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2008年12月18日 (木)

新しいことと古いこと

久々!
皆さん元気かな?
もうすぐ2008年も終わる・・・!

今日はうちのJLHの色々なスタイルに関しての心構えを話したいと思う。

鍵となる聖書の言葉は,

マタイ 9:17 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

JLHの牧師をやっているとたまに他の教会のクリスチャンから聞かれることがある。

“この教会は日本人の教会ではないですね”というのである。

“え?何でですか?”と聞くと。

“外人も多いし、音楽やスタイルも日本の教会とは違います”という。

“じゃ、日本の教会はどういう教会なのですか?”と聞く。

そうすると、“静かで、かしこまっていて、礼儀正しい雰囲気です”と言うのである。

それを聞くと俺はいつも悲しくなる。

“静かでかしこまっていて伝統的な教会”が当たり前のように、それがあたかも唯一神様に、そして日本人に合うスタイルのように多くのクリスチャンが思っているからだ。

その今の“日本の教会”のスタイルですら数十年前、もしくは数百年前は新しいスタイルだった時代があった。ある時代には、賛美に楽器を使うのでさえタブーとされていた時代もある。

だがいずれピアノが受け入れられ、ギターが受け入れられ、ドラムが受け入れられていった。

そう時代と共に変化していくのである。あるクリスチャンは、スタイル自体に善悪を付ける者もいる、ましてや音楽のスタイルも例外でもない。音楽スタイルそのものには善悪はない。音楽やメロディーに加わる人の心や思い、そして言葉(歌詞)がその音楽の性質を善悪に変える。ナイフを人を殺すのに使うこともできれば、食事に使うこともできる。結局は自分の好き嫌い善悪を付け正当化しているだけだ。

聖書の箇所に戻るが、ワインは聖書では収穫(人が救われ実を出すこと)や神様の祝福を意味する。皮袋は外側の部分ようはコンテナだ。コンテナは中身を保ち守るためのもの。それは教会のスタイルなど外見を意味すると思う。中身のワイン(救われた人々)は外側と共に熟して古くなり成長していく。ワインは熟せばうまいワインになる。ようは成熟していく。

ジーザスが言っている、”新しいワイン(収穫・次世代)を古い皮袋(古い伝統やスタイル)に入れるな”と。別に、古い教会や年を重ねたクリスチャンたちの間に入れるなと言っているのではない。伝統や古い外見(スタイル)を押し付けるなと言っていると思う。

古いワインは良いものだ。ワインセラーに置かれ、どんどん熟しワインがうまくなる。そしてそれはいずれ飲まれる。でも新しいワインと皮袋がなければ、ワインセラーはいずれ尽きてしまう。正直これは今の多くの日本の教会の状況かもしれない。

だからだ。俺たちは新しい世代に新しい皮袋(スタイル)を提供しなければならない。古いやり方を押し付けては、両方ともダメになるとまでジーザスは言う。

別に静かなスタイルが悪いわけではない。でもそれが“日本の教会”とイメージと唯一正しいやり方になっているのは違うだろう。今のうちの教会のやり方(スタイル)も時代と共に変化していく。いや、変化しなくてはならない。神の言葉は永遠に変わらずに。

今の多くの日本の教会が使っている賛美の曲のほとんどが数十年変わっていないということを知っているだろうか?これは世界中の教会でも言えることだ。この現実は、今の多くの教会の状態を表している。どこかでその時代の皮袋に依存してしまっている。その時代のクリスチャン達が先へ進めずに、新しいことに心を開けずに。

10年ー20年後、俺はそんなクリスチャンになりたくない。

俺も完全に若くはない。30歳を越えれば若者にとっては“年を取った人間”である。

でも俺は10年前のやり方や好みを若者には押し付けたくない。                いや、彼らのスタイルを理解しそれを提供し、そして彼らの可能性を信じたい。

新しいワインは、まだ味もよくないし、熟してもいない。でも将来は素晴らしいものになる。そのためには彼らを守り、勇気付けなければならない。まだ荒削りだからと、熟していないからと拒否してはいけない。

最初のことに戻るが、俺はその質問をした人達にいつもこう言う。

“うちの教会の人々を見て見てください”と。

”日本人は何人いますか”という。

“ほとんどが日本人です”という答えが返ってくる。

そう“それが日本人の教会じゃないですか?”と俺は言う。

東京はインターナショナルな最大都市である。そこの教会は外国人がいて、英語を話す場所であってもおかしくはないだろう。なぜなら次世代がそうだからである。

これを読んでいるクリスチャンの人達に本当に言いたい。

先へ進もう。神様が用意した次の次世代へ。そして未来へ!

自分の慣れや好みによって自分を制限せず、“キリスト教(Christianity)についていくのではなく”、ジーザス自信についていこう!

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2008年12月 5日 (金)

クリスチャンになった理由 Part 5

前回からの続き・・・

聖書を開いた俺はどこから読んで良いか分からなかった。
そこでペラペラめくっているときに目に入ったのが、旧約聖書にある“伝道者の書”だ。
忍者の巻物みたいな名前だし、短いからそこから読み始めた。

 "エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう" 伝道者の書 1章から

って、こんな感じで始まる本である。
それを読んだ俺は、はっきり言って落ち込んだ。
なぜなら人生は虚しいと心でも分かっていたからだ。
人はこの世から何も持ち去ることはできない。
裸で生まれ裸で死んでいく。

3週間ぐらい何もやる気がしなかった。
俺がそんな感じでウツになっていると、俺のクリスチャンの友達リチャードに笑われた。
リチャードはこう言った、“お前は伝道者の書の本当のメッセージを分かっていないよ”と。
“じゃ本当のメッセージは何なんだ?”と俺は応えた。
“もう一度読んで見ろ。特に最後のほうを”と言われた。

そして俺はもう一度読んで見た。
そして気付いたことは、“神なしでの人生は虚しい”ということだった。
永遠に続く土台なしでは人生は虚しいと分かった。
お金、物、服、家、人でさえいずれは滅びる。永遠に続くものは神以外にない。
この聖書が言っていることに共感した俺は新約聖書も読み始めた。
なぜならすべて旧約聖書で言っていることは新約聖書を指しているからと教えてもらったからだ。

イエス・キリストのこと、キリスト教会が始まった物語、多くの奇跡。
それらすべてを読んで見た。
なぜキリストが十字架で死ななければならなかったのかが一番分からなかった。
俺たちが罪を犯したということもピンとこなかった。
罪という言葉自体がよくわからなかったのだろう。
でも罪=的をはずした人生(神様なしの自分の為だけの人生)ということが分かった。
そして一番印象を受けたのは、変わるために力が神様から与えられることだ。
人として生まれ変わり、新しく始める人生。
この前も言ったが、他の宗教は基本的に“自分で何とかしろ”だ。
でもキリスト(救世主)が言うのは“変わるためにお前を助けよう。私がお前の力となろう”だ。
最初は弱い人間だけがそうすると思っていた。
でも違った。弱いから神を信じるのではなく、自分の弱さを受け入れられる強さがあるから信じるのだと。
だからジーザスを信じるものは強い。
なぜなら自分の弱さを知り、それを受け入れ、自分を少しずつ変え、本当の自分を知り、長所を生かして生きている人達だからだ。

俺は賭けてみた。本当に変われるのならと思い。ジーザスを信じて見ようと思った。
すべては分からない。でもそこに可能性があるなら賭けて見る価値はあると思った。

ある日、俺は自分のルームメイトに俺がジーザスを信じたことを伝えた。
俺の為に毎晩祈ってくれたイタリア人の友達だ。
そこで返ってきた反応は、“おい、そんな嘘言ってると殴るぞ!”だった(笑)。
“お前祈ってたんだろう!”と俺は応えた・・・。

ひどい人間だった俺がクリスチャンになったとはとても信じられなかったらしい。

そう神様は聖書でこう言っている、“神は世の中の愚かな者を選び、自分が賢いと思っている者達を見下すと”。

俺は本当に変わり始めた。信じられないほど変わり始めた。
俺の力ではなくジーザスの力で。
ジーザスに関して分からなかったことも分かり始めた。
ジーザスが十字架で死んだ理由は、俺たちに神様への道を示すため。
神だった存在が、人間という形で地上で行き、神自信が神さまへの道を開き、神と人との間にあった壁(罪=神を無視する人生と思い)を自分が十字架で背負うことによって取り除いた。
それを信じる者は救われる(永遠の命と天国へ行く保障)を与えられる。

最初はあまりにもおとぎ話のようだった。
でも思った、“奇跡を信じて見ても良いかも”って。
奇跡や夢、そして希望を信じられない人間にはなりたくない。
世の中が作り出し“現実”と呼んでいる現実ですら“本当の現実”ではないと思う。
人の見栄や意見、自分勝手さや文化から生まれたものが多い。それが必ずしも良いものとは限らない。
だったら俺は“神の現実”を信じたいと思った。
多くの人々の人生を変えてきた聖書という神の言葉で・・・



これからのストーリーはまた機会があったら話しましょう。


これを読んでいた人達で、まだジーザスを信じていない人がいるなら、是非信じて欲しい。
本当の自分と世の中のあり方を知って欲しい。
本当のすばらしい人間関係を築いて欲しい。

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