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2015年1月22日 (木)

聖書的な聖書の読み方 (福音中心とした聖書の捉え方)

以前、OO+教会を開拓するに当たって自分の中で多くのことを変えさせられ、考えさせられたという事をことをシェアさせて頂いた。

その中でも自分にとって、ある意味一番重要な理解の変化の一つを今日は分かち合いたいと思う。

それは「聖書の読み方と理解の仕方」だ。

聖書は一番歴史的に人々に読まれた書物として、また同時に多くの影響を与えてきた。
歴史や文化を通して、人に様々な形で読まれ、理解され、また良い方向にも悪い方向にも解釈され、使われていた。
聖書は神を無視して、ただの歴史の本として読まれてしまうこともできる。また宗教的にも人間が作り出す宗教の信仰の対象となり、ビジネスにおいても知恵の根源として箴言や伝道者の書は用いられてきた。

でもクリスチャンとして知らなくてはならないのは、人間が作り出す神が基準の理解ではなく、全知全能の神自身がが何の目的でどういう意図でそれを書き、そして何を伝えようとしているのかを理解しなくてはならないということだ。特に自分自身のメッセンジャーとしての役割の中で、この理解はとてつもなく重要だと感じた。

聖書は究極的に分けると2つの読み方ができる、それは「自分の為」に読むか、または「本当の神を発見し知る」ために読むかだ。これは「福音を中心としたミニストリー」のトレーニングの中ですごく考えさせられたことだ。この聖書的な概念や詳細を明確に提供してくれたCTCのMovement、ティム・ケラー先生、そして福音を中心とする教会や団体のリーダーや仲間たちに感謝したい。

このことを学ぶ中で、牧師やリーダーたちが聖書の解釈を間違ってしまうことにより、教会やミニストリーそのものがズレて行ってしまうと本当に思った。そして多くのクリスチャンもこの区別を分からずにただ聖書を読んで、何をどう捉えたら良いかわからない現実があることもにも気づいた。はっきり言ってしまうと、聖書は間違えると「危険」なものにもなるし、また逆に「真の癒しと救い」をもたらすものにもなる。

ではこの二つの読み方は何がどう違うのだろう?
まずはただ「自分の為」に読んでしまうことの危険性を見てみよう。

聖書は、旧約聖書も新約聖書もその中にある歴史や登場人物の生涯も、一つのテーマを指して常に描かれている。それはもちろん「イエス・キリストと彼の福音」だ。イエス自身も明確にそのことは福音書で言っている、「すべての律法や預言者の言ったことは私についてであり、それらを壊すのではなく成就するために来た」(マタイ5:17-21)、また「すべての聖書は私についての証であり、すべて私について書かれている」(ヨハネ4:39、ルカ 24:13~34)とも宗教家たちや弟子たちにも断言した。まず聖書は「イエスが救世主であり、俺たちの罪を十字架で背負いまた死から復活したこと」を示し、そしてその事実を土台とした信仰がどのようなものかを描き、そして同時に俺たちに信仰を与え、本当の神の性質を知りとの関係を深めていくためにあるということだ。

「自分の為」に読んでしまうとは、まずその福音を自分に適用せずに読んでしまうことであり、イエスを見つけることを優先して読むのではなく、ただ自分が「何をしなければならないか?」を基準に読んでしまうことだ。聖書を読むときにイエスから目をそらすと、自分の利益・祝福・成功をもらうため、自分の努力で神に認めてもらうため、罪悪感を消すため、「良いクリスチャンになるため」、また単なる自己啓発というレベルに聖書を下げてしまう。

前にも話したが、多くの日本の文豪たちが聖書を読んだことにより自殺しそうになったということがあるが、それは彼らが聖書を間違った視点、そして「自分中心」に読んでしまったことに原因があると説明した。

聖書の中で神様が求める道徳的基準はどの宗教よりもとてつもなく高い。旧約聖書の律法だけでもすごく高いが、新約でイエスが言う基準はもっと高い。敵を愛し、常に隣人を愛し、自分がしてもらいたいように相手にも接すること・・・、結局「完璧になれ」と断言している(笑)。「無理だ~!」と普通の人間なら思うだろう。でもそれが正しい反応だ。
でも日本人は超真面目だ。その基準を頑張ってこなそうとする。その時、できない自分に気づいたとき失望し自分をさげすみ、罪悪感に襲われる。例えできたとしても、そいつはパリサイ人のように傲慢になり自分で良いクリスチャンになったと思い込みひどい人間になるだろう。だからそのような「自分の為(自分で自分を変えようする自分中心の聖書の読み方)」はどちらにしても危険だとこのブログでも説明した。

聖書はイエスの福音の真実と愛と恵みを理解せずに読むようにはできていないのだ。聖書は「人間の愚かさ」と、「神の基準にどう足掻いても達することができない人間の罪深さを示し」、その罪に対する神の神聖さと怒りを明確にすると同時に、それを解決する圧倒的な神の愛と恵みの両方をしっかり示している。だからイエスが「完璧になれ」という時、すべての神の基準をこなしたイエスを受け入れることを通して「完璧」になるということになる。敵を愛することも、異性を正しく見ることも、霊的成長そのものもすべてだ。聖書はその二つの神の怒りと愛が矛盾しているように見えて、でも「福音」によって両方の真実を守っている。でもそれを忘れて聖書を読んでいる限りは、すべて自分の為になり、神の恵みと働きではなく「自分の努力で神に近づく」という、まさしく宗教をやりは始めてしまう。要は極端に傾いてしまう。

そしてもし教会がただ「自分でがんばれ~」を土台に聖書を解釈し、ミニストリーを建て始めると、それこそもっとたちの悪い宗教になる。こういう意味ですべてがズレるということだ。イエスの時代もそうだったが、その宗教世界では、自分の努力が中心なので、必然的に「できる人」と「できない人」に区別される、「成功できる人」・「できない人」、「祝福されている人」・「祝福がない人」、「断食して祈り人」・「あまり祈らない人」、「多く教会で奉仕する人」・「できない人」。これらの要素や度合いが霊的な成熟さだと思い始めてしまう。そしてそれを中心にすべてのミニストリーの成果と基準が判断されるようなシステムが出来上がる。そうなると究極的には、「内部の人」と「外部の人」となる。言い換えれば、教会や組織の基準(ルール)に当てはまる人、当てはまらない人とを区別する。こうなるとイエスの福音が「良い知らせ」ではなく、特定の教会やある環境にいることが「良い知らせ」であり「良いクリスチャン」となってしまう。

「福音」という基準をを忘れてしまうとすべての基準がズレしまうのだ。クリスチャンとそうでない人たちの唯一の違いは、ただイエスの救いにある恵みと愛じゃなかったのか?皆神から離れた同じ罪人だったじゃないのか?俺たちが救われたのは何か俺たちが良いことをしたから?または他より少し賢かったからだろうか?なぜ完全な恵みと愛によって救われたのに、自分の努力で良い人間になり始めることができると思ってしまうんだ?これらはガラテア人への手紙でも問題となっていたことだ。パウロは「違った福音」のことも注意している。

そしてこの「ズレ」は聖書の捉え方と読み方一つにも表れてしまう。ただ読めば良いというものではない。ただ毎日「神様は何をしろ(アドバイス)」と言っているかを理解するための聖書の読書ではなく、まず「神が何をすでにしてくれたか(良い知らせ)」を理解することから始まり、正しい理解が生まれ、そして毎日が始まる。神からただアドバイスを受け取ることが聖書の目的ではない。それだけならどんな宗教もアドバイスをくれし、先生と呼ばれる存在も多くいる。でもイエスは単なる良い教師(ラビ)ではない。聖書はイエスにある救いを示すものであり、俺たちに「福音(良い知らせ)」を与えるものだ。要は聖書をどれだけ読んで理解しているかが霊的レベルや良いクリスチャンではなく、どれだけ福音と神の恵みに感動し、心打たれ、そしてそれが自分の変化と成長に繋がっているかが大切だ。

そして教会の存在も変わってくる。福音を見つめている人々は自分の弱さを理解すると同時に、神の愛に頼り生きているので、赦しあう、受け入れ合う、違いを認め合い、お互いの違いがあってもイエスにあって一致を築こうとする共同体となる。ある道徳的・宗教的・社会的基準に達するかどうかではなく、お互いの間違いや失敗からも福音の素晴らしさを再確認し合い、立ち上がり前進し合える場所となる。福音という、ある意味究極のバランスがあると、教会はただ「病院」いう傷を舐めあう場所にはならず、また逆の厳しさだけの弟子訓練と成長を基準とした教会だけにもならない。両方の極端さを避けることができる。イエスが「恵みと真実」を両方持ち合わせたように、福音の中で教会も「恵みと真実」の両方を兼ね備えたミニストリーを形成できる。

では神を知る為そして関係を深める為の読み方とはどういうことだろう?

それは既に上記でも答えを出していると思うが、イエスと福音を発見する読み方だ。
すべての聖書はそれが中心となっている。

具体的にどういうことかもう少し説明したいと思う。
これは、「福音中心」をモットーとするOO+のメッセージの仕方にもすごく重要視していることなので参考にしてほしい。

例えば、良くあるダビデからの説教。
正直、自分自身も今までは、ダビデのストーリーを使って「俺たちが何をすべきかしか」という説教しかしていなかった自分に気づいた。

「ダビデは勇敢で、皆がビビッているときに一人巨人に立ち向かった。そしてサウル王の剣と鎧ではなく、自分のスキルという投石器で倒した。なので、私たちも自分の良さとスキルを生かして、人の目を気にせず勇気を持って成功に立ち向かいましょう~」というのが、現代の一般的な人気あるメッセージになるだろう。それらを言ったあとに、「ハイ。イエスを信じればその勇気が持てますよ。彼を信じますか?」となるかも知れない。

でも考えてみれば、これでは究極的には「自分の努力でダビデのようになれ、頑張れ」と言っているに過ぎない。イエスの事を話していても、イエスを救世主としてではなく、単なる自分の成功のための「後ろ盾となるアドバイザー」程度としか伝えていないということに気づかされた。イエスがなぜどのようにして俺たちの救い主なのか説明すらできていない。
自分自身もある意味、福音を明確に説明するメッセージをせずに罪悪感を感じた時もある。「自分は本当の福音を語って来たのだろうか?」と。

では福音を中心とした捉え方はどのような感じだろう?
その為にはイエスと福音がこのストーリーや時代の背景の中でどう示されているのかを見なくてはいけない。

その当時イスラエルはぺリシテ人に圧倒され攻撃を受けて、皆怯えていた。この戦争で負ければ、完全に彼らの奴隷になってしまう状況だ。でもだれもぺシリテ軍のボスである巨人ゴリアテに立ち向かおうとする勇気ある者はいなかった。でも羊飼いであり末っ子のダビデが神の好意によって巨人と戦う状況が作り出され、結果的にダビデが巨人を倒したことによりイスラエル全員が救われ解放された。

これを福音に照らし合わせるとこうなる。

ダビデはこれからやってくる救世主イエスの象徴でありプロトタイプ。ダビデが勇気を持って踏み出し巨人と戦って勝利したように、イエスも神でありながら、地上に一歩踏み出し、十字架で罪と死に打ち勝った。同じようにダビデの勇気ある行動によってイスラエルが解放されたように、俺たちもイエスを通し、罪という奴隷から解放される。それだけではなく、ダビデは単なる弱い羊飼いであり末っ子(その当時では一番権利がないこと)だったように、イエスも武力で勝利するのではなく弱さそして人類の「長男(神の子)」という立場や神である権利を俺たちの為に捨て「仕える」ことにより、十字架という人間にとっての愚かさと弱さを通し勝利した。だから俺たちは、ビビっていて何もできなかったイスラエル人と同じだったが、イエスを信じ頼ることにより、イエスを通して俺たちもダビデのように神に従い、勇気を持てるようになっていける。だから俺たちにはイエスが絶対に必要であり福音を信じることにより、自分の力ではなくイエスによって救われ変わっていける。ダビデのようにその当時の社会で末っ子と言う「弱さ」と思われたていたものが、神にあって強さになり、俺たちの愚かさを通して神の知恵が現れる。

すごく簡単に説明したが、基本的にこのような解釈の仕方になる。もちろんこの視点から様々な福音の適応はクリエイティブにできる。でも根本的な違いは分かってくれただろうか?
このような読み方や解釈の視点はすべての聖書箇所に適応される。アダム、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、エステルのストーリーさえもイエスと福音が完成形となり、彼らはイエスの形でを示す存在だ。預言者も律法の性質と目的ですら福音を示している。新約でのイエスの教えの本来の意図や例え話も、すべて福音の要素につながる。

このような読み方になると、神様を発見し、「自分が願う神様のイメージ」ではなく、聖書が示すバランスのとれた神様の存在を学ぶ。神様のしてくれたことに感動するようになり、神様を知ることにワクワクする。読むたびに良いクリスチャンになれない自分に罪悪感を感じるのではなく、「できない自分」ですらすべて分かった上でイエスを与えてくれた神に感謝し始める。それと共に、「こんなに恵みを与えてくれた神」を本当の意味で感謝することに繋がり、「従わなければ」という恐れではなく、あふれ出る「従いたい」という思いから神に仕えることができる。イエスが言うように、「多く赦された者は多く愛する」が現実になる。これは「もっと罪を犯して、もっと赦してもらってから愛すること」ではなく、イエスの福音を深く理解することにより、「どれほど赦されているかを理解すること」から生まれる愛と感謝のことだ。

福音を土台に聖書を読むとき以下のことを頭に入れて読んでみてほしい。

1.神様は何を求めているか?(聖書が示す神の基準)
2.なぜ俺たちはそれを出来ないのか?(罪と自分たちの弱さ愚かさという問題)
3.イエスはそれを解決するために福音(十字架の死と復活)を通してどうやって解決したか?(イエスの中での解決)
4.そしてどうその福音を自分に適応することにより変わり、神様の基準や求めていることに従えるようになれるのか?(福音の適応)

気を付けてほしいのは、すべての要素をしっかり考えることだ。2番目で止まってしまったら、さっきも書いたように、罪悪感や自分の弱さに失望しただけで終わってしまう。できても自己啓発で終わり、出来ない人を蔑む。3番目だけでも、「神様感謝します」だけで自分は何も変わらず変化もなく、結果的には福音を分かってないことになる。4番目まで適応して初めて福音を信じ受け取り理解したことになる。

これらの要素は、牧師という立場である自分も教会に語るメッセージで必ず入れ込まなくては言えない要素と思っている。

2番目までしか伝えないメッセージだと、ただ人々に「はい。じゃ自分たちで頑張ってください~」、または「だからお前たちはできないんだ」や「俺はできている。だからお前らもやれよ」というメッセージになる。基本的には罪悪感を用いて人々を変えようとしているようなものであり、ある意味「自己啓発」よりたちが悪い。最悪見下すようなメッセージだ。

3番目だけだと、「神様すばらしいですね~。ハレルヤ~」で終わり、何をイエス通して自分の人生で変えないければならないのかを教えず、理想と現実のギャップがどんどん生まれていくだけだ。最悪のケース、日曜日にはハレルヤで、職場や家では感謝するどころか全く福音と関係ない人生を生きてしまう危険性も生まれてくる。

聖書は、ただ自分の言いたいテーマやポイントに合わせて、引用すればよいものではない。
それだけでは結局自分の意見や哲学を中心に、聖書を利用しているに過ぎない。
本来は逆でなくてはいけない。神の基準と真実に、俺たちの考えや思いを合わせなくてはならない。メッセージも同じだ。必ずしも、聖書を利用している=聖書的なメッセージとは限らない。「イエスと福音」という、神がこの世の始まりから意図した計画にある価値感と目的、そこにある様々な神の性質に合わせることにより、真の「聖書的」になる。

キリストを語る教会の牧師として、聖書の真実を語る者として、この責任は重要だ。
福音を正しく伝えていないなら、「他の福音」を伝えてしまっている危険性がある。
そうなるともう別の宗教となる。

俺の個人的な願いは、クリスチャンみんなが自分たちでしっかりとした福音を聖書を読むときに発見し、理解できるようになることだ。そうすることにより真の福音が日本に伝わっていくことを願う。

福音中心とした聖書の読み方は本当に聖書を明確にしてくれると同時に、本当に「神の奥義」、ようは「福音」のシンプルさと同時に深さを教えてくれるものだ。ここでは書ききれない聖書的な要素もあるので、質問がある方は遠慮なく聞いてほしい。コメントは許可なしにはブログに反映されないようになっているので、気軽に質問してくれても大丈夫だ。

ではまた次回に。

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2015年1月 6日 (火)

Vision

皆さん。明けましておめでとう!
今年もブログの方も頑張っていきたいのでよろしく~!。
今回はちょっぴり「長め」です(笑)

新年と言えば、「新しい始まり」ということで、今年の抱負やビジョンなど、色々達成したいこと、新しく変えたいことなど考えているんじゃないかな?また多くの教会でもビジョンについてメッセージでも話していることでしょう。

でも牧師として人生のビジョンや目的を人々に語る時、いつも教会で感じるのが皆のなかにある「混乱」だ。
「ビジョン」という言葉を聞くとあまりにも漠然としていて、多くの人たちは「私のビジョンは?」、「何をしたらいいの?」、「自分の使命は?」と考える。クリスチャンならなおさら「この自分のビジョンや思いは神様のもの?それとも自分の勝手な思い?」と考えて疑ってしまう。何を基準に、どう正しいビジョンを判断したらいいのかが分からない。そしてビジョンについてのメッセージや教えを聞いても毎回様々な見方、またはただのビジネス的な感覚でしかビジョンを教えてくれない場合があるので余計な混乱する場合も多い。基本的に世の中が言う「ビジョン」と神様が言う「計画」には決定的な違いがある。全く違う視点と土台から「ビジョン」というものを見ているからだ。

なので今回は聖書的に「ビジョン」とは何か、そしてそれを基準にどう自分たちの人生を組み立て決断し生きていけばよいのかをできるだけ明確にしたいと思う。

まず最初に言いたいことは、聖書は神様の思いやビジョンを超明確に示しているということだ。例えば、マタイの書22:36-39、

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 (37) そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(38) これがたいせつな第一の戒めです。(39) 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これは何度も福音書で出てくる内容だが、これは宗教家たちがイエスの下にやってきて質問した内容だ。この宗教家たちは「モーゼの律法の専門家」でイエスを試すためにこの質問をした。そこでイエスは簡単にすべての律法の目的をまとめたのだ。要は、「神を愛すること、人々を愛すること」、これらが神が俺たちに求めることだと。

すごく簡単なことだと思えるが、実はそう簡単にこなせるものではない。なぜなら、もし俺たち人間がこれらを楽に実行できていたらイエスが地上にやってくる必要はなかったからね。この箇所をちゃんと理解するには、ある程度「モーゼの律法」を理解する必要があるので、そこから見ていきたい。

まず「モーゼの律法」なので、モーゼの話が出てくる「出エジプト記」や「レビ記、申命記」などを思い出してほしい。このブログだけでは全部これらの書の内容を説明することはできないので、今回は簡単にまとめよう。

モーゼの律法は基本的に、「十戒」から始まる。神様がエジプトから神とモーゼによって救出されたイスラエルの民に与えられた「ルール」だ。ここで理解してほしいのは、これらのルールは彼らが「救われるため」に与えられたのではなく、「神の民」として正しい人間関係とコミュニティーを作るためのものだったということだ。なぜなら彼らこのルールを受け取った時は、もう既に神によってエジプトの奴隷下から救われ解放された状態だったからだ。しかも一方的な神の恵みと愛によって。以前にも「イエスの山上の教え」の内容でブログでも触れたので関連性についてはそちらを参考にしてほしい。後で説明するが、この理解はすごく重要だ。

このルールを民に与えた時に、神が強調したことが2つある。それは「神が愛と恵みのゆえにイスラエルを救ったということを思い出して神を愛すること」、そして「人々を愛し、貧しい者もやもめも外国人も公平にすべての人々を守り接すること」だった。

もっと簡単に言うと、「神様のしてくれたことを思い出しながら神を感謝して愛し、人々を愛して素晴らしい神のコミュニティーを作る」ことだったということだ。「十戒」を見てもわかると思うが、最初の3つの命令は神を愛することに関しての内容、そしてその残り7つは人々への接し方やコミュニティーについてだ。

究極的には、これが神が俺たちに求めるものであり「ビジョン」そのものそし、すべての計画の最終ゴールだ。これらがクリスチャンのすべてのビジョンの土台となるべきであり、それ以外の俺たちの思いや願望、計画やゴールがすべてこの2つの神のビジョンに繋がっているかを常に確認しなくてはならないということだ。でもその「ちゃんと神様のビジョンに繋がっているかの判断」がすごく気を付けないといけないことであり、俺たちが間違えやすいところだ。

それは反面教師である、先ほどの「宗教家やパリサイ人の間違い」から学べることができる。思い出してほしい、彼らは通称「律法のエキスパート」だったのに、完全に神様のビジョンを分かっているはずの人々だったのに完全に神様のビジョンから外れていたことを。なぜそうなってしまったのか?これもすごくイスラエルの民とモーゼの壮大なストーリーと関係している。

まず彼らの究極的な問題は、「自分たちの努力」でその2つの神のビジョンを成し遂げようとしたことだ。神様がまず強調したかったのは、「神様の愛と恵みを思い起こせ」だった。それだけは子孫にも伝えて記念碑を建て、祭りをして思い出せとイスラエルに強く教えた。現代のクリスチャンが行う聖餐式や教会の礼拝の目的も究極的には神のしたこと(福音)を思い出し賛美することにある。でもイスラエルの問題は、すぐにそれを忘れて「自分達で作り上げた神(最初は金の牛)を祭り、自分達でコミュニティー(宗教)を作ろうとした」ことだった。

パリサイ人達はもっと厄介で、イスラエルの民がそうならないように神が与えた律法を逆に利用して、「俺たちは誰よりも律法を守り神を愛し従っている」と言いながら、「神が恵みによりしてくれたこと」ではなく、自分の努力で築き上げた「義」を基準にそれを押し付け、できない人々をさげすまし、そして余計なルールで固めた超厄介なカルト集団にまで作ってしまった。表向きではすべて「律法」を守っている良いクリスチャンであるかのように見せ、中身の目的はすべて自分たちの地位や名声、そして願望を叶えるためにルールを作り利用した。これにはイエスもめちゃくちゃ怒っていた。でも怖いのが、実は俺たちも知らずにその方向に向かって行ってしまう傾向にあるということだ。

ある人はクリスチャンとして教会に行って聖書を毎日読んでいるかもしれない、奉仕して仕えているかもしれない。
結婚して旦那と妻と一緒に神に仕えたいという願望があるかも知れない。ビジネスで成功してお金やリソースを通して神に仕えたいかもしれない。
また牧師になり「献身」して神に仕えたいという願望があるかも知れない。
これらはすべて素晴らしいことだ。

でもここで重要な質問は、「何のために?」だ。

教会に行って毎日聖書を読むのは、そうしないとクリスチャンとして「ちゃんと生きていない」という罪悪感に襲われるから?
仕えていないと、周りのクリスチャンに忠実でないと思われるから?
結婚しないと幸せになれない、愛してくれる人がいないと不安だから?子供ができ家族を作れないと孤独だから?または惨めになるから?
成功してお金を持っていないと、クリスチャンとして自分の為に自由に使えるお金が無くなるから?
牧師や献身者になることで、自分の存在意義と使命を達成しているという「自分の存在意義」が持てるから?

もしこれらの理由付けが俺たちの心の奥底にあるのなら俺たちは「宗教家」たちと全く同じことをしているに過ぎない。結局それらのものを使って自分の力で自信、アイデンティティー、罪悪感の解決、幸せを得ようとしているに過ぎないからだ。機能的にそれらが自分の救いとなっていることになり、それらがないと生きていけない幸せになれない、自分が形成されないと言わずとも行動で示していることになる。でも本当にクリスチャンならイエスと福音によって、生まれ変わり、神の子供とされ、罪悪感の代わりに喜びも与えられ、罪を赦され、義ですら与えられたんじゃなか?

実はパリサイ人たちですら、すべての「クリスチャン的」なことはしていた。自分たちの弟子も作り伝道し、集会を作っていた。ある時イエスはこう言っていた、「彼らは一人の弟子を作くるために海や地を超え、見つけたらもっと酷い状態にしてしまう」(マタイ23:15)と。彼らは奇跡を行い伝道をして貧しい人々を助けているつもりでも、イエスは彼らを知らないとまで言い張った。なぜだろう?ビジョンと目的に向かう行動が間違っていたのか?違う。それは彼らの動機と心が自分の利益にあり、救いは神ではなく、自分の努力と行動によって得ようとしていたからだ。

俺自身も常にこのような誘惑には気をつけなくてはけない。教会を任されている牧師の一人として、気を付けなければ「イエスの弟子」ではなく、「自分の弟子」を作ってしまうこともできてしまう。自分の自我を形成するために、教会を建てようとすることもできてしまう。自分がすごい牧師やリーダーと思われるために、または自分が理想とするグループを作るために。更には「教会のビジョンに合う弟子」ということにもなってしまう。常に俺たちが作っていかなくてはいけないのは、「イエスの弟子」あり特定の教会だけで通用するようなリーダーや牧師を育てることではないことを俺自身が思い出さなければならない。アポロの弟子やパウロの弟子でないように(1コリント1:12)。俺自身究極的には、10年後牧師でなくなろうとも、「神を愛し、人々を愛する」という神のビジョンだけは決して変わらないことを自覚し、必要であればそのビジョンの為に今ある仕事や教会をいつでも神がそうしろという時にできる状態でなければいけない。それと同時に任せれている間は、全力で自分の人生を使う覚悟も必要だ。

先ほどにも言ったように、仕事、成功、結婚、奉仕などそれらは悪いものではない。でも本当の俺たちの問題は、「神の為に良いことができているかどうか」ではなく、「良いことですら自分の神の代わりとなってしまっている」ことだ。その良い行いが機能的に自分を満たす偶像となった時、「神を第一に心を尽くして愛すること」が失われてしまう。そうなると、すべての行動が自分の心の奥底の願望やニーズ満たし、存在意義を形成するために行動し始めるので、自然に2番目の本当の意味で「人々を愛すること」もできなくなっている。友情、教会、仕えることも仕事も自分を形成するためになる。結婚も本来は「愛と自分自身を与え合う」もののはずなのに、自分の利益の為に、相手の愛を求め始めてしまう。そうなると神が定めた本来の結婚するも目的も履き違え、相手に間違った自分の願望を求め始め、間違った理由でパートナーを判断してしまう。「神を第一に愛する」がずれてしまうことで、すべてがズレて行くのは分かってもらえただろうか?

じゃなぜ俺たち人間はそう簡単にズレて行ってしまうのか?
どうしたらこの連鎖を止められるのか?

それは今も昔もモーゼの時代も同じ解決法しかない。
先ほども書いたが、「神がしたことを思い出す」ことが鍵だ。
イスラエルに神がまずしてほしかったのは、神の救いと恵みと愛に感謝することだった。
約束の地に向かう道中も安息の地に住み始めても、それだけは忘れてほしくなかった。
これと同じように、神がイエスを信じる者に求めていることは、「福音」を常に見つめ、思い出し、感動し心打たれ、そして感謝して神を愛し生きることだ。イエスが俺たちの為にしたこと、十字架の死と復活により罪が赦されたという「良い知らせ」が救いとなり、ビジョンへの道しるべだ。イエスが道であり、真実であり、そして命そのものであり、ビジョンそのものだ。
なぜなら、俺たち人間みんな、神の2つの究極な目的である「神を愛すること人々を愛すること」を達成できなかったからだ。
唯一、それを成し遂げたのは人類でたった一人、イエス・キリスト。
そのイエスを信じ頼ることで、初めて俺たちは神のビジョン達成に向かい始めることができる。その土台の上に、人生を建てるときに、本来するべき仕事も、作る人間関係も教会もコミュニティーも正しい方向に正しい基準で築き上げることができると確信する。

パリサイ人や宗教家たちの問題は、それを自分で達成できると思っていたことだ。だからイエスが来た理由も理解できず、毎日聖書を読んでいながらも、律法を研究しながらも、神のビジョンに従っていると自覚しながらも、実は神の本当の計画が分からなかった。

イエスは面白いことに彼らにこう言った、「お前たちは永遠の命を求め聖書を調べているが、聖書は私について証しているいるのだ。でもお前たちは命を得るために、私のもとに来ようともしない。」(ヨハネ5:39-40)

同じように俺たちの致命的な問題は、永遠の命、幸せ、成功、満たし、愛を求めてクリスチャンになり、聖書を読んで頑張るが、一番大切なイエスを置いてきてしまうことだ。イエスは真実を見せるために来たのではない、神への道を教えに来たのではない、ただ幸せと人生をあたえにきたのではない。イエスはそんな、宗教の先生だけという存在ではない。イエス自身が、真理であり、道でありそして命だということを忘れないでほしい。俺たちにとってイエス単なる良い先生になってしまった時、ビジョンを「自分で達成できる」という自負に変わってしまう。そして表面ではイエスを信じ救いを受けた思い振る舞っていても、心では自分の力で聖書の言っていることを忠実に守ることで、「良いクリスチャン」になろうとしているなら、それは単なる宗教に逆戻りになる。そして守れていない時は罪悪感を感じて落ち込み、守れているときは高飛車になり他を見下すような、献身度も感情的にもUPとDOWNが激しいクリスチャンにしかならないだろう。

今年の初めにイエスを、福音を思い出してほしい。
そして、すべての自分がすること、仕事も人間関係も奉仕も、「神を愛すること、人々を愛すること」に繋がっているかどうか確かめてほしい。

その上で、することすべてが祝福される2015年になるように祈っている!
今年もよろしく!
ではまた。


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