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2014年4月11日 (金)

仕事と自分の存在意義

数週間前にメッセージした内容です。

最近00+では、弟子たちや人々がどのようにイエスと出会い、神様によって変えられていったかを見ている。そこで聖書に出てくる多くの人々の中で、ペテロの出会いを見てみることにした。その様子は、ルカの福音書5章:1-11節にあるので、読んでみてほしい。

イエスに出会うまでは、ペテロはプロの漁師をしていた。代々漁師をしていた家系であり、また兄弟たちも一緒に船を所有し漁をしていた。ある日、漁から帰って来ると、イエスが彼の船の一隻を使い、浜辺にいる人々に教え始めた。教えが終わると、イエスはペテロに、「沖へ漕ぎ出して、網を張って見ろ」という。イエスの職業は大工。その大工がプロの漁師のペテロにあれこれ指図しているのだ。ペテロは皮肉的に言う、「夜通し俺たちが漁をしたのに、何も釣れなかったんですよ。でも先生が言うならやってみますけどね。」と。そしてそうしてみると、彼の漁師の歴史上ないほどに魚が釣れた。しかもあまりにも多すぎて、二隻の船でも沈んでしまうほどだった。そこでペテロは、イエスがマジで誰なのかという事に気づいて言った。「主よ。俺から離れてください。俺は罪深い人間です」と。

多くの人々は、「神様」という存在を感じる時、それは平安的なものだと良く言う。大自然の中で星を見上げたり、海を眺めたりすると、何か偉大なPEACEを感じると。もちろんその感情や感覚は嘘ではないが、聖書では多くの人々が初めて神様に会うときは大概、「恐れ」だ。モーゼが神に出会い、話している相手が神だと気づいたとき、彼は恐れた。アブラハムも重い闇の中で恐れと同時に神を感じた。それ以外の多くの聖書に出てくる人物も、神や天使に会った時の最初のリアクションは「恐れ、ひれ伏す」場合が多い。自分より圧倒的に超越した存在に出会うとき、俺たちが感じるのは平安などではない。それは圧倒的な劣等感と小ささ、そして存在の薄さだ。

なぜだ?その答えは簡単だ。俺たち人間は皆、自分の存在価値が神様以外にあるとき、必ずそれらの他の何かに自分の価値と自信を置くからだ。自分のスキル、達成、資格、容貌、知識、知恵、持っている人脈、またはお金なのどれほど多くの何かを所有しているかにも自分自身や自分の価値を置いてしまう。

でももし自分が優れていて自信を持っている分野において、少しでも自分の「上」を行っている人間に会うとき俺たちは劣等感を感じる。それは、今までの自分のコンフィデンスが揺るがされ、最悪の場合崩れるからだ。その人物により、自分の価値が否定されているように思ってしまう。誰かが自分よりももっと多くの知識を持っていた時、自分よりも美人だったとき、頭が良かったとき、もっといい仕事を持っていた時、収入が高かったとき・・・。自分の価値がそれらのものの中に会った時、俺たちは恐れる。そしてその恐れから様々な反応をする。他の人と比較し、その人を批判し、または過剰な尊敬を持ってしまったり、または憎しみやその人が自分より優れていることを否定しようとしてしまう。実はこれは俺たち人間すべての人々がどこかでしてしまっていることだ。

そしてもちろん、仕事が自分の存在意義になってしまうことも多くある。どれほどのスキルを持っているか、どれほどの成果と成功をしてきているか、それ以前にどの大学を出て、どんな有名な会社で働いて来たかを気にし、そして同時に常に自分より先を行き、優れている人々と常に出会う。その人々に会う度に、劣等感や怒り、恐れ、競争心、嫉妬に駆られるなら、それは仕事という自分のパフォーマンスが自分の存在意義とアイデンティティーになっている証拠だ。

これはペテロも同じだった。最初はイエスの事を先生(英語ではマスター)と呼んでいたが、内心「大工がプロの漁師に何言っているんだ」と思っていた。でもとてつもない奇跡とイエスがアドバイスしたことの結果を見て、本当のイエスを知る。そして恐れた。自分が小さく見えた。それ以上に汚い人間に思えた。そしてペテロはイエスを「主(英語ではロード(絶対なる主)と呼び始める。これは俺たちすべての人間にも言えることだ。本当の真実の神様に出会うとき、超越した存在を知ってしまった時、俺たちは必ず自分の存在が小さく、無くなってしまうと感じる。もしただ自分より優れている人間に会っただけで、自分の存在が揺るいでしまうなら、本当の神を目の前にした時、自分が聖なる存在とはかけ離れていて、汚く、罪深く思植えるのは当たり前だ。

でもここでスゴイことは、イエスはそんなペテロや俺たちを拒否しないことだ。同時にイエスは「お前は罪深くない」とも言わなかった。むしろ人間の罪深さを完全に把握しながらも、「ついてこい。」と言う。ここに聖書のメッセージである、福音と恵みがある。一方的に与え、そして恵みによってのみ俺たちを認め、受け入れる神。イエスに会うとき、俺たちは自分の存在価値とアイデンティティーが完全に変えられ始める。

それからイエスは、「仕事の本当の目的」をペテロに伝える。「人間を捕る漁師にしよう。」と。仕事の本当の目的は、俺たちに必要なものを満たすためではない。お金でもなく、ましてや自分の存在意義を見出すためでもない。そんなものは永遠には続かず、そして他の優れた者が現れた時、簡単に覆されてしまう。でも本当の目的は、「漁師の先にある漁」であり、「仕事の先にある「仕事(役割)」だ。「人間を捕る漁師」と同じように、「人々の為になる仕事」、それは自分以上の為であり、人々の為になることの為に働くことだ。

カンブリア宮殿などを見ている人は分かると思うが、必ずと言って良いほど、成功している企業の信念は常に、「お客様の為」、「世の中の為」、「社会のため」という人々の為と言う原則がある。利益や稼ぐことの為にやっている企業は常に潰れて行っている。それと同じように、俺たちが「自分の為に仕事をすることを止めること」ができた時、本当の「仕事」ができるようになる。他の仕事や人とも比べなくなる。成功の概念が全く変わり、仕事の動機そのものが変わる。

イエスについて行くために、ペテロが置いて言った物は、船や網だけではなかった。考えて見ると、「収穫した大量の魚」も置いて行ったのだ。あれほどの量の魚なら、築地に行けばかなり莫大の収入が入っていたはずだ(笑)。他の漁師たちも、「え?魚はどうするの?もらっちゃって良いかな?」と思ったはずだ。でも自分の仕事の先にある「仕事」、人間を捕る漁師に比べたら、そのような金銭的価値や成功は、ペテロにとって小さく見え始めていたのかもしれない。

これはアブラハムの人生でも同じだった。神は「あなたを通して他の人々が祝福するために、あなたを祝福しようと」言った。俺たちは、自分が「祝福される仕事」を選ぶのではなく、「自分が祝福となれる仕事」をするとき、本当の人生の目的に生き始めることができる。

教会やミニストリーでも同じことが言える。自分を満たして、存在意義を与えてくれるから教会に行くのではない。ましてやそのためにミニストリーするのではない。自分が祝福となれる教会に仕え、そして人々に仕えるためにミニストリーがあるのではない。仕えるのはリーダーや立場をゲットしてからではなく、それらがなくても自然に仕えるものだ。

更に言うと、自分の一番心地よくて幸せになれる町や、場所、仕事、教会を基準に選ぶのではなく、自分が一番神様に用いられ、人々の為に機能できる基準でそれらのことを選ばなければならないという事だ。リーダーになれるから、尊敬されるからなどの理由ですら基本的に間違っている。

ペテロや弟子たちはイエスについて行く中で、それらのことを自分の失敗の中から学んで言った。ペテロは常にイエスに気に入られようと、「行動や言う事」を通して、自分を良く見せようとした。ヨハネは偉くなりたいと思い、イエスに良い地位をもらえるようにお願いまでした。でも、結局彼らは失敗して、イエスを見捨てるまで、「自分の良い行い(仕事)」を通して受け入れてもらえると努力していた。イエスが見せようとしている愛や恵みのことがイエスが死に復活するまで分からなかったのだ。

特にペテロは、イエスが十字架で死んでしまう直前に、3回も否定してしまい挫折する。頑張って見栄をはり、イエスや人々に気に入られようとして来た自分がその時すべて崩れた。罪悪感と自分に失望感に襲われた。しかもイエスは死んでしまった。そんな状況からペテロは、イエスの復活によって、自分の本当の価値を見出した。「ただ一方的にイエスに受け入れられ、愛されている自分」を見つけた。「あれほど失敗し、イエスを裏切り、そしてボロボロなのに。3年前に一番最初にイエスと会った時の、罪深く汚い自分と変わらないじゃないか。」と思ったと俺は思う。でもそれでも自分を受け入れ、弟子としてくれて、そして今でも友として接してくれているイエスに自分の存在価値を置くことができたのだ。

これも俺たちも同じことだ。俺たちは、イエスの死と復活という福音を完全に理解し体験するまで、いくらあがいても分からない。福音なしでは心底変わることはできないのだから。感情的な決断や「ノリ」でクリスチャンの人生をスタートしても、必ず福音をトコトン理解しなければ本当の意味では変わらない。

それはペテロのこの出来事でハッキリと分かる。ヨハネ21章で、ペテロがイエスに出会った時と同じ出来事が起きる。イエスが復活した後、弟子たちはペテロの案で、また漁に出かけた。この日も何も釣れなかった。その時、浜辺の方から声がした、「友よ。魚は釣れたか?」。そこでイエスは同じアドバイスをする、「横の方に網を下してみろ」と。そしてまた大量の魚が釣れる。そしてその時、ヨハネが言う、「あれは主だ!」。
その瞬間、ペテロは上着を取り、腰に巻いて、真っ先に海へ飛び込み、そしてイエスのところに泳いで言った・・・。この時のペテロの行動を、最初の出会いと比べてみてほしい。真逆だ!恐れていたペテロが、神様に向かって自信を持って向かって行った。

これはペテロが愛され、受け入れられ、そしてすべての自信と存在意義がイエスにあると気づいたことの証拠だと俺は思う。そこに行くまで、ペテロは3年掛かったのだ。しかも常にイエスと一緒にいながらも・・・。

俺たちも同じだと思う。クリスチャンになっても、本当の福音のメッセージとその意味の偉大さに気づくまでは、俺たちはまだ自分の自信を神様以外のところから得ようとする。仕事、成功、パフォーマンス、持っているもの、美貌やカッコよさ、また地位や、そして牧師・リーダーと言う立場でさえも、ミニストリーでさえも自分のアイデンティティーとなってしまう。それを聖書では偶像礼拝という。イエスの福音以外のものに頼る時、俺たちはまだ自分の中で宗教をやっているのだ。自分の努力で自分を救おうとしているのだ。自分のパフォーマンスが義となってしまっている、パリサイ人や宗教家と何も変わらない。

ペテロや弟子たちの様に、決して諦めずに、何度も失敗してもイエスについて行こう。
そして自分の本当の存在意義(アイデンティティー)を見つけ、そして本当の「仕事」を見つけ、使命を全うしてほしい。

ではまた。

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