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2014年2月 4日 (火)

愛と真実

先日日曜日にシェアしたメッセージをココでは日本語で語りたいと思う。
自分がこのメッセージを作る中で感動し、同時に色々な発見をしたところでもある。
ちょっと今回は長いので、我慢してね。

ヨハネ8:1‐11
この聖書の箇所は、結構キリスト界では良く使われる聖書の箇所。
イエスの慈愛と恵みが深く示されているので、みんなが好きな聖書箇所なんだよね。
この箇所では、ある女性が不倫をしてる時に、宗教家たちによってつかまり、そしてイエスのところに連れてこられる場面。宗教家たちは、この女性の状況を利用してイエスを訴え非難する口実を作る罠だった。

この箇所で一番すごいと思ったのは、イエスが持つ神様からの知恵と態度が完璧に表れているところ。聖書では神様は、正当、正義、そして絶対に不義を行わない力強くそして全能の神と描かれている。でも同時に、神様は弱いものを助けるためにやさしく、そして魂を挫けさせることはしない愛に満ち溢れた神としても描かれている。要は愛と真実を両方完璧に持ち合わせているのだ。しかし世の中は、常にどっちか極端に傾いてしまう。ルールと規律、道徳心を守るために宗教と言う名のもとに厳しすぎてコントロールしてしまう極端さもあれば、愛を間違って捉え甘すぎて、何でも許されることを求める今の社会的な極端さもこの世の中にはある。日本でいうと、昔のスパルタ教育と現代のゆとり教育も同じかもしれない。

じゃイエスはこの箇所でどうやってこの二つを両立しているかを見ていきたい。まずイエスが宗教家たちを、どうやって正義と正しさで黙らせたかを見て行こう。

イエスは宗教家たちに、「この不倫で捕まった女をモーゼの律法では、石打の刑で殺せとあるが、どうする?」と迫られる。イエスは黙って何か地面に書き始めて無視していた。だがしつこく聞かれるのでイエスは、「誰も罪を犯したことのない者から石を投げろ」と返す。

ここでまず知ってほしいのは、モーゼの律法の内容だ。この律法では、「もし結婚している男や女が、結婚外で不倫をし性的な関係を持った場合、その現場で捕まった場合は、不倫した男女両方とも石打の刑にされる」という事だ。この当時、この刑を適用されるためには、完全な証拠が必要で、「ホテルの前で写真を取られました」程度、または「ベットに一緒に寝てました」でも証拠不十分となるぐらい難しかった。現場でその行為をしている時に2人とも捕まえる必要があったのだ。だから宗教家たちは、「現場で捕まえました」とこの箇所で強調していたのだ。でもこの時連れてこられたのは、女だけだった。「男性はどこ?」という事になる。専門家から言わせれば、これは絶対にヤラセであり、完全に仕組まれたことだという事は明確だった。ある意見では、実は相手の男性は、宗教家の一人だったという意見もある。実はイエスも一度そのことで非難している。「お前たちは姦淫を犯すなと言うが、自分たちがそれをしている」と。イエスは状況を完全に把握していた。

宗教家たちの罠の計画はかなり巧妙に計画されたものだった。ここでもしイエスが、「じゃ石打の刑を実行しなさい」と言えば、宗教家たちは、「あ~。あれほど愛と恵みのメッセージをしてきた奴が、ひどいな~。嘘だったじゃん?」と非難できる。しかも勝手に石打の刑を実行すれば、その当時もローマの法律に引っかかり、人殺しとして罰せられる。

逆に、もしイエスが、「ちょっとまて、そんなに厳しくしないで赦してやりなさい」と言えば、「そら見ろ。律法を成就しに来たと言っていた奴が、実は破っているじゃないか。嘘つきめ」と非難される。宗教家たちにとってはこれはマスタープランであり、「今度こそイエスを捕まえられる!」と思ったのだ。でも彼らは、神自身そのものと言う存在を相手にしているとは思わなかっただろう。

ここでイエスが返した「罪を犯したことがない者から…」の言葉の裏には、宗教家に対するダイレクトメッセージがあったと思う。イエスは、「お前たちが何をやっているか知っている…。私が律法を破っていると非難するつもりだろうが、お前たち自身がその律法を破り、そして不倫の相手もお前たちの中にいる。この中で一番この刑をする権利がない者たちはお前たちだ。」というメッセージだった。

ここでイエスは地面に何か書いていたとあるが、実際に何を書いていたかは神学的にも完全には明確に出来ない。でもヒントはある。
エレミヤ書ではこう書かれている。

エレミヤ17:13 またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、あなたを離れる者は土に名をしるされます。それは生ける水の源である主を捨てたからです。

英語の訳では、同じDUST(土)に書かれるという表現だ。これは「命の書に名前が書かれる」とは真逆の概念だ。

この箇所から見ると、もしかしたらイエスは宗教家たちの名前を書いていた可能性もある。これは個人的な意見だが、その女性が不倫をしてきた相手の名前から書かれていたのかもしれない。しかもその現場にいた宗教家たちの中に混ざっていた可能性もある。そして「年齢が上のものからその場を去っていった」とある。罪を多くして来た者からだ。たぶん宗教家たちは、エレミヤ書の内容も知っていた可能性もある。そして自分の名前が書かれていることも見たかもしれない。イエスのダイレクトに心に突き刺さるメッセージだ。しかも無言で。

更に、実はこの日は安息日の朝だった。前の章を見ると祭りがあり、ちょうどこの日は祭りの終りの日。それは一般的に安息日(仕事をしてはいけない日)だった。どういう事かと言うと、宗教家たちが決めた過激なルールでは、安息日には「土」を意図的に動かすことすら「働く行動」と見なされて罰せられる規律を作っていた。イエスはそれを知りながら堂々と地面の土に何かを書いたのだ。「イエス様、すげ~」と俺は思った。正しいことへの絶対なる自信と信念があっての行動だ。

話を戻すが、こうしてイエスは宗教家たちを追い払ってしまった。海外ドラマの「LAW&ORDER]でいうとケースクローズドだ。しかも一言でケースを解決してしまった。
そしてイエスは取り残された女性に語り掛ける。

イエスは、その不倫した女性に聞く。「あなたを責める者たちはいないのか?」と。
ここで分かって欲しいことは、イエスは一度もこの女性が罪を犯さなかった、または罪に定められてないとは言わなかったことだ。イエスはこの女性が不倫したことは事実だと知っていた。そしてイエスだけが、一度も律法を破らず、罰することができる権利を持った人だった。

ここで想像してほしい。女性は、最後の祭りの晩に捕まり、たぶん次の朝まで監禁されていた。そして一晩中とてつもなく不安だっただろう。明日殺されるかもしれない。それだけではなく、皆の前で恥をかく。皆に笑われ非難の的となる。宗教家たちはいなくなったが、唯一その場に残っている、イエスがどういう行動と決断を取るかまだわからない。そして不安はまだあっただろう。

そのような気持ちの中、イエスは目を見て聞く。「非難する者はいないのか?」と。
「いません。」 これは彼女自身に取って重要な答えだった。
結局、これは宗教家たちとの問題ではなく、自分と神様の問題だった。
他の非難する人たちはいなくなったが、「自分自身はどう思う?」という質問だったと思える。自分を責め続けるのか?そしてこの目の前のイエスは?

そしてイエスは一言いう、「なら私もあなたを責めることはしない。でも罪を犯す人生を生きてはいけない」。

ここでまた分かって欲しいのは、正当な裁きをするなら、「彼女は罪を犯し罰せられる」はずだった。非難する人たちがいなくなっても、罪に定められていることには変わりがないからだ。でもここでイエスが言ったのはただ「罪が無くなった」という事ではない。唯一イエスが、この言葉を彼女に言えたのは、イエス自身がこれから「人類の為に十字架で罪を背負う」ことをしようとしていたからだ。イエスが彼女が罰せられる立場に代わりとなって立ち、彼女が石打にされるのではなくイエスが、そして彼女が殺されるのではなくイエスが身代わりとなって殺される覚悟と使命があったからだ。だからイエスは、「私もあなたを責めない」と断言できた。

ここで重要なのは、「私もあなたを責めない」を先に言ったことだ。ここにキリストの中核の福音がある。「罪を犯さなくなったら、責められない」なのではなく。先に「もう責めない」、だから心を入れ替えて感謝と恵みにより、「罪を犯さない人生」を生きるという事だ。

何かをしたから、赦しを受け取るのではなく。先に一方的に恵みと愛と赦しを受け取ったのだから、心から喜びそして感謝と愛の動機から、正しい生き方を生きるという事だ。

もしこれが逆ならば、宗教と何も変わらない。自分の努力と力で自分を救うことになってしまう。福音の神髄は、ルールをただ守って救われる(宗教)ことでもなく、また逆に「何でもあり」の自由放漫で自分勝手に生きて良いと言うものでもない(今日の社会)。全く別のものであり、どっちかでもない。神が与える正しさと真実の唯一の道であり、「愛と真実」を両方俺たちに与えてくれるものだ。

イエスは、自分たちに罪がないと考えていた宗教家たちには彼らの罪を定めて明らかにした。逆に罪があり、辱められそして弱く、自分の罪を認める者には、赦しと希望と平安をくれる。正義と真実に忠実であり、同時に愛とやさしさを持っているのが本当の神だ。

福音のメッセージは、良い人生を送るために、ただ「TRY HARDER(もっと頑張れ)」ではない。むしろ、「TRY HARDER」から休んで休息を与えるとイエスは言う。もちろん人生で努力は必要だ。でも俺たち人間が本質的に必要な、「絶対的な愛」、「喜び」、「幸せ」、「希望」、「平安」などは努力じゃ得られない。それだけは、イエスの福音(良い知らせ)だけにしかない。

宗教というものは、「自分の努力」を中心に考えるため、自分たちと他の「努力しない」、「悟っていない」、「彼らのルールに従わない」と言う人たちを区別しランクづけようとする。聖書のパリサイ人や宗教家たちもそうだった。彼らの「宗教」は他の人たちをコントロールする手段であり、「自分たちが他より優れている」という事を証明するツールでしかなかった。「お前たちは真実を知らない。俺たちが正しい」と言いながら・・・。「自分たちが作り上げた正しさ」と「ルールを守る頑張り度合い」によって人を差別し、純粋に神に近づこうとした人たちを追い出していた。

イエスはこのような宗教に対して、本当に厳しい態度をとった。そしてイエスはその当時の宗教にも嫌われた。「愛と真実」をダイレクトに見せ、そして語ったからだ。宗教嫌いな人にとってイエスはすばらしい模範かもしれない。

クリスチャンになる前も、今もそうだが俺は「宗教」が嫌いだ。でも「宗教嫌い」=本当の神様を否定することにはならない。そして聖書は本当の神様を描いている。だからこそイエスを信じたいと17年前に決めた。

俺たちも「愛と真実」両方を、まわりの人間関係、そして人生で実践できるようになろう。

ではまた。

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