけです。イエスだけが私たち人間がこなせなかった神の求める義を完璧に全うし、罪によって私たちが死ななければならなかった「死」を体験し打ち破ってくれました。自分たちがこれからすることではなく、既にイエスによって完成されたことの上にすべてが掛かっているということです。

皆さんはクリスチャンとして、何を自分の土(心・人生)に成長させていますか?福音ですか?イエスですか?それとも宗教ですか?

イエスがブドウの木で、そしてその木が成長すれば私たちが枝になります(ヨハネ15)。
そしてイエスが求める実を、福音の種から木を成長させることにより実らせることができます。そしてイエスが言ったように、福音によってイエスという木に繋がっていないのなら、私たちは何もできません。

次回は、イエスが求める「実(結果)」は何か?そしてどのようなものかを見ていきたいと思います。

福音という種を成長させよう!

ではまた。

このメッセージはここでも聞けます。
https://soundcloud.com/doubleo-cross-church/20150419-growing-and-changing

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