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2014年10月24日 (金)

自分自身の価値

お久しぶりです。
教会も新しい場所に移ることができ、やっと落ち着き、またブログを書ける時間が取れました。今回は比較的短いです(笑)

今回はマタイ10:39・マルコ8:35をもとに、最近考えていることや教会のメッセージの中心となっていることをシェアしたいと思う。

聖書では、人間はこの世の中の何から「自分の価値」をもらい、その上に自分の存在意義やアイデンティティーを作って生きていると示している。
前のブログでも書いたが、それを創造主である神以外から受け取ることは、偶像礼拝と言い、結果的に真の神ではなく、それらを心で崇拝し生きていることになる。これは「私はイエスを信じています」と言いながらも、もし自分の絶対的な信頼や信仰がイエスになく、「今ある仕事」、「持っているお金の金額」、「自分のイメージや名声」、「美貌やスタイル」、または「結婚相手や恋人」や「家族」などが心底の自分の頼みと頼りであるならば、それらが自分の実質的な「神」となるということだ。それは自分で気づいてなくとも、自分の奥底の願望によってそうなってしまっている。究極的に言うと、信仰=「はい。信じます」だけではなく、「はい。本当にすべてにおいて神様あなたを信頼し頼ります」になる。それがクリスチャンとして生きることであり、神様と関係だ。

結局、罪とは「悪いことした」=罪なのではなく、良いものでも悪いものでも真の神の代わりにしてしまうこと自体が罪の性質であり根源になる。

でももっと問題なのが、この問題に対して俺たちの力では何もできないということだ。聖書では、人間は神から心も霊的にも遠く離れてしまったがために、「誰も本当に心底から神を求めるものはいない」(ローマ3:10-12)と断言している。なので、例えばある宗教家が神を求めているように見えても、結局自分の「価値」を高めるためになってしまう。「私は神を求める聖人だ」となり、そうでない人と比べたり見下し始める。また社会福祉をしている人でも、究極的には自分の為にってしまう。善を尽くしている自分、福祉をしている自分=良い人間であるとするための行動となる。裏を返せば、自分の価値を高めるためになる。これはすべての善や良い行動、ミニストリーですらそうなってしまう。逆に、マザーテレザのように本当に心からイエスに頼り、自分の価値が奉仕にではなく神にあると知るとき、すべての彼女の奉仕や福祉が真の意味で人々の為になる。結果的に彼女はカルカッタという小さな地域で忠実にしたことが世界に影響を与えた。

結局、誰もが本当の神から自分のアイデンティティーや価値観を見出していなければ、世界の何かから自分の存在意義と価値を探し求めて生きているようになる。

だからイエスはこう言った。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(マルコ8:35)

ここでの「命」という言葉は、ギリシャ語ではいくつか種類がある。よく「命」に対して使われる言葉は「ZOE」だ。この意味は、「すべての命(身体的にも霊的にも」。でもこの聖書箇所で使われる言葉は、「ZOE」ではない。ここでは、「Phycheサイキ」が使われている。これは「サイコロジー(精神やマインド)の語源だ。またその当時のギリシャの世界では、人間の「魂」や存在意義そのものという意味で使われていた。自分のアイデンティティそのものだ。

要は、イエスは何を言っているかというとこうだ。

「もしあなたが自分で自分のアイデンティティー(自分自身)を見つけようとするなら、あなたは自分を見失うだろう。でも私(イエス)と福音(神の愛と恵みのメッセージ)の為に、自分を捨てるなら、あなたは本当の自分を見つけるだろう」。

これは簡単な概念に思えるが、すごく奥深いことだ。

多くの人々は、世の中の何かしらによって「自分を形成」してるので、常にそれが人生の土台となる。
例えば、もしある人が、自分の美貌やルックスが自分の自信とアイデンティティーに繋がっているとどうなるだろう?そしてある日、もっと美人でハンサムな人が現れたら?その人の土台は一気に崩れる。自分が脅威にさらされている感覚を得るだろう。それだけではなく、その人を嫉妬するかもしれない。挙句の果て、その人よりも自分は美人・ハンサムだと競り合うかもしれない。自分の存在自体が揺るがされているのだから。

ある人にとってそれが自分の仕事スキルだったら?必ず自分の上をいく人間はいる。
ある人によって知性と知識だったら?必ず自分より頭の良い人、学歴が上の人が現れる。
ある人にとって、それがお金がどれほどあるかだったら?それももっと上がいる。
イケてる恋人?結婚相手?素晴らしい家族?家?地位?ファッションセンス?名声?

もっと突っ込もう。

あるクリスチャンにとって、自分の価値が「聖書をどれほど知っているか」にあったらどうだろう?自分より神学の知識で勝っている人に出会ったら自分の自信が揺らいでしまう。
それがワーシップリードのスキルだったら?牧会のリーダーシップだったら?
教会のサイズ、弟子の数、メッセージのうまさ、祈っている量、奉仕をしている自分そのものだったら?
その人は、それらの分野でもっと活躍している人を妬むだろう。他の成功しているミニストリーや成長している教会を脅威に思うかもしれない。自分が用いられることにやたらに拘るだろう。そしてその分野で批判をされたり、揺るがされたりしたら過剰に反応するだろう。もしかしたら他を非難し、迫害するかもしれない。パリサイ人や宗教家がそうだったように。彼らの自分自身の価値が自分の従順さと義にあったからだ。だからイエスの恵みと愛という基準に嫉妬し、それを嫌がったのだ。それを受け入れたら自分で築いてきた自分自身の価値がすべて崩れるからだ。

これは誰にでもありうることだ。そして常にその誘惑はある。
そしてその解決はイエスと福音の中でしか絶対に見つけられない。
神を唯一一番に愛し求めることは、俺たち自分自身の努力ではできないからだ。

福音とは簡単に言うとこうだ。
「俺たち人間は自分が思う以上にとてつもなく罪深くどうしようもない存在だと気づくと同時に、イエスの十字架の死と復活により、俺たちが想像できる以上に神様に圧倒的に愛され受け入れられている」ということだ。

この「良い知らせ」を心で受け入れ信じることにより、まず自分自身では自分の価値を形成できず、どうしようもなく絶望的な自分に気づき、一人ぼっちで自己中で、小さな存在だとわかる。それと同時に、こんな自分がイエスを通して神様に圧倒的に愛され、感動し泣き崩れ、そしてイエスがしてくれたことのデカさを知り感謝し大きな喜びがあふれ、自分の価値が神の中だけにあることを心から知る。

そこに自分の価値ができると、自分より美人・イケメン、優秀、高学歴でスキルがあり成功している人々と会ってもビビり臆することはなく脅威には思わず、逆に心底からその人々を尊敬できる。他と比較し他の人が何を持っているかの基準で頑張るのではなく、本当に正しい動機から神様から与えられた自分の容貌、スキルやチャンスを正しい方向へと最大限生かし始める。アドバイスや批判も謙遜的に受け入れると同時に、いざという時は人の目を気にせず、大胆に行動ができる。世の中の価値観に振り回されないので、その価値を基準とし自分を比較しなくて良いからだ。そしてやる仕事も初めて、自分の為ではなく、他人の為・世の為、そして神様の為になる。

神様という基準からズレるとすべてがズレていくが、逆に神様との一致ができることによってすべてが整い始めるのだ。そしてどんな困難や苦しみ、迫害も挫折や失敗とは考えずに、将来の益とすることができる。

なぜ俺たちは、未だに人の目や意見を怖がるのだろう?
なぜ小さなことにリアクションを取って怒り、自分を守ろうとし、人を妬み、自分と人に嘘をつき、良く見せようとし、比べ、失うことを恐れ、働き過ぎ、同時にやらなくてはならない時に怠け、鬱になり、ストレスが溜まるのだろう?
その理由はただ一つ、福音が分かっていないのだ。神様の愛や恵みのデカさがわかっていないのだ。頭で理解しても、心で福音の素晴らしさを信じ神様に頼っていないからだ。要は信じていないのだ。分かっていたら、自分を必死に作り、自分の価値を世の中で見つけようとはしないだろう。

福音を自分の人生の中心とする言うことはこういうことだ。
福音の理解がすべての人生に影響し関わってくる。
それが仕事でも、結婚でも、友情や人間関係、そして教会というコミュニティーのあり方もだ。「自分の命をイエスと福音にあって捨てる」とは、自分の存在意義・価値をすべて福音のイエスの中で手放し、すべてをその基準から生きることだ。

みんなの存在意義と自分自身の価値はどこにあるだろう?

俺の思いは日本人を始め世界中の一人ひとりが福音を心底知り、そして変えられることだ。そこからすべてが変わっていくと信じている。

ではまた!

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コメント

すごいですね。。 本当に。 最近、流されがちでした。  本当に。

投稿: | 2014年11月14日 (金) 23時06分

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