« 突破口 | トップページ | なぜイエス・キリストなのか? Part2 »

2013年5月16日 (木)

なぜイエス・キリストなのか? Part1

俺は日本人として生まれ、18歳まで日本で暮らし、日本の文化、教育を学び、日本の社会の考え方、宗教観、価値観、思想などを人として吸収してきた。その中でも、世界の起源や歴史に興味を持ち独学で考古学の本や歴史、ある時には聖書にも興味を持ち、自分なりの「人生の答え」を探してきた。その当時、神という存在は否定しなかったが、いくら探しても何が真実かは常に漠然としていた。

18歳に初めて海外で他の文化や様々な文化の人々との関係を長期間体験するチャンスが与えられ、キリスト教という世界観も身近で見て体験した。

ここでは自分がクリスチャンになったいきさつは書かないが、クリスチャンになる際に考え、悩んだ疑問について書きたい。もし俺がクリスチャンになったきっかけに興味があるならバックナンバーを読んでみてほしい。

この疑問は俺みたいな日本人だけでなく、多くの世界中の人々がクリスチャンになるという決断をする際に、ある程度考え通らなければならない共通なことだと思う。

その疑問は、「なぜイエス・キリスト?」だ。

「何で十字架で死んで、そして復活なのか?」

なぜ神が人間の形をとり、人間の社会に住み、わざわざ道を印し、そして十字架で死に、そして復活しなければならなかったかが、俺にとって一番引っかかっていた。

そして神はなぜわざわざこんなことまでして、福音というメッセージとしたのか。

そのことをできるだけ哲学的な視点からも俺なりに説明したい。

そのためにはまず一番基本的なことを説明しなけれならない。
それは、神の存在そのものだ。

基本的にこのことに関しては、この世の中は3つのタイプの人々に分けられると俺は感じる。

1.神を知り、神と歩む人々。
2.神の存在を完全に否定し、己の存在を中心に生きる人々=一般的に無神論者。
3.神の存在は認識しているが、神の存在やどのような形で存在するかは理解できず、探し求める人々。またはただ漠然と生きている人々。

多くの日本人または世界のほとんどの人びとは、3番目の項目に入ると俺は思っている。
俺自身も昔はそうだった。

現代の人間は、まず神の存在を認めるか、否定するかを決めなくてはならない。
なぜなら、まずこの決断ですべての「生き方」とモラルや価値観が変わるからだ。
最初に、「神の存在を信じない場合」からなってしまう価値観や考え方や哲学から見てみよう。

神を信じない場合、一般的に哲学では、すべての出来事や創造物が「偶然の産物」となる。

この宇宙ができ、銀河系が機能し、太陽系の中で惑星や星たちが太陽を中心にちょうど良い間隔で回り、ちょうど地球が太陽からちょうど良い距離で、生物が存在できる環境を作り、人間が作り出されて生きている。神がいないということは、これらの事すべてが偶然となってしまう。神がいない=設計者や創造主がいないことになるからだ。そこにはただ生まれて死に、再生され滅ぼされる何の目的もない世界となるため、生きる目的もなく、ただドでかい宇宙という「機械・マシーン」の中で同じことを繰り返す存在となる。人間と動物やその他の生き物は同じく、極端に言うと道徳心の意味がなくなる。善や悪はただ人間が社会を統制するために決めた規律でしかなくなる。感情や精神は単なる情報となり、生きることが一時的な幻影なるようなものだ。

そう。神を信じないとうことは一般的にこういうことになる。
あまりにも絶望的で、空しく、生きる意味がなくなる。

俺自身は、クリスチャンでなくとも、そんなはずはないと感じていた。すべて偶然でこの宇宙の機能がそんなにうまくいくことを信じる方が、ある意味「信仰」が必要だと思った。実際、多くの科学者や技術者たちは、うまく巧妙に設計された世の中の法則を目のあたりにし、必ず設計者(神という存在)がいることを否定できなくなる場合が多い。

実はこの無神論の考え方には別の側面もある。それは神という設計者の代わりに、神のような存在をある種のエネルギーやフォースというように捉えることだ。これは仏教の特定の宗派や、ニューエイジといわれるよくスターウォーズなどで見られる世界感を指す。彼らはそのエネルギー的な存在により導かれ宇宙とすべてがうまく機能していると信じるケースがある。後にこのことは詳しく説明しよう。

とにかく、人間として生きる上で、今ここで決めなければいけないことは、まず「神という存在」を信じるかどうかだ。
クリスチャンになる前に、俺はここで信じることを決めて、この世の仕組みや神秘、そして自然界などを感じた時、神の存在を個人的に実感していた。

そしてある時イギリスで初めて聖書の「伝道者の書」というものを読んで心にガツンと来た。そこには、「神なしでの人生、哲学と考え方」が、この世で一番賢いと思われたソロモン王によって完全に描かれていたからだ。それはとてつもなく空しかった。「空しい」という言葉どうり、伝道者の書では、「すべては空の空。」で始まる。そしてそれを読み終わった時に、絶望感と同時に、神がいるといないとの人生の違いを感じ始めた。そして神を完全に認識しようと思った。

だが、神の存在を認めた後に、俺自身が次に直面した疑問はこうだった。
それは、聖書が描くように、「神は“人格・感情・思い・知性”を持つ存在なのか」、それとも先ほど言ったような、「何の人格や感情も持たない単なるエネルギーや何かしらの力という存在なのか」だ。

もし神が人格を持たない存在と信じるならば、またここで人生の価値観やすべての方向性が変わってくる。もし神がそうならば、単なる「物資的」な存在となり、俺たちの人生がどうなろうと気にかけることもなく、無神論と同じようにすべての目的がなくなる。そのエネルギーの恩恵は受けることはできるかもしれないが、生きることも死ぬこともただの自然界の起りとなる。ある仏教ではこの考えが主流なため、「輪廻転生」などの生まれ変わりの循環の中で人間や生物が存在しているとする考え方もある。日本人にはこの考え方は身近かもしれない。

だがもし神が人格、感情、精神、知性などを持っていると信じるならば、またすべての人生の視点が変わる。もし神が人間のように思い、愛や感情を持っているのならば、神は俺たち人間の生き方や、この宇宙や自然界のことを思い、目的を持ってすべてを機能させていることになる。

また人間の生きている理由もちゃんとある可能性が出てくる。人の人生は単なる偶然ではなく、何かの使命と役割を持って造られ、命を授かったとされることも考えられる。
それと共に神は、俺たち一人ひとりの最善の「生き方」を考え、どのように生きたらよいかを伝えようとし、俺たちの人生に介入してくるかもしれない。または俺たち人間と関係を持ちたいと思っている可能性も否定はできない。

一般的に人格を持つ神の存在を信じる考え方を中心に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教などの宗教と思想がある。そしてその神の提供する「生き方」を生きることで幸せになり、または救われ、死後天国に行けると考える。

俺自身もこのことを考えた。神はどのような存在なんだろうと。そこでやはり同じ答えだった。人生は決して偶然の産物なんかではないと思った。俺には日本人として、男として、今の時代に生きている何かしらの理由があると考えた。すべては「偶然」という考え方はあまりにもむごすぎ、生きる意味がなくなるからだ。絶望や希望も、未来や夢もなくなる。そんな生き方は最悪だと感じていた。

その後に考えたのが、「じゃ、どの神が本当の神?」という当たり前の疑問だ。

これには真実を理解し、自分自身で決めるにはけっこう時間がかかった。

それぞれの宗教の考え方を理解し、神をそれぞれどのようにとらえているのかを理解する必要があった。そしてそれらの宗教でどのように、神への道や神の性格などをどのように理解しているのかを知る必要があった。またその神はどのように生きるように提案し、導こうとしているかも大切な要素だった。なぜならそれらの要素で神の「性格」が分かると思ったからだ。

ここからまだ長く説明が続くので、今回はここまでで終わらせたい。

次回は、それぞれの有名な宗教の基本的な違い、考え方を説明し、何で今の結論に至ったか説明したい。

でも今日もしこれを読んでいて、神を探そうとしているなら、これらの事を思い巡らせてみても良いかもしれない。

ではまた次回に。

クリックおねがいね。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

|

« 突破口 | トップページ | なぜイエス・キリストなのか? Part2 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 突破口 | トップページ | なぜイエス・キリストなのか? Part2 »