« 出会い | トップページ | 本当の自由 »

2013年11月18日 (月)

福音

基本に戻る。

これはどんな事でも常に大切な事だ。

スポーツでもビジネスでも、また人生のどんな分野でも、常に基本に戻り見つめ直すことは間違った方向性に向かわないためにも必要不可欠だ。スポーツでも基本をしっかり学び、身につけた上で技術を身につけないと、後で成長を止めてしまったり、また最悪のケース大きなケガにもつながってしまう。

それはクリスチャンとしてまた教会としても例外ではない。聖書の中でイエスやパウロが言ったようにしっかりとした土台の上に建てなければいけない。

そして教会開拓をする中で、まさしくその「基本」を見つめ直している。

じゃ、クリスチャンにとって基本とは何だろう?それはもちろん、「福音」でありイエス・キリストの存在と彼が人類のためにした事だ。でも教会の歴史的背景を見ても分かると思うが、常に教会はこの基本である「正しい福音」を守るためにずっと戦ってきた。ある教会はその軸からずれてしまったがために、ルール化したり律法主義的(ルールや決まったシステムに従い自分の力で救われようとする考え)になったり、ある時はその逆に偏り、無法主義(もう神様に赦され愛されているが故に、何でもありという考え)になってしまった教会もある。

この問題は今の時代でも常にある事だ。

でも「福音」とはただこの中間のバランスが取れているという単純なものではない。ハッキリ言うとこの世界で唯一でオンリーワンのメッセージであり、他のすべての宗教と全く異なる「違い」と概念を持つものだ。これなくしてはクリスチャンのメッセージは単なる宗教になってしまう。

今自分自身はもちろん、教会としても再確認しているのは、本来の「福音」を見つめ直す事だ。じゃ、福音とは?それを今回は書いていきたい。

福音とは英語で言うとGOSPEL(ゴスペル)となるが、これは日本人が一般的に考えるブラックゴスペルなどの音楽のスタイルの事ではない。聖書の元の言葉であるヘブル語やギリシャ語でみると、「福音」は単純に「良い知らせ」(GOOD NEWS)という意味だ。だが現代人にとっては、「良い知らせ」と聞いてもあまりピンとこないし、「何の良い知らせ?」という反応になるだろう。実はこの聖書での「良い知らせ」は、当時よく軍隊の戦いなどで、王様や将軍に「戦いの勝利」の報告をするときにメッセンジャーが持ってくる「良い知らせ」として使われていた。ようは単純に「良い知らせ(報告)」とは、「既に起こった、または完了した良い出来事」に関する報告(NEWS)だと言える。

この場合、聖書で言うイエスキリストの良い知らせとは、ヨハネ3:16を始め、1コリント15:1-4、またローマ3章~6章などにあるように、「人類と神様との関係が人間の罪によって壊れ、世界のシステムそのものが崩れしまっていたが、神の子イエス・キリストが人間の罪を背負い十字架で死に、また3日後に死から蘇った事により、人類の罪は取り除かれた。それを信じて神様に立ち返る者は、神様との関係を取り戻し、新しく人生をスタートをでき、永遠の命を受け取る。」というものだ。

ここで注目して欲しいのは、神様と人間の和解のために必要な事は「既に」起こり解決しているという事だ。過去形である。「福音」とは、この神様自身が自ら人間のためにしてくれた事に関する、「良い報告」なのだ。実はこの「既に」という事に、すべての宗教との違いがある。キリスト以外のすべての宗教の教えることは、基本的に「アドバイス」だ。それは将来に対するこれから「やってくる」ことに関してのアドバイスであり、助言でありルールだ。戦いでも既に勝利していれば「報告」だが、助言は「これから勝利する」ためのものだ。

「こういう風に生きれば救われる」、「良い事を行えば天国に行ける」、「神様に対して何かすれば祝福してもらえる」。結局それらは「HOW TO」でしかない。ここで人々がそれらの「HOW TO」を信じ行おうとしても、結局その動機や原動力は「恐れ」でしかない。しかも「自分がすること」なので、結局自分中心の考えになり、自己中と何の変わりもない。すべて自分に掛かっている。そこから自分が他の人とどう違うか、より神聖か、ルールを守っているか、またはリーダーシップと影響力がということに焦点が行き始める。結局、負けないため、勝利するための「HOW TO」でしかない。でも聖書の概念は、既に「勝利」しているのが基本だ。 

「福音」はその宗教という性質とは全く異なる。すべては俺たちが何かする前に、神様自身が「完了」した、良い知らせ。その知らせを聞いた時、俺たちの反応によって人生と生き方が左右される。そしてその神様がしてくれた事が本当だと受け入れ、信じたとき、それは「信仰」となる。ここでユニークなのは、そこから人生を生きる原動力は、「恐れ」ではなく、「感謝」になることであり、その無条件の愛にこたえようとする「愛」だということだ。なぜなら圧倒的な恵みによって救われたため、自分が行った事ではなく完全に神様がしてくれた事が故、「自分中心」ではなくなる。また良い事を使用とする時、何かを得るためにするのではなく、何かを捧げたいからし始める。

もうちょっと簡単に俺なりの言葉で説明するとこんな感じ。

例えば、うちの奥さんと喧嘩してしまい、お互いに雰囲気が悪くなった。自分が一方的に悪いにも関わらず頑固で、なかなか謝れない。でもずっと奥さんが怒っていると思っているので、気まずく、あまりハッピーにもなれないし、家にいても不安で落ち着かない。そしてこの状況はすべてする事に影響する。一方うちの奥さんは開きなおっていて、「まー赦してやろうか」と既に思っている。でも問題はそれを俺が知らない限り、俺自身はまだ奥さんが怒っていると思い、俺自身の感情や状況は変わらない。うちの奥さんが「もう大丈夫よ。赦してあげる。」と言う事を初めて聞いたときに、嫌な状況や感情から解放され、不安もなくなり、また奥さんにも大胆に自信を持って接することができるようになる。ラブラブさも取り戻し、仕事や他の事にも良い形で集中できるようになる。

ここで重要なことは、「既に」うちの奥さんが赦してくれた事、そしてそれを言葉で伝える必要があったことだ。福音も同じだ。福音はアドバイスではない、「良い報告」なのだ。もちろん神様の「福音」は俺なんかの夫婦の解決ドラマより、ずっと壮大であり、愛があり、また奥が深い。

でも同じように、神様と俺たち人間の関係がこじれた事により、俺たち自身にずっと悪影響を及ぼしてきたのが今の世界だ。しかも人間の魂や感情がボロボロになるだけでなく、お互いの人間関係も壊れ、殺し合い、戦争を起こし、貧困と不正が広がってしまった。一方的に神様に対して罪を犯した俺たちには、いくら足掻いて良い事をしようとしても何も変わらない。根本的な神様との関係が壊れているからだ。そして聖書では、すべての人々が罪を犯したが故に善人は一人もいない、だから善い行いでは自分たちを救うことはできないと断言でしている。「HOW TO」ではこの世の中の混乱と壊れたシステムからは救われないのだ。だからこそ神様が行動を起こしイエスと十字架そして死からの復活を通して解決した。だからこそ、それは宗教というアドバイスやルールから生きる生き方でなく、「福音」という「良い知らせ」から来る、感謝と恵みと愛による生き方になる。先ほど説明したブラックゴスペルの音楽そのものでも、歌詞を見てみるととにかく「神様がしてくれたこと、そして偉大さ」という福音(ゴスペル)が中心なのだ。

でも現実的には、多くのクリスチャンまたは多くの現代の教会が、この「福音」を間違った形で捉えて、伝えてしまっている場合もある。

「神様を信じれば、祝福される、成功できる、ビジョンと夢がもらえる、世界を変えられる」、「聖書に書いてある事をを読み、原則に従えば成功できる、もっと良い仕事が与えられる、正しい彼女・彼氏ができる、結婚生活も良くなる、人間関係が良くなる」。もちろんこれらの「アドバイス」は真実であり良いものだ。でもそれらは神様との関係が修復され、正しい決断をしていく上での結果だ。でもこれ自体は完全な「福音」ではない。なぜならこれらは、あくまで俺たちがする「HOW TO」でしかないからだ。「福音」とは、俺たちがどれほど良い生き方をした結果にやってくる将来ではなく、神様が既にしてくれた事であり既に完成されている勝利だ。「HOW TO」なら他のどんな宗教でも自己啓発本でも同じ事を言っている。「福音」を単なる自己啓発にしてはならない。

でも悲しい事に、今の世の中では、「夢・ビジョンと成功に満ちた人生の生き方」が福音のすべてのようにメッセージとして語られてしまっている場合が多くある。そして最後に「その人生を生きるためにイエスを信じましょう」と付け加えるだけ。これでは単なる、どこかの「ねずみ講ビジネス」の宣伝文句でしかない。「福音」は「俺たちの生き方講座」ではないからだ。

俺たち牧師や宣教師たち、リーダーたちはしっかりとした「福音」を語らなくては行けないと感じる。誤解しないで欲しいが、もちろん実践的な「正しい生き方」も教える必要がある。正しい生き方は「福音」を本当に受けとり信じた結果、心の底からそのように行きたいと思わされ、その道を選択していくものだ。でもここで言いたいことはでもクリスチャンとしてするどんなメッセージでも、常に「福音」とイエスが中心でなくてはならないということ。

有名なクリスチャンの名言の中で、こういう言葉がある。

「福音を語りなさい。もし必要であれば言葉を使って。」

結構多くのクリスチャンが、「愛のメッセージをただ行動で示せば良い」という考えでよくこの言葉を引用するが、ある意味これは間違った考えだ。

福音はまず最初に「伝える」ものだ。「イエスがした、既に起こった出来事」を俺たちには行動でデモンストレーションする事はできない。ある戦での勝利を、メッセンジャーが将軍の元にやって来て、目の前で再現して見せる事などできない。もちろん映画化すればできるが…(笑)。それでも起こった事実に対する表現でありメッセージだ。イエスがした事はイエスだけができた事であり、その「良い知らせ」まず言葉で「伝え」なくてはならい。

もちろん、その福音に対する信仰の結果として健全で愛のある教会と言うコミュニティーを築く事は大切だ。でもここで言いたいのは、「福音」はまず伝える事だと言う事だ。ローマ書10:17であるように、信仰は聞く事から始まり、誰も福音を伝える者がいなければ、何も始まらない。いくら個人や教会がビジネスで成功しようが、愛があろうが、良い人間関係がそこにあろうが、福音なしでは単なる良い人たちがいる集まりで終わってしまう。福音はまず何よりも先に伝えなくてはならない。

これらの福音の概念は、旧約聖書でも全く同じだった。旧約聖書のモーゼの話では、エジプトから神様は「先」にイスラエルの人たちを救い出した。それから後で「十戒」とルールを人々に渡した。神様は常に、「十戒というルールを思い出せ」ではなく、「私があなた方をエジプトの奴隷から救い出したことを思い出せ」と常に言っていた。イスラエルの人々が「何か良い事」をする前に、神様は「既に」彼らを救い出していた事が重要だ。その神様の救いの計画に対して、イスラエルの人々はただ神様とモーゼに頼り信じる事しかできなかった。同じように神様は常に俺たちよりも先に、行動し事を起こしてきた。俺たち人間を思い、愛して、救うために。それと同時に神様は俺たちにその愛に答え、そして正しく生きて欲しい、それによって周りの人々にも愛を持って接して欲しいというのが神様の思いだ。

この「福音」に対して多くの人が取る反応は、「そんな救いに頼る奴は、弱い人間だけが信じることだ」と馬鹿にする場合がよくある。でも俺にしてみたら、自分の弱さや罪に向き合い認められない人間の方がよっぽど弱いと感じる。弱い人間は頑固なあまり、謝る事も感謝する事もできないと俺は思う。本当に強い人間は自分の弱さや現実も認めた上で、立ち上がり成長できる人間だ。弱い人間は謝る事も感謝する事もできないと俺は思う。そしてそれ以上に神様に既に赦され、解決していると言う事実を受け入れたとき、本当に強くなれる。そして先ほども言ったように、俺たち人間は結局、この世の中のシステムの「奴隷」であり、神様なしでは抜け出せないというのが真実であり、聖書のメッセージだ。

はじめに戻るが、俺たちはこの基本に常に立ち返らなくてはならない。いや「福音」は、ただ基本だけではない。福音はキリスト信仰の中心であり軸でなくてはいけない。

そして今考える事は、どのように分かりやすく、理解しやすく、この「福音」を日本人に伝えたら良いかという事だ。聖書の使徒行伝で、パウロが福音を伝えるために、様々な文化に対して様々なコミュニケーションの仕方を取ったように、この日本という文化にも効果的な伝え方があるはずだ。それを再発見し、日本人として日本人に伝えて行きたいと思う。宗教(HOW TO)ではなく、本当の福音を日本に建てられた教会としてしっかり伝えていく存在でありたい。

クリスチャンの人々にはもう一度、このことを見直して、再度「福音」の凄さとユニークさを実感して生きて欲しい。そしてもし、まだ神様を知らない人がこの記事を読んでいるなら、聖書という世界的ベストセラーであり歴史的な書物のメインメッセージであるこの「福音」対して自分自身どう応答するか考えて見たらどうだろうか?

ではまた!

|

« 出会い | トップページ | 本当の自由 »

コメント

まさに福音は核心でありいのちですね。イエス様が私達の罪を背負って死んで下さり、よみがえられたのですから。この素晴らしい知らせを伝え続けていきましょう。Ryutaさんファミリーと教会のために祝福を祈っています。

投稿: Nobuhiko Sakata | 2013年11月18日 (月) 23時32分

Sakataさん。コメントありがとうございます。
共にがんばりましょう。Sakataさんのミニストリーのためにも祈っています。

投稿: Ryuta | 2013年11月19日 (火) 10時27分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 出会い | トップページ | 本当の自由 »