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2015年3月17日 (火)

ザ・テンション & ミッション

本当の意味でクリスチャンになると、「救われる」、そして「使命を受ける」と言うことが2つ同時に起こります。

アブラハムは、神様と出会うと同時に自分の故郷を離れて約束する地に行けと神様に言われました。「その地はどこですか?」と聞くと、「それは後で分かるよ。」という感じで。笑

ヤコブは故郷を離れると同時に、出た先で神様に出会いビジョンを見ました。

モーゼも引き寄せられて神様との出会いがあったと思ったら、エジプトに戻り自分の民を救い出せという使命を与えられました。

ダビデもイザヤも、そしてイエスの弟子たちも多くの聖書の人達は、神様と関係ができると同時に「心地良い場所 comfort zone」を離れミッションを与えられました。

もし私たちがイエスに出会い神様との関係を持っていると言いながら、神様のミッションに加わっていないなら本当の救いを分かっていないということです。この2つは切っても切り離せないからです。イエスの十字架と復活を通して、世界を救い修復し再生するという目的そのものが神様がずっと昔から実行し続けて来たミッションだからです。そして私たちはその歴史の真っ只中にいます。イエスが最初に地上に来た時から、次の再来の間に私たちは生きています。アブラハムのように「故郷」を離れていてもまだ目的地に向かっている状態です。

神様の使命がなければ、自分の為に教会に行くでしょう。自分の為だけに聖書を読んでしまうでしょう。そしていずれ、教会やメッセージに満たされなくなったら、文句を言うか、または世に中で満たしてくれるものを探していずれクリスチャンのコミュニティを捨てるでしょう。神と人々に仕えると使命がないからです。でも使命がある人は、常に健全なクリスチャンのコミュニティを見つけようとします。

神様の使命がある人は、問題を見たときにもっと良くしたい解決したいと思います。ない人はそこから逃げます。使命がある人は常に「神様の約束という目的達成という希望」と「心地良さを離れる苦しみと痛み」の両方のテンションに生きています。

そのテンションに生きる力はイエスからしかもらえません。福音のように、「圧倒的に罪深い俺たちであったのに、圧倒的な愛と恵みで救われている」というテンション。「この世の中の価値観にあっては貧しいけど、神にあって富んでいる」、「弱いけど、強い」、「ある人たちにはボロクソ文句言われているけど、ある人々は俺たちの善い行いを見て神を崇めるようになっている」、「この世に属さない外国人だけど、この世に中に住んでいる住人」。この狭間のテンションに生きるのがクリスチャンです。そしてそれはイエスの福音でしか見出せません。

もし私たちが、教会という世界だけにどっぷりハマりすぎて教会が提供するプログラムだけの人生になり、「俺たちが生きている人生(成功、結婚、ビジョン)は世の中よりマシだ」という見下した態度から伝道して、その世界観だけを強調しながら人々と関わっているのだったら、私たちはそのテンションに中にいません。逆に教会という存在はもうダメだと言い、クリスチャン達は偽善者とか言いながらクリスチャンのコミュニティから完全に離れているのなら、それも正しいテンションを生きていることにはなりません。結局両方共、自分の幸せと心地良さが中心であり、単なるプライドです。結局自分で自分の満足を作っている宗教です。

この究極的なテンションがある使命に生きて欲しいです。教会という聖書的なコミュニティにつながると同時に、社会で生きて働き様々な問題にぶち当たりながらも影響力を持つ。闇にありながら輝く光のように、食べ物に混ぜられながらも味をしっかり持つ塩のように。

本当の意味でクリスチャンの人生を生きて欲しいです。

救われて使命を生きていますか?

ではまた。



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2015年3月 3日 (火)

福音という教会の土台

前回に引き続き教会開拓の為にかなり神様に自分自身が修正させられた価値観の一つ。

日々、神様はどんな教会をこの東京で日本で建てようとしているのかを考える中、いつもこの聖書の言葉が頭に響く。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

これはイエスがはっきりと示した教会の土台となる宣言だ。

そしてこの岩とは?

その定義はそのイエスの言葉の前にペテロが宣言した、

「あなたはキリスト、生ける神の子です」(16節)にある。

別の言い方をするとこうだ。
「イエスが俺たちの救世主であり、もう既に十字架で罪を解決してくれたという事実、そしてその死から復活し今も生きている神、そして常に信じる者たちと一緒にいて関係を持てる真の神」という事実の上に教会を建てるということだ。

もっと簡単に言うと、「福音(イエスの良い知らせ)」そのものが土台だ。

要は教会は、「俺たちが今これから将来(ビジョン)に向けて神様の為に成し遂げる事の上に建てられるのではなく、イエスが既に為に成し遂げた事(福音)の上に教会が建てられなければならないという事だ。

この違いはとてつもなく大きい。

もし教会が「俺たちの何かを成し遂げようする努力」に掛かっている場合すべての基準や価値観が聖書からずれてしまう。例えば前者の場合、すべて自分たちの成果や達成が基準なので自然と教会のメッセージも「この原則に従って自分で努力し成功しろ」や「“こうしてあれをやっていれさえすれば”神様に祝福される」になる。そして結果的にそれを「できる人」と「できない人」に区別される。

逆に後者は福音という既にイエスによって成し遂げられたことが基準の場合、すべて教会の基準はただ恵みによってなので、まずみんな平等に価値ある者とされる。そして強い人は自然に弱い人を助けることができ、「できる人」は「できない人」を見下すのではなくサポートしようとする。この違いは当時のイエスと宗教家たちとの違いでも同じように表れていることが分かると思う。

別の言い方をすると「宗教(自分の努力で神に近づく) vs 福音(恵みと愛により神が人になり救ってくれた)」だ。

下の例のように、新約聖書での例だけを挙げてもその違いはこうなる。

会社・組織(ルールと制御) vs キリストの体(オーガニズム・生命体)

機械的・システム的に起こされた成長
vs 神の「真実と愛」による自然で着実な成長

排他的(スタイルやビジョン・価値観が合わないと除外)
vs 包括的(皆自分も罪人だったという自覚があるので、まず受け入れ赦し合う、本当の意味で謙遜)

偽の一致(同じユニフォーム“ただ同じ考え”を着るだけの一致 Uniformity)
vs 本当の一致 (個々に違いがあるが、それでも福音により一致 Unity)

結果と能力主義 
vs 関係的

トップダウンリーダーシップ vs 仕えるリーダーシップ

「イエスマン」シップ vs チームワーク

できる人・できない人のランク分け vs 一人ひとりユニーク(創造性と多様性に富む)

ビジョンや自己啓発でやる気を起こさせるメッセージ vs イエスの福音の力を通して解決を与えるメッセージ

優越感を得るために裁き・罪に定めようとする vs 自分が恵みを受けているので赦し回復と癒しをもたらそうとする

違った意見を否定 vs 違った意見を重宝し成長の糧とする

特定の教会ライフとルールが中心 vs 福音を基準とした神様の国が人生が中心

マニュアル基準の弟子訓練(自分で考えられない) vs 実践と模範基準の弟子訓練(自立していける弟子)

束縛的(組織だけで通用する世界) vs 開放的(世界に出ていき活躍を支援)

情報操作と嘘 vs 批判されても自分の名誉さえ神様にゆだねる

恐れ・脅しでコントロール vs 福音から来る感謝と喜びで自発的な行動とサービス

躓いて失敗したら除外 vs 「あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」

もっと書こうと思えば永遠と比較はできるが、福音を中心としたイエスの教会のイメージと単なる宗教の違いは見えただろうか?
皆はどのような教会に関わっている?そしてどのような教会をこの日本で広めたい?

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

教会は牧師や組織のリーダーのものではなく、常にイエスのものであることを忘れないようしなくてはならない。

本当の福音に立ち返ろう。

ではまた。

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