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2014年5月19日 (月)

宗教という「偽りの正しさ」

「イエスに出会う」シリーズの数か月前の礼拝でのメッセージ。

今回はイエスに出会った「宗教家」たちの場面を、再度「放蕩息子」(ルカ書15:11-32)の例え話を見ながら話していきたい。このイエスの例え話自体は、パリサイ人達に向けられて語られた話だった。この概念については今までもブログで少し触れて来たので参考にしてほしい。

一般的に、この例え話は「父親に財産をくれと言って出ていった息子」がどのように人生を無駄にして、結局悔い改めて父親のもとに戻り、父の愛と恵みによって再度受け入れられたということが中心にメッセージされると思う。実際にすごく感動する話だし、神様の愛と恵みも表現されている。

でも先ほど言ったように、この話の対象はパリサイ人だった。という事はこの話のポイントは、弟の放蕩息子ではなく、ある意味「兄貴」という事になる。なので今回は「兄」の間違いから学んでいきたい。

まず知って欲しいのは、この2人の息子の共通点だ。
弟は自分の父親の財産を得ることが動機だった。父親でなく父親が持っているものを欲しかったのだ。でも実は兄も同じだった。兄も彼もまた違った方法で、父親が持っているものを得ようとしていた。

簡単に言うと、弟は父親に逆らう方法を取り、財産を得ようとした。でも兄は父親の家のルールに従うことを通して、財産を得ようとした。考えて見てほしい。方法は違うが同じ動機だ。2人とも父親との関係を求めずに自分の欲で行動しているにすぎなかった。

でも兄の方が実は厄介なのだ。弟は白黒ハッキリしている。彼の動機は見え見えだ。「お父さん。あなたに従いたくありません。自分勝手にしたいです。だから金ください。」と言って出て行った。ある意味正直であり、ストレートな性格だ。

でも兄は違う。見た目は一見、「正しい」ように見える。ちゃんと父親のいう事を聞き、仕え、反抗もせずにずっと「良い行い」をしてきた。クリスチャンでいうと、ちゃんと教会に行き、聖書を読み、奉仕して、祈り、チャリティーにも寄付している人々だ。でもイエスはこの例え話で、弟よりも兄を非難している。その理由は、兄は「良い行い」や「従順さ」で自分のドス黒い動機を隠し、偽っていたからだ。それがパリサイ人と宗教家たちにも共通していたからだ。

兄は、弟が帰ってきた時に本当に怒った。その理由は実は「金(財産)」に関わっていたからだ。その当時、一般的には父親の財産は、父が死んだ後、長男を優先的に息子たちに分け与えられることが文化だった。この2人兄弟の場合は、財産を3等分に分けて、3分の2は兄に、そして3分の1は弟に分けられたこととなる。ここでまた考えて欲しい。弟は自分の3分の1を持って行って、使い果してしまった。もしその弟が戻ってきて、労働者ではなくまた息子として父親に受け入れられたら、将来またどこから財産を分けられるだろう?
その答えは、兄の3分の2からだ。

だからこそ兄は怒った。弟が帰って来ることが赦せなかった。自分の財産が減るからだ。それ以上に、簡単に弟を受け入れ、赦した父親が赦せなかった。そして兄は言う、「今まですべてあんたのいう事をやって来たのに!」と。イエスがここでチャレンジしているのは、俺たちが何のために「良いこと」すらしているかという事だ。率直に言うと、「すべての良いことすら間違った動機ですることができてしまう」という事だ。教会に行くこと、聖書を読むこと、奉仕をする事、祈ること、人を助けること、見た目は正しいが、本当には心は神と人々にはない。結局自分を満たすためであり、自分の存在意義を示すためであり、そして自分が欲しい物を得る手段でしかない。これを究極的に「宗教」と言う。ハッキリ言うと、兄も弟も宗教をしてきたのだ。ただ手段が違っただけだ。弟は「見え見えの罪と悪」を通して、兄は「偽りの善」を通してだ。2人とも自分の欲しい物を、自分の努力を通して救いを得る宗教をしていた。ある意味両方とも宗教家だ。この見方からすると、人類すべての人間が宗教をやっていることになる。

面白いことに、弟がすべての財産を失った時考えたことは、「お父さんの労働者(雇い人)になろう」だった。彼もまた、働くことにより父親に対して借りを返そうという考えしかできなかった。これも宗教の特徴だ。良いことを働くことを通して、神に借りを返せると思うことだ。「良いことをすれば天国に行ける」という間違った考え方だ。弟もまた父親の絶対的な恵みと愛を体験するまで本質を分からなかった。

でもここでは兄に焦点を戻そう。兄の存在の方がすごく危険だからだ。

最初の兄の特徴はまず、「自分がしてきた良いことや従順さで父親に貸しを作った」
と考えていたことだ。

要は、「俺はこれほど良いことをことをしてきたんだから、俺が祝福され優先されるのは当たり前だと」思っていた。俺たちもこんな考えをしていないだろうか?「ちゃんと教会に行っているのに。ちゃんと祈り聖書を読んでいるのに、ちゃんと奉仕しているのに」と思いクリスチャン生活を過ごす。だから祝福され何の辛いこともないのは当たり前だと思い始める。それ以上に神様は自分に対して借りがあると心の底では思っている。だから人生で傷つけられたり、他のクリスチャンや教会から不当な扱いを受けた時、または他人の方が用いられ祝福された時、不満に思いすぐに挫折してしまう。神と教会に対して怒りを覚え離れていく。結局は兄と同じく、自分の良い行いが自分の救いと存在意義になっていたに過ぎない。

次の兄の特徴は、怒りとフルストレーションだ。結局自分の力で「正しさ」を作り出しているために、他の「正しいことをしていない人々」に対して不満と怒りを持っている。「俺の方が正しい」、「俺の神学の方が正しい」、「俺の考え方や戦略のほうが正しい」と思っているため、極端に「自分に合う人々」と「合わない人々」を分けようとする。自分に合う人達または自分に同意し従う人達に対してはフレンドリーに、逆に考えやビジョンが合わない人、自分と違う人を非難し、除外する傾向にある。他の人々からの意見や反論は決して受け入れられない状態だ。自分の正しさが否定されることを極端に嫌うからだ。

更にこれから来る兄の次の特徴は、凄く「自分の自信が不安定」ということだ。「自分の正しさ」が自分の人生の土台であるために、常に他より優れていないと気が済まない。なので常に他の人々と比べる。そしてとにかく他の人の弱点やその人の罪や悪い部分を見つけ、批判に持って行き、それらを使ってコントロールしようとしたりする。できない場合は、「だからあいつはダメなんだ」と主張する。自分より劣っていると思われる人間は簡単に従ってくれるため、そのような人々中心に仲間にしようとしたり、従わせようとする。そしてまた従わない場合はグループやコミュニティーから押し出そうとする。

実はこのリストは全て、パリサイ人がしてきたことだ。

でもここで正直になろう。クリスチャンであっても、上の多くのことを自分でもして来てしまっていたことにある日気づいた。最初は「福音」と言う圧倒的な恵みと愛によって救われたにも関わらず、いつの間にか「良いことをでき始めた自分」に目が移り、徐々にそこにクリスチャンとしての自信とアイデンティティーを移し始めてしまう。頑張っている自分、成長してきた自分、聖書を理解し始めてきた自分、ミニストリーで活躍し始めている自分、それらが強くなっていくと共に、他の人はできていないと比較し始める。そして「自分の正しさ」が前に出始める。現実的に多くのクリスチャンが気づいてみたらそうなってしまったことがあるだろう。

そして悲しいことに、このような兄のようなクリスチャンたちが実際教会の牧師やリーダーとして多くいることだ。仲間になる特定の人々にはすごく友好的、そしてある反面、自分に従わない者には極端に冷たい。ある一面すごく自信を持っているかのように見え、でも極端に自信が無く、他の意見を受け入れられない。

父である神の家という教会には常に、この兄と弟が一緒にとなりの席に座っていると思う。ある人々は弟の様に圧倒的な愛と恵みを体験し、ただただ受け入れられたことを感謝して喜びに満ち溢れている。仕える時もただ神様に感謝しているからしようとし、そして自分を主張せず、他の人々を同じ愛と恵みとで接することができる。

またある人々は、兄の様にまだ父親である神様の愛と恵みを分からず、必死に「自分の正しさ」を強調し、認めてもらおうとし、それらを牧師やリーダーと言う地位から主張し、知らずにただの宗教(自分の正しさを示すだけの教会)を作り出してしまっている。

見ても分かるように、教会と言う存在は完璧じゃない。歴史を見ても、「キリスト」は多くの間違ってきたことをしてきた。ドス黒い歴史や過去もある。クリスチャンとしてのローマ帝国や様々なクリスチャンの宗教の形として、従わない人々を押し潰し、除外し、時には殺し、絶対に赦されないこともしてきた。自分たちの罪を認めず勝手な聖書の解釈によりそれらを覆い隠してきた事実もある。それは兄のような俺たち人間が作り出した宗教だからだ。これはどんな世界の宗教でも同じだろう。

「キリスト教」は決して完ぺきではない。だからこそ聖書の中にある人物像やストーリーも本当にドロドロしている。ギリシャ神話や他の宗教聖典のように人間が極端に高潔にはなっていない。これは多くの専門家が聖書の特徴として認めている部分でもある。聖書には人間の弱さと悪がそのまま記載されている。その理由は、人間の正しさではなく、神の絶対的な正しさ、救いの働きと愛と恵みを見せるためだ。人間の「達成」ではないからだ。からだ聖書では誰も神であるイエス以外はヒーローではない。

「キリスト」は間違いだらけで完璧ではない。でも「キリスト」は完璧だ。クリスチャンは完璧でないが、イエスは完璧だということ。純粋なイエス・キリストの福音に、俺たちが少しでも「自分の正しさ」によって手を加えてしまった時、それは単なる宗教と言う「キリスト教」になってしまう。

ここで俺が本当に伝えたいのは、「キリスト教」じゃない。伝えたいのは「キリスト」そのものであり、宗教と言う神に近づく方法じゃなく、神からの「福音(良い知らせ)」だ。その良い知らせは、「俺たち人間が何かを達成しました」という知らせではなく、「神が一方的に俺たちを愛し、救うためにイエス・キリストを送ってくれた」ということだ。

今牧会している教会も決して完ぺきではない。でもその完璧に向かって徐々に歩める道はある。それは決して、「イエス・キリストの福音」から、神の恵みと愛と真実から離れないという事だと思う。少しでもぶれ始めた瞬間、兄のように「自分たちの正しさ」を主張してしまうからだ。「俺たちの正しさ」ではなく、「神の正しさ(イエス・キリスト)」を示して行きたいと思う。同じく「教会の正しさ」ではなく、イエスの正しさに焦点を置かなくてはならない。もちろん、自分の教会には素晴らしい思いと情熱はあるし、メンバーたちを誇りに思う。これは多くの教会を開拓したパウロも同じ思いだったと感じる。でもパウロは、教会がどれほど素晴らしいかではなく、常にイエスと福音が素晴らしいかを何よりも強調した。その上で、教会をキリストの体として機能させることを心がけた。教会がすべての解決ではなく、イエスがすべての答えであり解決だからだ。教会はその頭であるイエスを表す場所であり、福音を思い起こさせ、それを中心に生きる人々の集りであり、イエス自身の働きになっていく存在だ。

ティム・ケラー牧師のメッセージを引用すると、本当の良い「兄」はイエス・キリストだ。自分の財産(命)を自ら諦め、出て行った兄弟たち(俺たち人間)を追いかけて地上にやって来た。そして人間たちの罪(父である神に対しての罪)を自ら背負い、十字架でそれを俺たちの代わりに払い、そして死んだ。
でもその後、死から復活し、神である父の家(天)に兄弟姉妹たちすべてを連れて戻ってきた。イエスこそこの放蕩息子の話の「本当の兄」だ。だからこの例え話の前後にある失ったコインや羊の例えとは異なり、放蕩息子の例えには結末やハッピーエンドがなかった。イエスの十字架と復活がハッピーエンドというオチだったからだ!

初心に戻ろう。聖書の根本であり、土台の「福音」に。イエス・キリストに。

ではまた。

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コメント

いつも最高なメッセージありがとうございます!
いつも、見てます!

投稿: 安部たきお | 2014年5月19日 (月) 20時09分

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