2015年7月15日 (水)

ブログサイトの移動

今回より、ブログページの移動をしました。
広告や宣伝がないサイトになりますので、より見やすく読みやすいかと思います。
引き続きサポート何卒よろしくお願いいたします!

http://evangeliumjpn.wixsite.com/gospelinjapan

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2015年7月 3日 (金)

人間の成長と変化 part 3

前回に引き続き、クリスチャンとしての成長についてもうちょっと踏み込んでいきたいと思います。

前回はガラテア 5:22‐23にある「聖霊の実」について話しました。それが9のつの違った種類の実があるのではなく、1つの実にすべて9つ要素が入っているということ、結果的に一つの要素だけ成長させたりはできず、すべて一緒に成長させているのが本物ということ。また世の中のシステムで、別の形で似た要素を生み出せてしまうこともにも触れました。

今回は、一つひとつが本来どういう品性なのか、そしてそれに対して世の中や宗教が作り出している、偽物や反発する要素を見ていきたいと思います。今回はティム・ケラー先生のガラテアや他の神学者たちのコメンタリーを元にしています。

まずは「愛」。
これはギリシャ語では、あの有名な「アガぺ」です。この愛は、愛を与える人から「与え返してもらえる」から好意をもつのではなく、ただその人に為に、その人の利益の為に自分を捨て、その人に仕えることです。この愛の反対は、「恐れ」であり、その恐れによって自己防衛に入ります。自分を守るためや自分の利益の為に他人を結果的に利用します。
この愛の代理(偽物)となってしまっている世の中や宗教で機能しているものは、「自己中心的な愛情」です。この偽物の愛で機能している場合、その相手が自分に尽くしてくれたり、良く思っていてくれたり、人生で利点や得るものがあるから、その人を好きになるということをします。ある意味、「利益」がなくなった途端、関係を切り、冷たくなります。

喜び(カーラ)
これは、神様の存在の素晴らしさと美しさを見つめ、その存在がただ嬉しく喜ばしいために受け取る品性です。この喜びの反対は「絶望」であり、喜ばしい存在が何もない状態です。
この偽物は、「祝福を体験した時だけに上機嫌になる」ことです。要は祝福をあたえる神そのものの存在を喜ぶのではなく、祝福そのもの自体を喜んでいることです。創造主ではなく、創造主が与えるものを喜びとしてしまうことです。

平安(アイリーン)
これは、神様の絶対なる知恵と支配に自信を持ち、そこに安息(rest)を見つけることです。結果的に自分で自分の人生をコントロールしなくてはという不安はなくなります。要はこの逆は、心配と不安です。本物の平安の偽物となってしまう代わりは、「気にしない」、「無視」、「興味を示さない」ということです。そうすることにより一時的にストレスを軽減できるからです。思い出してください。9のつすべてが一緒に機能しているのが本物です。

例えば、ある苦手な人に対して、自分に一時的な平安を持たせるために「気にしない」や「無視」という方法を用いているなら、自分の内に本物の「愛」も「平安」もないということです。なぜなら本当の愛は、相手を心底 「気にかける」からです。

イエスは「他人をラカ(バカ)と言う者は、地獄に行く危険がある」と言いましたが、実はこの「ラカ」は、「価値がない」という意味で、その人を無視することで、「その人にはもう価値がない」としていることなのです。結果的に聖書では、無視(無関心)=人殺しです。心でその人を殺しているわけです。そんなのは平安どころじゃないです。悪そのものです。喧嘩している夫婦はまだ希望があります。また気にかけているからです。無関心な関係はほぼ絶望的です。

忍耐強さ(マクロスーミア)
これは、困難な状況や苦しみに、パ二くったり、投げ出さずに落ち着いて向き合える品性です。この品性に対照的な感情は、神や周りの人に対して怒ったりイライラすることです。結局、神や人のせいにしているからです。この偽物は、「皮肉的になる」ことであり、今向き合っている問題を小さく見ようとし、「気に欠けるのに値しない」という態度を取ることにより、「忍耐強い」というハッタリを装うとします。でも結局は問題から逃げていることになります。

優しさ(クレストテス)
これは、自分の自己防衛システムを解除し、傷つけられる状態でありながらも、相手の為に「実践的に仕える」ということです。これは、自分の存在意義に対する揺るがない自信と安定からのみできることです。この反対となる要素は、「嫉妬」です。相手が祝福されたとき、喜べないことです。「私に同じ祝福がないなら、アイツもそれを持つべきじゃない」という感情であり、ハッキリ言うと「心の暴力」です。
この「優しさ」の偽物は、「巧みな慈善行為」です。相手に仕えることにより、自分が良い人間だと思われ称賛されるため、自分でそう思うためにする行動です。そして神や人に対して、自分には十分な価値があるんだと自分に思い込ませるためにそれをします。

誠実さ(アガソスーネ)

常に誰にもどこでも、「同じ自分」でいるということです。要は本当の自分に対して忠実であることです。もちろんこの逆は、八方美人であり、偽物は偽善を装う偽善者です。でも気を付けてほしいのは、常に自分の意見や真実を誰にでもどこでも愛なしに言うことではありません。言いたいことを言ってストレスを発散させるためや、自分を良く見せるための「誠実さ」ではないのです。ただ恵みにあって、救われている自分をしっかり持っている為、正直であり、裁かず、自分を無理に良く見せたり作ろうとしないということです。

忠実さ(ピスティス)
忠誠心と勇気です。完全に自分の言動が一致していることです。
この反対は、チャンスがある時だけ行動を起こすような人です。良い状況の時だけ、友達でいる人たちです。忠実さの代わりとなってしまう偽物は、「真実のない愛」です。ただいつも優しくフレンドリーに振る舞い、真実や本当のことを言わない状態です。このような人は、他人の過ちに対して何も言わずに、人間関係での問題を避けようとします。
また思い出して下さい。本当の愛、優しさ、忍耐強さ、さらに誠実さが機能しているなら、愛をもって真実を相手に伝えられるということです。

柔和(プラウトス)、英語ではGentleness
これは、謙遜になることであり、「自分を忘れる」を忘れるということです。相手を優先させることです。この反対は、「優越感」と「自己吸収」です。自分が他により優れていると思い、見下します。この偽物またはフェイクver.は、自分が劣っているという間違った謙遜の取り方です。謙遜であり同時に神にあって絶対な自信を持つことが、真のジェントルマンという男、また気品あふれた謙遜で自身のある女性ということです。

自制(エグクラテイア)
これは、目の前の「緊急的」なことよりも、揺るがない優先順位をしっかり持ってそれに沿って生きれることです。衝動的、自制が聞かない状態ではないです。自制できない人は、優先順位がコロコロかわります。ある時は教会に来たり、急に来なくなったりという状況です。安定性がない人生です。

この偽物が結構面白いです。それはプライドから来る「意志の力」です。他人や自分の人生をコントロールしようとする衝動が原理で、自制しようというものです。またまた思い出してみてください。本当の自制は、謙遜も兼ね備えているので、人に勝ろうとする意志から来る自制ではないのです。


どうでしょう? 自分は聖霊の実によって生きていると思いますか?
正直これらを見つめなおした時の、自分の最初の反応は、「全然だめじゃん!」って感じでした。

自分の人生の様々な分野で、「偽物」を駆使して、ただ自分のクリスチャンという宗教を生きているに過ぎないかもと思いました。でも、それが自然な反応かと思います。自分が「できている」と思ったらそれはできていない証拠です。

更に今まで経験してきた多くの人間関係や教会での人生ですらそうだと感じたこともあります。「恐れ」によって従わせ機能する教会システム。神の愛を宣言し礼拝で歌っていながら、自分に合わない、従わない、出ていく人々には、「無視」、「無関心」、「絶交」などもするような極端に間違った愛の理解。他人に対しての優越感と、人に勝とうとする「やる気」を利用しビジョンを奮い立たせようとする弟子訓練や生き方。「神から祝福があるから」と言い、それを受け取り表面だけで装おうことで「喜び」を作ろうとする雰囲気づくりと生き方。自分は他より良いことをしている、リーダーシップを持っているんだというプライドから来る自制心。「自分が認められる」から忠実に「忠実」になろうとする仕え方。

見て分かるように、やろうと思えば、表面はキリスト教であり聖書的に見え、聖書箇所を使って説教しながら、中身は福音から遠く離れた、「偽物」の教会や自分自身の信仰ですら作ることもできてしまうということです。結局、福音を他のものですり替えた、Counterfeit God(偽の神)を崇める宗教になってしまう危険性は、誰にでも、そしてどんな教会にもあります。

鍵は、まずそれに気づくことです。そしてこの聖霊の実ですら、イエスなしでは絶対に生み出せないということに気づくことです。上で書いたクオリーティーをすべてを持ち、ただ神を愛し、自分の利益の為でなく、俺たち人間の利益の為に生きてくれた唯一の存在はイエスだけだからです。Part1に戻りますが、その「健康さ」を俺たちに常に与え成長させてくれるのは、「福音」という種であり、神の国の知らせでありであり、神の文化であり、システムであり、原則でだけです。

また言います。
「イエスの福音に戻ろう。」

ではまた次回に。

ちなみに、もっと見やすいブログに移動中です、これからはこちらになりますのです。引き続きサポートよろしくです!

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2015年5月18日 (月)

人間の成長と変化 part 2

引き続き、前回からのトピックです。

今回は、私たちが成長し、どのような「実(Fruit)」を出すように求められているのかを見ていきます。

聖書では、その実を聖霊の実という形で、ガラテア 5:22‐23でパウロが明確に示してくれています。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23  柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」

ここで気を付けてほしいことは、ただこの9つのクオリティーを育てればよいということではないことです。日本語では、分かりにくいですがここでの「実」の言葉は、複数形ではなく、単体での言葉が使われています。英語でいうと「Fruits」ではなく「Fruit」です。要は、9つの違った種類の実があるのではなく、9つの要素が一つの実に全部一気に含まれているという意味です。

なので、実を成長させるうえで、「1つ~3つの要素だけ成長していて、あとの残りはちょっと成長してないんだよね~」、なんてことはできないということです。愛だけ成長させておいて、自制心が無いという状態は、神様の求めている実ではないということです。

別の言い方をすると、すべての9つの要素が繋ぎ合っていて連携して生み出してこそ、それぞれの本当の品性が現れるということです。これが聖書的な成長と世の中の根本的な違いになります。もちろん世の中や宗教の方法でも、これらの一つ一つの要素を持つことは可能です。でも生み出し方が違います。

例えば、世の中の「自制心(Self-Control)」はこうなります。
日本では、よく男の子に、「女々しく泣くな」とか「男は泣かない」となどと昔は言われていました。「泣かない、メソメソしない」という自制をするために、どのような動機を使っているでしょうか?それは、「女々しくならない」、「女みたいになるな」や「俺は女とはちがう」というプライドという動機や、他人を見下す思いから自制を作ろうとしていることになります。

世の中は自制を得るために、同じような原理を使います。規則正しい訓練された生活を送るためにの原動力として様々な隠れた理由があります。ビジネスで成功するためにそのようなコントロールが必要な場合は、「俺は他より仕事で勝らなくては」や「あいつに勝って昇進したい」が心の中では基本的にあるかもしれません。持てるため自制する場合は、「あの子より可愛くになるため」、「私はあの子みたいじゃない」と思い努力します。

そして宗教的な人たちも同じ動機で自制を作り出します。「私はあいつよりもモラル的に良い人間だ」、「誰よりも祈っている、聖書を読んでいる、誰よりも仕えている、私の教会は他とは違う」と自負することで、自制や努力の力が生まれています。結局、自分の価値や存在感、アイデンティティーを確立するためにやっていることになります。

世の中での「愛」、「やさしさ」、「慈愛」、「慈善」はどうでしょうか?それを与える対象の人に、気に入られたいという動機によっても表面的にすることも可能です。または、それらをしている「良い人間」の自分を作り出す為、自分の存在意義を確立することが動機にもなってしまいます。それらは本当の愛ではなく、偽物であり偽善に結果的になってしまいます。心底相手の為ではなく、自分の為という動機が奥底に隠れています。結局、このような動機が土台なら、貧しい人々を助けたりする施しの行動ですら、自分の為になってしまいます。結局、自分が「良い人間」だと感じるために彼らを利用しているにすぎません。

では聖書の言う、同時に9つの要素を生み出すとはどういうことでしょうか?
それは先ほど言ったように、すべての動機がお互いに繋り、頼り合っているということです。

例えば、自分を自制するとき、プライドが根源ではなく、愛になります。「神様に愛されている自分、犠牲を払ってまで罪人の自分を愛してくれた事実」から来ます。 自分の存在価値はイエスから既にもらっているはずなので、プライドや他人に「負けないため」という恐れや「自分の価値」を高める理由から行動する必要がなくなります。逆に。ただ与えてもらった人生を最大限に神様と人々の為に使えるように、神に受け入れられている「喜び」と感謝から自分を自制し使命を全うできるようになります。また人と比べることも、他の人より勝ろうという完璧主義的なプレッシャーもないので「平安」もあります。時間を無駄にせず、同時に明日の心配し切羽詰ることなく神様に頼りながら自制できます。更に、自分を自制するとき、自制できない人々を裁くことなく、「優しさ」と「慈愛」で見ることができます。自分も本来イエスなしではそうなると自覚しているからです。それ故、「謙遜」もしっかりあります。

慈善や慈愛の行動も、自分のためではなくなります。既に自分のアイデンティティーは神様の愛からもらっているので、存在意義を自分を形成しなくて良いからです。初めてその時、自分の為のではなく純粋に人々の為に行動できます。他の人に気に入られるために優しくなるのではなく、正しい時に「優しさ」を与え、時に厳しさと真実が必要な人には、「謙遜」を持ちながら戒めることができます。これは神様に対しても「忠実」な行動になり、まだその相手の為にという視点からも「忠実」な行動になります。自分のニーズによって動機や行動が決してブレないからです。

上の線で引いた箇所がカギだと分かるように、これらがすべて福音の要素が根源になっていることは分かると思います。要は、前回の内容のように、福音が種であり源でなければ、自然には正しい実は生まれてきません。結局、宗教的に偏った自分を作り出してしまうだけです。

ミニストリーで活躍している自分がいても傲慢になります。自制心があり成功しても優しさに欠け、すぐ人を裁き、見下す人間になります。表では愛を語り、自分を好いてくれる特定の人には慈善も善意を見せれるかもしれません。でも自分と合わない人や、違う意見も持つ人にはイライラし、また避けたり、追い出したりする行動に出るような人間になってしまいます。間違っていることが自分の目の前で行われているのに、世間の目や自分の立場や心地よさを守るために、立ち上がることができない臆病な人にもなります。それはミニストリーや組織に忠実ではあるように見えても、結局は神様の価値観に対しては忠実になっていないことです。パリサイ人という宗教家達がまさしくこんな状態だったので、イエスは彼らの種(教え)に気を付けろと言いました。

皆さんは、どのような「実」をクリスチャンの人生で生み出していますか?
正しいイエスの福音により、正しい「実」と人生の影響力を持ってほしいと願います。
これはみんな福音によって日々再確認していかなくてはいけないことです。

私たちのイエスなしでのディフォルトモード(基本設定)が宗教的なので、福音によって常に更新する必要があるからです(ローマ12:1‐2)。

神様の「実」を日本に生み出して行きましょう。

ではまた次回に。

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2015年5月14日 (木)

人間の成長と変化 part 1

数週間前の教会のメッセージの一部です。

当り前のことですが、この世の中にあるものは常に変化し変わっていきます。
良くなり成長するという変化もあれば、悪化し劣化していく変化もあります。
私たち人間も同じで、成長するかまたは劣化していくか人生ではどちらかしかありません。
変化が遅く見えても同じ状態でいることはできません。嫌でも、子供は成長し大人になり、そそして老いていきます。

聖書では、私たち人間の成長を「植物」や「農業」のプロセスに例えています。
特にマタイの福音書13章では、人間が神様にあってどうやって霊的に成長していくかがはっきりイエスによって説明されています。今日はしっかり健康的に成長していく大切な要素をいくつか見ていきます。

まず最初に、成長は絶対に必要不可欠(inevitable)だということです。植物はちゃんと土の中に埋まり、正しい環境と必要なものがあれば(太陽と水、良い土)、自然に成長するということです。成長していないのなら、死んでいるかまたは劣化(枯れて)言っているということです。

でもこの要素見ていく前に、もっと大切なことがあります。

それは「何を成長させる」かです。何の種を自分の人生に植えているかです。

クリスチャンの人生で、それは神の言葉、または「良い知らせ」という福音が種でなくてはならないと言っています。例え話の中にもありますが、厄介なことに「悪い種」や「間違った」種を撒こうとする敵も存在すると言っています。イエスは「パリサイ人の教え(種)に気を付けろ」とも言いました。ということは、まず何よりも私たちは「正しい種」である福音をしっかり自分の心に植えているかが、とてつもなく重要になります。なぜならそれが間違った種ならせっかく成長させても、間違った実が出てきてしまうからです。

リンゴの種を植えて、リンゴという実が成るのを期待していたのに、ミカンが成ってしまったといことも人生では起きてしまうということです。しかも怖いことに、実が成るまではそれが何かほとんど分からないことです。要は判断には時間がかかるということになります。種はみんな小さく、土の中にある間は何が成長しているのかわかりません。芽が出てもさほど見た目には違いはないので最初は気が付きません。クリスチャンの人生や教会自体もある意味同じです。似たような2人の人が似たような環境で、似たような態度で、似たような信仰を持っているように見えても、結果的に片方はかなりズレた宗教的な人間になり、別の方は正しい信仰と神様との歩みを成長させるという結果にもなりうると言うことです。

イエスはそれを別の形でこう言いました:
同じ2つの家があり、一つは岩の上に建てられもう一つは砂の上に建てられた。
2つのドアがあり一つは小さく正しい場所に行き、一つは大きく地獄へ続く。
2人の預言者がいて、片方は偽物、片方は本物。
2人の祈る者がいて、一人は宗教的に、もう一人は真の神に正しく祈る。
2人が「主よ、主よ」とイエスを呼ぶが、一人はイエスはその人を知らないと言い、もう一人はイエスは知っていると言う。

何をイエスがここで言おうとしているかわかると思いますが、結局自分が「何の種」を育てるかがどんなことよりも究極的に重要だということです。別の言い方をすると、福音をしっかり把握し、理解しているかが成長のカギとなります。なのでイエスはこう言って例え話の説明を始めました、「耳ある者はちゃんと聞き、そして理解しろ」と。また例え話の中でも「理解する」という言葉がカギとなっています。

ここでは、理解しない(または把握しない)=心(土)に入っていない状態を表しています。結果的に、種が道端に落ちたままなので、「鳥(悪魔)に種を持っていかれた」となってしまったり、「日が照って、焼かれてしまった」という結果もあります。興味深いのは、「太陽の光」は本来は成長するための良い要素でもあるのに、逆に成長の妨げの要素になってしまっていることです。福音を理解しているかどうかで、本来私たちのためには良いものが、悪影響になるということでもあります。それは聖書を読むという行動自体も同じです。以前のブログでも説明したように、福音を中心に読まなければ、結果的に自己啓発的に読んでしまい、自分の努力で自分を救おうとする宗教的な読み方になります。先ほどの例えと同じように、「祈る」という素晴らしい行動も結果的に宗教的になります。教会という存在も、福音の理解が間違っていたり、ズレていたりすることで、宗教的になり、下手をすればカルト的になったり、コントロールし冷たい愛がない組織になってしまいます。でも怖いのは見た目は最初は同じということです。

また種が浅く、根が張り切らないために、心配事や世の中の富(世の中の価値観)によって成長が妨げられる結果もイエスは話しています。これは福音がある程度知識的に理解していても、しっかり自分の心に根付いていないので、他の優先順位や価値観によってズレていってしまうことです。これもクリスチャンでは良くあると思います。福音を土台に成長させることよりも、人生で成功すること、ビジョンを持つこと、祝福されること、立場的に偉くなること、人気者にあって活躍することの方がクリスチャンの人生でも大切になってしまう場合があります。それらは本来悪いものではなく良いものですが、それらが本当の福音と真の神様の代わりになってしまっている状態です。

「イエスを信じれば成功する」、「教会に根付けば祝福される」、「聖書をしっかり読んで祈ればすべてうまくいく」、これらは聞こえはよいですし、悪いことではなく、むしろ良いことですが、福音(私たちの罪の為に死に復活したというにイエスが成し遂げたこと)とはかけ離れています。それらを福音という土台には絶対になりません。それらが福音であるなら偽物になります。イエスはそれらの約束はしませんでした。どんなことがあっても常に一緒にいてくれることは約束してくれました。でも必ず金銭的に祝福され、またビジネスで成功して、必ず良い結婚できるとは約束はなく、むしろ逆に困難と苦しみは必ずあるとさえ言いました。使徒行伝では、信仰の為に拷問にかけられ、投獄され、結婚もせずに殺された人も多くいました。世の中的に見れば、彼らは決して「成功」はしていません。でも殺される寸前でも喜びあふれて、とてつもない神様の使命を全うしました。もし成功や祝福が信仰をスタートする種であったのなら、それらを得られなかったときどうなるでしょうか?結局人生で失望します。下手をすれば自分を責め、良いクリスチャンでなかったと罪悪感を覚え、または他人や神様のせいにするでしょう。できたとしても謙遜は全くない人間になると思います。もしそれらの間違った福音を種として、自分を成長させているのなら何年後かには宗教的になるでしょう。

本当の福音は「イエスがしたこと」によって変わり、常に感動し心動かされ感謝しながら成長し続けるライフスタイルを生み出すものです。自分がどれほど「ウマく・頑張って」、聖書の原則に従い成功できるかという自分の努力ではないのです。

そのように間違った種を育てている自分にもある日気が付きました。そしてそれがあたかも聖書のメッセージであり、人々に伝えるべき福音だと勘違いしていました。もちろんそのように「幸せになれるよ」、「成功できるよ」、「結婚できるよ」というのは人々に受け入れてもらい易いかもしれません。クリスチャンのことを知る最初のきっかけとしては、それらの自分のニーズや癒しからでも良いかもしれません。でも本来の福音の本質を教えて、理解させていないなら、本当にクリスチャンかどうかも怪しくなってしまいます。本当に神様を心から信じて福音の真実に頼っているのかも分かりません。たぶん福音を成長させるどころか、とてつもなく世の中的なものを成長させていることになります。

前にも言ったように、福音はGOOD ADVICE(良いアドバイス)ではなくGOOD NEWS(既にイエスが成し遂げたこと)です。アドバイスは、それを受け取りこれからする自分たちの努力でどうするかに掛かってします。アドバイスなら釈迦でも、モハメドでも、自己啓発でも、会社でも、どんな宗教のリーダーたちでも沢山教えて「くれるでしょう。でも福音(既に救いを成し遂げてくれた)はイエスだけです。イエスだけが私たち人間がこなせなかった神の求める義を完璧に全うし、罪によって私たちが死ななければならなかった「死」を体験し打ち破ってくれました。自分たちがこれからすることではなく、既にイエスによって完成されたことの上にすべてが掛かっているということです。

皆さんはクリスチャンとして、何を自分の土(心・人生)に成長させていますか?福音ですか?イエスですか?それとも宗教ですか?

イエスがブドウの木で、そしてその木が成長すれば私たちが枝になります(ヨハネ15)。
そしてイエスが求める実を、福音の種から木を成長させることにより実らせることができます。そしてイエスが言ったように、福音によってイエスという木に繋がっていないのなら、私たちは何もできません。

次回は、イエスが求める「実(結果)」は何か?そしてどのようなものかを見ていきたいと思います。

福音という種を成長させよう!

ではまた。

このメッセージはここでも聞けます。
https://soundcloud.com/doubleo-cross-church/20150419-growing-and-changing

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2015年3月17日 (火)

ザ・テンション & ミッション

本当の意味でクリスチャンになると、「救われる」、そして「使命を受ける」と言うことが2つ同時に起こります。

アブラハムは、神様と出会うと同時に自分の故郷を離れて約束する地に行けと神様に言われました。「その地はどこですか?」と聞くと、「それは後で分かるよ。」という感じで。笑

ヤコブは故郷を離れると同時に、出た先で神様に出会いビジョンを見ました。

モーゼも引き寄せられて神様との出会いがあったと思ったら、エジプトに戻り自分の民を救い出せという使命を与えられました。

ダビデもイザヤも、そしてイエスの弟子たちも多くの聖書の人達は、神様と関係ができると同時に「心地良い場所 comfort zone」を離れミッションを与えられました。

もし私たちがイエスに出会い神様との関係を持っていると言いながら、神様のミッションに加わっていないなら本当の救いを分かっていないということです。この2つは切っても切り離せないからです。イエスの十字架と復活を通して、世界を救い修復し再生するという目的そのものが神様がずっと昔から実行し続けて来たミッションだからです。そして私たちはその歴史の真っ只中にいます。イエスが最初に地上に来た時から、次の再来の間に私たちは生きています。アブラハムのように「故郷」を離れていてもまだ目的地に向かっている状態です。

神様の使命がなければ、自分の為に教会に行くでしょう。自分の為だけに聖書を読んでしまうでしょう。そしていずれ、教会やメッセージに満たされなくなったら、文句を言うか、または世に中で満たしてくれるものを探していずれクリスチャンのコミュニティを捨てるでしょう。神と人々に仕えると使命がないからです。でも使命がある人は、常に健全なクリスチャンのコミュニティを見つけようとします。

神様の使命がある人は、問題を見たときにもっと良くしたい解決したいと思います。ない人はそこから逃げます。使命がある人は常に「神様の約束という目的達成という希望」と「心地良さを離れる苦しみと痛み」の両方のテンションに生きています。

そのテンションに生きる力はイエスからしかもらえません。福音のように、「圧倒的に罪深い俺たちであったのに、圧倒的な愛と恵みで救われている」というテンション。「この世の中の価値観にあっては貧しいけど、神にあって富んでいる」、「弱いけど、強い」、「ある人たちにはボロクソ文句言われているけど、ある人々は俺たちの善い行いを見て神を崇めるようになっている」、「この世に属さない外国人だけど、この世に中に住んでいる住人」。この狭間のテンションに生きるのがクリスチャンです。そしてそれはイエスの福音でしか見出せません。

もし私たちが、教会という世界だけにどっぷりハマりすぎて教会が提供するプログラムだけの人生になり、「俺たちが生きている人生(成功、結婚、ビジョン)は世の中よりマシだ」という見下した態度から伝道して、その世界観だけを強調しながら人々と関わっているのだったら、私たちはそのテンションに中にいません。逆に教会という存在はもうダメだと言い、クリスチャン達は偽善者とか言いながらクリスチャンのコミュニティから完全に離れているのなら、それも正しいテンションを生きていることにはなりません。結局両方共、自分の幸せと心地良さが中心であり、単なるプライドです。結局自分で自分の満足を作っている宗教です。

この究極的なテンションがある使命に生きて欲しいです。教会という聖書的なコミュニティにつながると同時に、社会で生きて働き様々な問題にぶち当たりながらも影響力を持つ。闇にありながら輝く光のように、食べ物に混ぜられながらも味をしっかり持つ塩のように。

本当の意味でクリスチャンの人生を生きて欲しいです。

救われて使命を生きていますか?

ではまた。



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2015年3月 3日 (火)

福音という教会の土台

前回に引き続き教会開拓の為にかなり神様に自分自身が修正させられた価値観の一つ。

日々、神様はどんな教会をこの東京で日本で建てようとしているのかを考える中、いつもこの聖書の言葉が頭に響く。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

これはイエスがはっきりと示した教会の土台となる宣言だ。

そしてこの岩とは?

その定義はそのイエスの言葉の前にペテロが宣言した、

「あなたはキリスト、生ける神の子です」(16節)にある。

別の言い方をするとこうだ。
「イエスが俺たちの救世主であり、もう既に十字架で罪を解決してくれたという事実、そしてその死から復活し今も生きている神、そして常に信じる者たちと一緒にいて関係を持てる真の神」という事実の上に教会を建てるということだ。

もっと簡単に言うと、「福音(イエスの良い知らせ)」そのものが土台だ。

要は教会は、「俺たちが今これから将来(ビジョン)に向けて神様の為に成し遂げる事の上に建てられるのではなく、イエスが既に為に成し遂げた事(福音)の上に教会が建てられなければならないという事だ。

この違いはとてつもなく大きい。

もし教会が「俺たちの何かを成し遂げようする努力」に掛かっている場合すべての基準や価値観が聖書からずれてしまう。例えば前者の場合、すべて自分たちの成果や達成が基準なので自然と教会のメッセージも「この原則に従って自分で努力し成功しろ」や「“こうしてあれをやっていれさえすれば”神様に祝福される」になる。そして結果的にそれを「できる人」と「できない人」に区別される。

逆に後者は福音という既にイエスによって成し遂げられたことが基準の場合、すべて教会の基準はただ恵みによってなので、まずみんな平等に価値ある者とされる。そして強い人は自然に弱い人を助けることができ、「できる人」は「できない人」を見下すのではなくサポートしようとする。この違いは当時のイエスと宗教家たちとの違いでも同じように表れていることが分かると思う。

別の言い方をすると「宗教(自分の努力で神に近づく) vs 福音(恵みと愛により神が人になり救ってくれた)」だ。

下の例のように、新約聖書での例だけを挙げてもその違いはこうなる。

会社・組織(ルールと制御) vs キリストの体(オーガニズム・生命体)

機械的・システム的に起こされた成長
vs 神の「真実と愛」による自然で着実な成長

排他的(スタイルやビジョン・価値観が合わないと除外)
vs 包括的(皆自分も罪人だったという自覚があるので、まず受け入れ赦し合う、本当の意味で謙遜)

偽の一致(同じユニフォーム“ただ同じ考え”を着るだけの一致 Uniformity)
vs 本当の一致 (個々に違いがあるが、それでも福音により一致 Unity)

結果と能力主義 
vs 関係的

トップダウンリーダーシップ vs 仕えるリーダーシップ

「イエスマン」シップ vs チームワーク

できる人・できない人のランク分け vs 一人ひとりユニーク(創造性と多様性に富む)

ビジョンや自己啓発でやる気を起こさせるメッセージ vs イエスの福音の力を通して解決を与えるメッセージ

優越感を得るために裁き・罪に定めようとする vs 自分が恵みを受けているので赦し回復と癒しをもたらそうとする

違った意見を否定 vs 違った意見を重宝し成長の糧とする

特定の教会ライフとルールが中心 vs 福音を基準とした神様の国が人生が中心

マニュアル基準の弟子訓練(自分で考えられない) vs 実践と模範基準の弟子訓練(自立していける弟子)

束縛的(組織だけで通用する世界) vs 開放的(世界に出ていき活躍を支援)

情報操作と嘘 vs 批判されても自分の名誉さえ神様にゆだねる

恐れ・脅しでコントロール vs 福音から来る感謝と喜びで自発的な行動とサービス

躓いて失敗したら除外 vs 「あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」

もっと書こうと思えば永遠と比較はできるが、福音を中心としたイエスの教会のイメージと単なる宗教の違いは見えただろうか?
皆はどのような教会に関わっている?そしてどのような教会をこの日本で広めたい?

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイの福音書16:18)

教会は牧師や組織のリーダーのものではなく、常にイエスのものであることを忘れないようしなくてはならない。

本当の福音に立ち返ろう。

ではまた。

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2015年1月22日 (木)

聖書的な聖書の読み方 (福音中心とした聖書の捉え方)

以前、OO+教会を開拓するに当たって自分の中で多くのことを変えさせられ、考えさせられたという事をことをシェアさせて頂いた。

その中でも自分にとって、ある意味一番重要な理解の変化の一つを今日は分かち合いたいと思う。

それは「聖書の読み方と理解の仕方」だ。

聖書は一番歴史的に人々に読まれた書物として、また同時に多くの影響を与えてきた。
歴史や文化を通して、人に様々な形で読まれ、理解され、また良い方向にも悪い方向にも解釈され、使われていた。
聖書は神を無視して、ただの歴史の本として読まれてしまうこともできる。また宗教的にも人間が作り出す宗教の信仰の対象となり、ビジネスにおいても知恵の根源として箴言や伝道者の書は用いられてきた。

でもクリスチャンとして知らなくてはならないのは、人間が作り出す神が基準の理解ではなく、全知全能の神自身がが何の目的でどういう意図でそれを書き、そして何を伝えようとしているのかを理解しなくてはならないということだ。特に自分自身のメッセンジャーとしての役割の中で、この理解はとてつもなく重要だと感じた。

聖書は究極的に分けると2つの読み方ができる、それは「自分の為」に読むか、または「本当の神を発見し知る」ために読むかだ。これは「福音を中心としたミニストリー」のトレーニングの中ですごく考えさせられたことだ。この聖書的な概念や詳細を明確に提供してくれたCTCのMovement、ティム・ケラー先生、そして福音を中心とする教会や団体のリーダーや仲間たちに感謝したい。

このことを学ぶ中で、牧師やリーダーたちが聖書の解釈を間違ってしまうことにより、教会やミニストリーそのものがズレて行ってしまうと本当に思った。そして多くのクリスチャンもこの区別を分からずにただ聖書を読んで、何をどう捉えたら良いかわからない現実があることもにも気づいた。はっきり言ってしまうと、聖書は間違えると「危険」なものにもなるし、また逆に「真の癒しと救い」をもたらすものにもなる。

ではこの二つの読み方は何がどう違うのだろう?
まずはただ「自分の為」に読んでしまうことの危険性を見てみよう。

聖書は、旧約聖書も新約聖書もその中にある歴史や登場人物の生涯も、一つのテーマを指して常に描かれている。それはもちろん「イエス・キリストと彼の福音」だ。イエス自身も明確にそのことは福音書で言っている、「すべての律法や預言者の言ったことは私についてであり、それらを壊すのではなく成就するために来た」(マタイ5:17-21)、また「すべての聖書は私についての証であり、すべて私について書かれている」(ヨハネ4:39、ルカ 24:13~34)とも宗教家たちや弟子たちにも断言した。まず聖書は「イエスが救世主であり、俺たちの罪を十字架で背負いまた死から復活したこと」を示し、そしてその事実を土台とした信仰がどのようなものかを描き、そして同時に俺たちに信仰を与え、本当の神の性質を知りとの関係を深めていくためにあるということだ。

「自分の為」に読んでしまうとは、まずその福音を自分に適用せずに読んでしまうことであり、イエスを見つけることを優先して読むのではなく、ただ自分が「何をしなければならないか?」を基準に読んでしまうことだ。聖書を読むときにイエスから目をそらすと、自分の利益・祝福・成功をもらうため、自分の努力で神に認めてもらうため、罪悪感を消すため、「良いクリスチャンになるため」、また単なる自己啓発というレベルに聖書を下げてしまう。

前にも話したが、多くの日本の文豪たちが聖書を読んだことにより自殺しそうになったということがあるが、それは彼らが聖書を間違った視点、そして「自分中心」に読んでしまったことに原因があると説明した。

聖書の中で神様が求める道徳的基準はどの宗教よりもとてつもなく高い。旧約聖書の律法だけでもすごく高いが、新約でイエスが言う基準はもっと高い。敵を愛し、常に隣人を愛し、自分がしてもらいたいように相手にも接すること・・・、結局「完璧になれ」と断言している(笑)。「無理だ~!」と普通の人間なら思うだろう。でもそれが正しい反応だ。
でも日本人は超真面目だ。その基準を頑張ってこなそうとする。その時、できない自分に気づいたとき失望し自分をさげすみ、罪悪感に襲われる。例えできたとしても、そいつはパリサイ人のように傲慢になり自分で良いクリスチャンになったと思い込みひどい人間になるだろう。だからそのような「自分の為(自分で自分を変えようする自分中心の聖書の読み方)」はどちらにしても危険だとこのブログでも説明した。

聖書はイエスの福音の真実と愛と恵みを理解せずに読むようにはできていないのだ。聖書は「人間の愚かさ」と、「神の基準にどう足掻いても達することができない人間の罪深さを示し」、その罪に対する神の神聖さと怒りを明確にすると同時に、それを解決する圧倒的な神の愛と恵みの両方をしっかり示している。だからイエスが「完璧になれ」という時、すべての神の基準をこなしたイエスを受け入れることを通して「完璧」になるということになる。敵を愛することも、異性を正しく見ることも、霊的成長そのものもすべてだ。聖書はその二つの神の怒りと愛が矛盾しているように見えて、でも「福音」によって両方の真実を守っている。でもそれを忘れて聖書を読んでいる限りは、すべて自分の為になり、神の恵みと働きではなく「自分の努力で神に近づく」という、まさしく宗教をやりは始めてしまう。要は極端に傾いてしまう。

そしてもし教会がただ「自分でがんばれ~」を土台に聖書を解釈し、ミニストリーを建て始めると、それこそもっとたちの悪い宗教になる。こういう意味ですべてがズレるということだ。イエスの時代もそうだったが、その宗教世界では、自分の努力が中心なので、必然的に「できる人」と「できない人」に区別される、「成功できる人」・「できない人」、「祝福されている人」・「祝福がない人」、「断食して祈り人」・「あまり祈らない人」、「多く教会で奉仕する人」・「できない人」。これらの要素や度合いが霊的な成熟さだと思い始めてしまう。そしてそれを中心にすべてのミニストリーの成果と基準が判断されるようなシステムが出来上がる。そうなると究極的には、「内部の人」と「外部の人」となる。言い換えれば、教会や組織の基準(ルール)に当てはまる人、当てはまらない人とを区別する。こうなるとイエスの福音が「良い知らせ」ではなく、特定の教会やある環境にいることが「良い知らせ」であり「良いクリスチャン」となってしまう。

「福音」という基準をを忘れてしまうとすべての基準がズレしまうのだ。クリスチャンとそうでない人たちの唯一の違いは、ただイエスの救いにある恵みと愛じゃなかったのか?皆神から離れた同じ罪人だったじゃないのか?俺たちが救われたのは何か俺たちが良いことをしたから?または他より少し賢かったからだろうか?なぜ完全な恵みと愛によって救われたのに、自分の努力で良い人間になり始めることができると思ってしまうんだ?これらはガラテア人への手紙でも問題となっていたことだ。パウロは「違った福音」のことも注意している。

そしてこの「ズレ」は聖書の捉え方と読み方一つにも表れてしまう。ただ読めば良いというものではない。ただ毎日「神様は何をしろ(アドバイス)」と言っているかを理解するための聖書の読書ではなく、まず「神が何をすでにしてくれたか(良い知らせ)」を理解することから始まり、正しい理解が生まれ、そして毎日が始まる。神からただアドバイスを受け取ることが聖書の目的ではない。それだけならどんな宗教もアドバイスをくれし、先生と呼ばれる存在も多くいる。でもイエスは単なる良い教師(ラビ)ではない。聖書はイエスにある救いを示すものであり、俺たちに「福音(良い知らせ)」を与えるものだ。要は聖書をどれだけ読んで理解しているかが霊的レベルや良いクリスチャンではなく、どれだけ福音と神の恵みに感動し、心打たれ、そしてそれが自分の変化と成長に繋がっているかが大切だ。

そして教会の存在も変わってくる。福音を見つめている人々は自分の弱さを理解すると同時に、神の愛に頼り生きているので、赦しあう、受け入れ合う、違いを認め合い、お互いの違いがあってもイエスにあって一致を築こうとする共同体となる。ある道徳的・宗教的・社会的基準に達するかどうかではなく、お互いの間違いや失敗からも福音の素晴らしさを再確認し合い、立ち上がり前進し合える場所となる。福音という、ある意味究極のバランスがあると、教会はただ「病院」いう傷を舐めあう場所にはならず、また逆の厳しさだけの弟子訓練と成長を基準とした教会だけにもならない。両方の極端さを避けることができる。イエスが「恵みと真実」を両方持ち合わせたように、福音の中で教会も「恵みと真実」の両方を兼ね備えたミニストリーを形成できる。

では神を知る為そして関係を深める為の読み方とはどういうことだろう?

それは既に上記でも答えを出していると思うが、イエスと福音を発見する読み方だ。
すべての聖書はそれが中心となっている。

具体的にどういうことかもう少し説明したいと思う。
これは、「福音中心」をモットーとするOO+のメッセージの仕方にもすごく重要視していることなので参考にしてほしい。

例えば、良くあるダビデからの説教。
正直、自分自身も今までは、ダビデのストーリーを使って「俺たちが何をすべきかしか」という説教しかしていなかった自分に気づいた。

「ダビデは勇敢で、皆がビビッているときに一人巨人に立ち向かった。そしてサウル王の剣と鎧ではなく、自分のスキルという投石器で倒した。なので、私たちも自分の良さとスキルを生かして、人の目を気にせず勇気を持って成功に立ち向かいましょう~」というのが、現代の一般的な人気あるメッセージになるだろう。それらを言ったあとに、「ハイ。イエスを信じればその勇気が持てますよ。彼を信じますか?」となるかも知れない。

でも考えてみれば、これでは究極的には「自分の努力でダビデのようになれ、頑張れ」と言っているに過ぎない。イエスの事を話していても、イエスを救世主としてではなく、単なる自分の成功のための「後ろ盾となるアドバイザー」程度としか伝えていないということに気づかされた。イエスがなぜどのようにして俺たちの救い主なのか説明すらできていない。
自分自身もある意味、福音を明確に説明するメッセージをせずに罪悪感を感じた時もある。「自分は本当の福音を語って来たのだろうか?」と。

では福音を中心とした捉え方はどのような感じだろう?
その為にはイエスと福音がこのストーリーや時代の背景の中でどう示されているのかを見なくてはいけない。

その当時イスラエルはぺリシテ人に圧倒され攻撃を受けて、皆怯えていた。この戦争で負ければ、完全に彼らの奴隷になってしまう状況だ。でもだれもぺシリテ軍のボスである巨人ゴリアテに立ち向かおうとする勇気ある者はいなかった。でも羊飼いであり末っ子のダビデが神の好意によって巨人と戦う状況が作り出され、結果的にダビデが巨人を倒したことによりイスラエル全員が救われ解放された。

これを福音に照らし合わせるとこうなる。

ダビデはこれからやってくる救世主イエスの象徴でありプロトタイプ。ダビデが勇気を持って踏み出し巨人と戦って勝利したように、イエスも神でありながら、地上に一歩踏み出し、十字架で罪と死に打ち勝った。同じようにダビデの勇気ある行動によってイスラエルが解放されたように、俺たちもイエスを通し、罪という奴隷から解放される。それだけではなく、ダビデは単なる弱い羊飼いであり末っ子(その当時では一番権利がないこと)だったように、イエスも武力で勝利するのではなく弱さそして人類の「長男(神の子)」という立場や神である権利を俺たちの為に捨て「仕える」ことにより、十字架という人間にとっての愚かさと弱さを通し勝利した。だから俺たちは、ビビっていて何もできなかったイスラエル人と同じだったが、イエスを信じ頼ることにより、イエスを通して俺たちもダビデのように神に従い、勇気を持てるようになっていける。だから俺たちにはイエスが絶対に必要であり福音を信じることにより、自分の力ではなくイエスによって救われ変わっていける。ダビデのようにその当時の社会で末っ子と言う「弱さ」と思われたていたものが、神にあって強さになり、俺たちの愚かさを通して神の知恵が現れる。

すごく簡単に説明したが、基本的にこのような解釈の仕方になる。もちろんこの視点から様々な福音の適応はクリエイティブにできる。でも根本的な違いは分かってくれただろうか?
このような読み方や解釈の視点はすべての聖書箇所に適応される。アダム、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、エステルのストーリーさえもイエスと福音が完成形となり、彼らはイエスの形でを示す存在だ。預言者も律法の性質と目的ですら福音を示している。新約でのイエスの教えの本来の意図や例え話も、すべて福音の要素につながる。

このような読み方になると、神様を発見し、「自分が願う神様のイメージ」ではなく、聖書が示すバランスのとれた神様の存在を学ぶ。神様のしてくれたことに感動するようになり、神様を知ることにワクワクする。読むたびに良いクリスチャンになれない自分に罪悪感を感じるのではなく、「できない自分」ですらすべて分かった上でイエスを与えてくれた神に感謝し始める。それと共に、「こんなに恵みを与えてくれた神」を本当の意味で感謝することに繋がり、「従わなければ」という恐れではなく、あふれ出る「従いたい」という思いから神に仕えることができる。イエスが言うように、「多く赦された者は多く愛する」が現実になる。これは「もっと罪を犯して、もっと赦してもらってから愛すること」ではなく、イエスの福音を深く理解することにより、「どれほど赦されているかを理解すること」から生まれる愛と感謝のことだ。

福音を土台に聖書を読むとき以下のことを頭に入れて読んでみてほしい。

1.神様は何を求めているか?(聖書が示す神の基準)
2.なぜ俺たちはそれを出来ないのか?(罪と自分たちの弱さ愚かさという問題)
3.イエスはそれを解決するために福音(十字架の死と復活)を通してどうやって解決したか?(イエスの中での解決)
4.そしてどうその福音を自分に適応することにより変わり、神様の基準や求めていることに従えるようになれるのか?(福音の適応)

気を付けてほしいのは、すべての要素をしっかり考えることだ。2番目で止まってしまったら、さっきも書いたように、罪悪感や自分の弱さに失望しただけで終わってしまう。できても自己啓発で終わり、出来ない人を蔑む。3番目だけでも、「神様感謝します」だけで自分は何も変わらず変化もなく、結果的には福音を分かってないことになる。4番目まで適応して初めて福音を信じ受け取り理解したことになる。

これらの要素は、牧師という立場である自分も教会に語るメッセージで必ず入れ込まなくては言えない要素と思っている。

2番目までしか伝えないメッセージだと、ただ人々に「はい。じゃ自分たちで頑張ってください~」、または「だからお前たちはできないんだ」や「俺はできている。だからお前らもやれよ」というメッセージになる。基本的には罪悪感を用いて人々を変えようとしているようなものであり、ある意味「自己啓発」よりたちが悪い。最悪見下すようなメッセージだ。

3番目だけだと、「神様すばらしいですね~。ハレルヤ~」で終わり、何をイエス通して自分の人生で変えないければならないのかを教えず、理想と現実のギャップがどんどん生まれていくだけだ。最悪のケース、日曜日にはハレルヤで、職場や家では感謝するどころか全く福音と関係ない人生を生きてしまう危険性も生まれてくる。

聖書は、ただ自分の言いたいテーマやポイントに合わせて、引用すればよいものではない。
それだけでは結局自分の意見や哲学を中心に、聖書を利用しているに過ぎない。
本来は逆でなくてはいけない。神の基準と真実に、俺たちの考えや思いを合わせなくてはならない。メッセージも同じだ。必ずしも、聖書を利用している=聖書的なメッセージとは限らない。「イエスと福音」という、神がこの世の始まりから意図した計画にある価値感と目的、そこにある様々な神の性質に合わせることにより、真の「聖書的」になる。

キリストを語る教会の牧師として、聖書の真実を語る者として、この責任は重要だ。
福音を正しく伝えていないなら、「他の福音」を伝えてしまっている危険性がある。
そうなるともう別の宗教となる。

俺の個人的な願いは、クリスチャンみんなが自分たちでしっかりとした福音を聖書を読むときに発見し、理解できるようになることだ。そうすることにより真の福音が日本に伝わっていくことを願う。

福音中心とした聖書の読み方は本当に聖書を明確にしてくれると同時に、本当に「神の奥義」、ようは「福音」のシンプルさと同時に深さを教えてくれるものだ。ここでは書ききれない聖書的な要素もあるので、質問がある方は遠慮なく聞いてほしい。コメントは許可なしにはブログに反映されないようになっているので、気軽に質問してくれても大丈夫だ。

ではまた次回に。

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2015年1月 6日 (火)

Vision

皆さん。明けましておめでとう!
今年もブログの方も頑張っていきたいのでよろしく~!。
今回はちょっぴり「長め」です(笑)

新年と言えば、「新しい始まり」ということで、今年の抱負やビジョンなど、色々達成したいこと、新しく変えたいことなど考えているんじゃないかな?また多くの教会でもビジョンについてメッセージでも話していることでしょう。

でも牧師として人生のビジョンや目的を人々に語る時、いつも教会で感じるのが皆のなかにある「混乱」だ。
「ビジョン」という言葉を聞くとあまりにも漠然としていて、多くの人たちは「私のビジョンは?」、「何をしたらいいの?」、「自分の使命は?」と考える。クリスチャンならなおさら「この自分のビジョンや思いは神様のもの?それとも自分の勝手な思い?」と考えて疑ってしまう。何を基準に、どう正しいビジョンを判断したらいいのかが分からない。そしてビジョンについてのメッセージや教えを聞いても毎回様々な見方、またはただのビジネス的な感覚でしかビジョンを教えてくれない場合があるので余計な混乱する場合も多い。基本的に世の中が言う「ビジョン」と神様が言う「計画」には決定的な違いがある。全く違う視点と土台から「ビジョン」というものを見ているからだ。

なので今回は聖書的に「ビジョン」とは何か、そしてそれを基準にどう自分たちの人生を組み立て決断し生きていけばよいのかをできるだけ明確にしたいと思う。

まず最初に言いたいことは、聖書は神様の思いやビジョンを超明確に示しているということだ。例えば、マタイの書22:36-39、

「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 (37) そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(38) これがたいせつな第一の戒めです。(39) 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これは何度も福音書で出てくる内容だが、これは宗教家たちがイエスの下にやってきて質問した内容だ。この宗教家たちは「モーゼの律法の専門家」でイエスを試すためにこの質問をした。そこでイエスは簡単にすべての律法の目的をまとめたのだ。要は、「神を愛すること、人々を愛すること」、これらが神が俺たちに求めることだと。

すごく簡単なことだと思えるが、実はそう簡単にこなせるものではない。なぜなら、もし俺たち人間がこれらを楽に実行できていたらイエスが地上にやってくる必要はなかったからね。この箇所をちゃんと理解するには、ある程度「モーゼの律法」を理解する必要があるので、そこから見ていきたい。

まず「モーゼの律法」なので、モーゼの話が出てくる「出エジプト記」や「レビ記、申命記」などを思い出してほしい。このブログだけでは全部これらの書の内容を説明することはできないので、今回は簡単にまとめよう。

モーゼの律法は基本的に、「十戒」から始まる。神様がエジプトから神とモーゼによって救出されたイスラエルの民に与えられた「ルール」だ。ここで理解してほしいのは、これらのルールは彼らが「救われるため」に与えられたのではなく、「神の民」として正しい人間関係とコミュニティーを作るためのものだったということだ。なぜなら彼らこのルールを受け取った時は、もう既に神によってエジプトの奴隷下から救われ解放された状態だったからだ。しかも一方的な神の恵みと愛によって。以前にも「イエスの山上の教え」の内容でブログでも触れたので関連性についてはそちらを参考にしてほしい。後で説明するが、この理解はすごく重要だ。

このルールを民に与えた時に、神が強調したことが2つある。それは「神が愛と恵みのゆえにイスラエルを救ったということを思い出して神を愛すること」、そして「人々を愛し、貧しい者もやもめも外国人も公平にすべての人々を守り接すること」だった。

もっと簡単に言うと、「神様のしてくれたことを思い出しながら神を感謝して愛し、人々を愛して素晴らしい神のコミュニティーを作る」ことだったということだ。「十戒」を見てもわかると思うが、最初の3つの命令は神を愛することに関しての内容、そしてその残り7つは人々への接し方やコミュニティーについてだ。

究極的には、これが神が俺たちに求めるものであり「ビジョン」そのものそし、すべての計画の最終ゴールだ。これらがクリスチャンのすべてのビジョンの土台となるべきであり、それ以外の俺たちの思いや願望、計画やゴールがすべてこの2つの神のビジョンに繋がっているかを常に確認しなくてはならないということだ。でもその「ちゃんと神様のビジョンに繋がっているかの判断」がすごく気を付けないといけないことであり、俺たちが間違えやすいところだ。

それは反面教師である、先ほどの「宗教家やパリサイ人の間違い」から学べることができる。思い出してほしい、彼らは通称「律法のエキスパート」だったのに、完全に神様のビジョンを分かっているはずの人々だったのに完全に神様のビジョンから外れていたことを。なぜそうなってしまったのか?これもすごくイスラエルの民とモーゼの壮大なストーリーと関係している。

まず彼らの究極的な問題は、「自分たちの努力」でその2つの神のビジョンを成し遂げようとしたことだ。神様がまず強調したかったのは、「神様の愛と恵みを思い起こせ」だった。それだけは子孫にも伝えて記念碑を建て、祭りをして思い出せとイスラエルに強く教えた。現代のクリスチャンが行う聖餐式や教会の礼拝の目的も究極的には神のしたこと(福音)を思い出し賛美することにある。でもイスラエルの問題は、すぐにそれを忘れて「自分達で作り上げた神(最初は金の牛)を祭り、自分達でコミュニティー(宗教)を作ろうとした」ことだった。

パリサイ人達はもっと厄介で、イスラエルの民がそうならないように神が与えた律法を逆に利用して、「俺たちは誰よりも律法を守り神を愛し従っている」と言いながら、「神が恵みによりしてくれたこと」ではなく、自分の努力で築き上げた「義」を基準にそれを押し付け、できない人々をさげすまし、そして余計なルールで固めた超厄介なカルト集団にまで作ってしまった。表向きではすべて「律法」を守っている良いクリスチャンであるかのように見せ、中身の目的はすべて自分たちの地位や名声、そして願望を叶えるためにルールを作り利用した。これにはイエスもめちゃくちゃ怒っていた。でも怖いのが、実は俺たちも知らずにその方向に向かって行ってしまう傾向にあるということだ。

ある人はクリスチャンとして教会に行って聖書を毎日読んでいるかもしれない、奉仕して仕えているかもしれない。
結婚して旦那と妻と一緒に神に仕えたいという願望があるかも知れない。ビジネスで成功してお金やリソースを通して神に仕えたいかもしれない。
また牧師になり「献身」して神に仕えたいという願望があるかも知れない。
これらはすべて素晴らしいことだ。

でもここで重要な質問は、「何のために?」だ。

教会に行って毎日聖書を読むのは、そうしないとクリスチャンとして「ちゃんと生きていない」という罪悪感に襲われるから?
仕えていないと、周りのクリスチャンに忠実でないと思われるから?
結婚しないと幸せになれない、愛してくれる人がいないと不安だから?子供ができ家族を作れないと孤独だから?または惨めになるから?
成功してお金を持っていないと、クリスチャンとして自分の為に自由に使えるお金が無くなるから?
牧師や献身者になることで、自分の存在意義と使命を達成しているという「自分の存在意義」が持てるから?

もしこれらの理由付けが俺たちの心の奥底にあるのなら俺たちは「宗教家」たちと全く同じことをしているに過ぎない。結局それらのものを使って自分の力で自信、アイデンティティー、罪悪感の解決、幸せを得ようとしているに過ぎないからだ。機能的にそれらが自分の救いとなっていることになり、それらがないと生きていけない幸せになれない、自分が形成されないと言わずとも行動で示していることになる。でも本当にクリスチャンならイエスと福音によって、生まれ変わり、神の子供とされ、罪悪感の代わりに喜びも与えられ、罪を赦され、義ですら与えられたんじゃなか?

実はパリサイ人たちですら、すべての「クリスチャン的」なことはしていた。自分たちの弟子も作り伝道し、集会を作っていた。ある時イエスはこう言っていた、「彼らは一人の弟子を作くるために海や地を超え、見つけたらもっと酷い状態にしてしまう」(マタイ23:15)と。彼らは奇跡を行い伝道をして貧しい人々を助けているつもりでも、イエスは彼らを知らないとまで言い張った。なぜだろう?ビジョンと目的に向かう行動が間違っていたのか?違う。それは彼らの動機と心が自分の利益にあり、救いは神ではなく、自分の努力と行動によって得ようとしていたからだ。

俺自身も常にこのような誘惑には気をつけなくてはけない。教会を任されている牧師の一人として、気を付けなければ「イエスの弟子」ではなく、「自分の弟子」を作ってしまうこともできてしまう。自分の自我を形成するために、教会を建てようとすることもできてしまう。自分がすごい牧師やリーダーと思われるために、または自分が理想とするグループを作るために。更には「教会のビジョンに合う弟子」ということにもなってしまう。常に俺たちが作っていかなくてはいけないのは、「イエスの弟子」あり特定の教会だけで通用するようなリーダーや牧師を育てることではないことを俺自身が思い出さなければならない。アポロの弟子やパウロの弟子でないように(1コリント1:12)。俺自身究極的には、10年後牧師でなくなろうとも、「神を愛し、人々を愛する」という神のビジョンだけは決して変わらないことを自覚し、必要であればそのビジョンの為に今ある仕事や教会をいつでも神がそうしろという時にできる状態でなければいけない。それと同時に任せれている間は、全力で自分の人生を使う覚悟も必要だ。

先ほどにも言ったように、仕事、成功、結婚、奉仕などそれらは悪いものではない。でも本当の俺たちの問題は、「神の為に良いことができているかどうか」ではなく、「良いことですら自分の神の代わりとなってしまっている」ことだ。その良い行いが機能的に自分を満たす偶像となった時、「神を第一に心を尽くして愛すること」が失われてしまう。そうなると、すべての行動が自分の心の奥底の願望やニーズ満たし、存在意義を形成するために行動し始めるので、自然に2番目の本当の意味で「人々を愛すること」もできなくなっている。友情、教会、仕えることも仕事も自分を形成するためになる。結婚も本来は「愛と自分自身を与え合う」もののはずなのに、自分の利益の為に、相手の愛を求め始めてしまう。そうなると神が定めた本来の結婚するも目的も履き違え、相手に間違った自分の願望を求め始め、間違った理由でパートナーを判断してしまう。「神を第一に愛する」がずれてしまうことで、すべてがズレて行くのは分かってもらえただろうか?

じゃなぜ俺たち人間はそう簡単にズレて行ってしまうのか?
どうしたらこの連鎖を止められるのか?

それは今も昔もモーゼの時代も同じ解決法しかない。
先ほども書いたが、「神がしたことを思い出す」ことが鍵だ。
イスラエルに神がまずしてほしかったのは、神の救いと恵みと愛に感謝することだった。
約束の地に向かう道中も安息の地に住み始めても、それだけは忘れてほしくなかった。
これと同じように、神がイエスを信じる者に求めていることは、「福音」を常に見つめ、思い出し、感動し心打たれ、そして感謝して神を愛し生きることだ。イエスが俺たちの為にしたこと、十字架の死と復活により罪が赦されたという「良い知らせ」が救いとなり、ビジョンへの道しるべだ。イエスが道であり、真実であり、そして命そのものであり、ビジョンそのものだ。
なぜなら、俺たち人間みんな、神の2つの究極な目的である「神を愛すること人々を愛すること」を達成できなかったからだ。
唯一、それを成し遂げたのは人類でたった一人、イエス・キリスト。
そのイエスを信じ頼ることで、初めて俺たちは神のビジョン達成に向かい始めることができる。その土台の上に、人生を建てるときに、本来するべき仕事も、作る人間関係も教会もコミュニティーも正しい方向に正しい基準で築き上げることができると確信する。

パリサイ人や宗教家たちの問題は、それを自分で達成できると思っていたことだ。だからイエスが来た理由も理解できず、毎日聖書を読んでいながらも、律法を研究しながらも、神のビジョンに従っていると自覚しながらも、実は神の本当の計画が分からなかった。

イエスは面白いことに彼らにこう言った、「お前たちは永遠の命を求め聖書を調べているが、聖書は私について証しているいるのだ。でもお前たちは命を得るために、私のもとに来ようともしない。」(ヨハネ5:39-40)

同じように俺たちの致命的な問題は、永遠の命、幸せ、成功、満たし、愛を求めてクリスチャンになり、聖書を読んで頑張るが、一番大切なイエスを置いてきてしまうことだ。イエスは真実を見せるために来たのではない、神への道を教えに来たのではない、ただ幸せと人生をあたえにきたのではない。イエスはそんな、宗教の先生だけという存在ではない。イエス自身が、真理であり、道でありそして命だということを忘れないでほしい。俺たちにとってイエス単なる良い先生になってしまった時、ビジョンを「自分で達成できる」という自負に変わってしまう。そして表面ではイエスを信じ救いを受けた思い振る舞っていても、心では自分の力で聖書の言っていることを忠実に守ることで、「良いクリスチャン」になろうとしているなら、それは単なる宗教に逆戻りになる。そして守れていない時は罪悪感を感じて落ち込み、守れているときは高飛車になり他を見下すような、献身度も感情的にもUPとDOWNが激しいクリスチャンにしかならないだろう。

今年の初めにイエスを、福音を思い出してほしい。
そして、すべての自分がすること、仕事も人間関係も奉仕も、「神を愛すること、人々を愛すること」に繋がっているかどうか確かめてほしい。

その上で、することすべてが祝福される2015年になるように祈っている!
今年もよろしく!
ではまた。


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2014年12月10日 (水)

世界は広い

昨晩、ニューヨークでの「教会開拓者達をトレーニングする」ためのトレーニングから無事帰ってきました。

今回のリーダーシップの学びは今まで経験してこなかったようなトレーニングだった。
大概セミナーや授業と言えば、偉大なリーダーや素晴らしい方法論やノウハウを知っている人物から、「インフォメーションを受け取る」またはできるだけダウンロードする形式がほとんどだった。聞いた情報を自分のものにしようと努力するが、あくまで「情報」なので、現状を経験したり失敗しないと本当にその「情報」の意味が分からない場合がほとんどだ。
でも今回の違いは、ただ情報を受け取るのではなく、自分で経験し考え、様々な状況や場合によって対応し戦略や解決を「生み出す」ことができるようになるためのトレーニングだった。

例えば、「はい。この9本の釘をこの鉄の板の上に重ねて上においてくださいね」と言われ、チームごとでどのチームが早くそれを達成できるかをいきなりやらされた。何の指示もなく、はいどうぞ。みんな困惑しながら10分後、「はい。終了~」。何のトレーニングかと思いながら、どのチームも達成できていない。「当たり前だ~。9本の釘を重ねて上に置くことなんてできないだろ~。」と思っていたら、実はそれがトレーニングの目的ではなかった。結局、そのあとに聞かれたのは、「チームで誰が勝手に仕切っていた?」、「誰が意見を言ったり、また誰がただ黙って人任せにしていた?」などの質問。要は、その場で誰がどのような性格で、どんなリーダータイプがいて、誰がやる気ないなどの状況判断力の例だった。その判断から開拓者たちのチームを編成したりする学びだ。要は経験していることを分析し、判断し、そして戦略を練る。なぜなら実際にしていることから、人間はもろに性格がでるし、くだらないゲームでもそれは明らかになる。言ってしまえば「遊び」からでも十分なほどの自分リーダーたちの性格や能力の分析と情報収集ができるわけだ。

でも俺たちはこのような考えることに慣れていないことにも気づいた。特に日本は教育そのものが、ただ情報を得て学ぶことを中心に構成されているので、「自分で物事を考えて決断」できない世代になってきている。これは今の教会現状でも同じだと思う。日本人は真面目なので、「言われた」ことを真面目にやる。疑問にも思わず、思っていても質問すらしない。なので、日本人は何(what)とどのように(how)は大概わかるが、WHY(なぜ)そのようにしているのか、またその「なぜ(WHY)」から何(WHAT)を生み出し、どうやって戦略(HOW)を考えていいのかわからないのだ。

これは良い面もあるが、危険な要素もある。上のリーダーが良ければ、一気に良い方向に向かうだろう。でも悪いリーダーだったら?一気に悪い方向へ皆流される。だから危ない組織やカルト化する団体も日本に多い。

話しを戻そう。このようなトレーニングは、「考えさせる」ことがすごくできると感じた。そしてこれからの日本の教会を開拓していく中でかなり重要なスキルだ。日本の教会は今まで海外に教わってきたことを忠実にこなしてきた。あそこの国の成功している~教会のスタイル。~教会の戦略。~教会の祈り、ワーシップ。それをちゃんとやってきたが、時代の流れと変化の速さに追いついていけず止まってしまっていることも感じる。それ以前に福音というものを日本に「文脈化」させることもほとんどしてこなかった。だから多くのリーダー達が何をどうしてよいかわからない状況だと感じる。

今回、トレーニングの後の週末に、3つの教会の礼拝に出席することができた。その一つはRedeemer Presbyterian Church NYCだった。JAZZスタイルの音楽の礼拝と聞いていたのですごく興味があった。礼拝の場所に入った瞬間思ったことは、「え?ごく普通の伝統的な教会」。建物は綺麗だが、特に何の飾りもクールな要素もなし。ライトも明るく演出もない。でも曲が始まった瞬間、「あ。ニューヨーク?!」。そうJAZZと言えばニューヨークの雰囲気。そして思ったのは、「この忙しく、騒音が激しい都市ですごく落ち着く・・・」。自然と歌っている讃美歌の言葉が、静かに心に入ってくる。朝はダイナミックな賛美のヒルソング。礼拝後には興奮と意欲の高まりがあるが、ここでは逆に癒され心が透かされ、そして涙が出る感じだった。「もしかしたら大都会でこの安息もとてつもなく大切なのでは?」とも思った。ある意味、ヒルソングはオーストラリアという文化で生み出したモダンな賛美スタイルをNYCに文脈化させたものだ。でもREDEEMERは、独自の伝統的なスタイルからうまくカッコ良く、NYCの文化に合わせて様々な福音の伝え方をしているように思える。

そして更に、思った、「日本人の心に届く福音の伝え方をもっと突き止めたい」と。
その為には、もっと「福音」をとことん理解し、そして自分の住む文化において柔軟に考えることが大切だと思い知らされた。

正直言うと、俺たちはそれぞれの生まれ育った「クリスチャンの環境」だけで物事を見ているように思える。それがモダンなスタイルの教会であれ伝統的であれ、拘ってしまった瞬間にその作り出した文化に固着してしまう。そして仕舞には、その自分の経験や文化だけが正当で唯一だと言う態度になっていってしまう。その瞬間、「新しいもの」が一瞬でで「古く」になる。本来、「福音という神様の文化」だけが俺たちクリスチャンの「基準」であり文化なのに、自分の経験と好みが、福音よりも強くなってしまったとき、「宗教」が生まれてしまう。「福音」が「どんな文化にも浸透し順応すると同時に、間違った要素を変えてくれる」ことを忘れてしまうのだ。

でも「福音」の土台をしっかり持った時に、世界はもっと広くなる。もっとクリエイティブになる。もっと自分と自分の文化を好きになる、そして同時に自分と自分の文化の弱さも正直に受け止められる。もっと多くの意見やスタイルの人々と「教会」ができるようになる。

これからの日本が本当に楽しみだ。日本を「イエスの福音」によって変えていこう。

ではまた。

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2014年10月24日 (金)

自分自身の価値

お久しぶりです。
教会も新しい場所に移ることができ、やっと落ち着き、またブログを書ける時間が取れました。今回は比較的短いです(笑)

今回はマタイ10:39・マルコ8:35をもとに、最近考えていることや教会のメッセージの中心となっていることをシェアしたいと思う。

聖書では、人間はこの世の中の何から「自分の価値」をもらい、その上に自分の存在意義やアイデンティティーを作って生きていると示している。
前のブログでも書いたが、それを創造主である神以外から受け取ることは、偶像礼拝と言い、結果的に真の神ではなく、それらを心で崇拝し生きていることになる。これは「私はイエスを信じています」と言いながらも、もし自分の絶対的な信頼や信仰がイエスになく、「今ある仕事」、「持っているお金の金額」、「自分のイメージや名声」、「美貌やスタイル」、または「結婚相手や恋人」や「家族」などが心底の自分の頼みと頼りであるならば、それらが自分の実質的な「神」となるということだ。それは自分で気づいてなくとも、自分の奥底の願望によってそうなってしまっている。究極的に言うと、信仰=「はい。信じます」だけではなく、「はい。本当にすべてにおいて神様あなたを信頼し頼ります」になる。それがクリスチャンとして生きることであり、神様と関係だ。

結局、罪とは「悪いことした」=罪なのではなく、良いものでも悪いものでも真の神の代わりにしてしまうこと自体が罪の性質であり根源になる。

でももっと問題なのが、この問題に対して俺たちの力では何もできないということだ。聖書では、人間は神から心も霊的にも遠く離れてしまったがために、「誰も本当に心底から神を求めるものはいない」(ローマ3:10-12)と断言している。なので、例えばある宗教家が神を求めているように見えても、結局自分の「価値」を高めるためになってしまう。「私は神を求める聖人だ」となり、そうでない人と比べたり見下し始める。また社会福祉をしている人でも、究極的には自分の為にってしまう。善を尽くしている自分、福祉をしている自分=良い人間であるとするための行動となる。裏を返せば、自分の価値を高めるためになる。これはすべての善や良い行動、ミニストリーですらそうなってしまう。逆に、マザーテレザのように本当に心からイエスに頼り、自分の価値が奉仕にではなく神にあると知るとき、すべての彼女の奉仕や福祉が真の意味で人々の為になる。結果的に彼女はカルカッタという小さな地域で忠実にしたことが世界に影響を与えた。

結局、誰もが本当の神から自分のアイデンティティーや価値観を見出していなければ、世界の何かから自分の存在意義と価値を探し求めて生きているようになる。

だからイエスはこう言った。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(マルコ8:35)

ここでの「命」という言葉は、ギリシャ語ではいくつか種類がある。よく「命」に対して使われる言葉は「ZOE」だ。この意味は、「すべての命(身体的にも霊的にも」。でもこの聖書箇所で使われる言葉は、「ZOE」ではない。ここでは、「Phycheサイキ」が使われている。これは「サイコロジー(精神やマインド)の語源だ。またその当時のギリシャの世界では、人間の「魂」や存在意義そのものという意味で使われていた。自分のアイデンティティそのものだ。

要は、イエスは何を言っているかというとこうだ。

「もしあなたが自分で自分のアイデンティティー(自分自身)を見つけようとするなら、あなたは自分を見失うだろう。でも私(イエス)と福音(神の愛と恵みのメッセージ)の為に、自分を捨てるなら、あなたは本当の自分を見つけるだろう」。

これは簡単な概念に思えるが、すごく奥深いことだ。

多くの人々は、世の中の何かしらによって「自分を形成」してるので、常にそれが人生の土台となる。
例えば、もしある人が、自分の美貌やルックスが自分の自信とアイデンティティーに繋がっているとどうなるだろう?そしてある日、もっと美人でハンサムな人が現れたら?その人の土台は一気に崩れる。自分が脅威にさらされている感覚を得るだろう。それだけではなく、その人を嫉妬するかもしれない。挙句の果て、その人よりも自分は美人・ハンサムだと競り合うかもしれない。自分の存在自体が揺るがされているのだから。

ある人にとってそれが自分の仕事スキルだったら?必ず自分の上をいく人間はいる。
ある人によって知性と知識だったら?必ず自分より頭の良い人、学歴が上の人が現れる。
ある人にとって、それがお金がどれほどあるかだったら?それももっと上がいる。
イケてる恋人?結婚相手?素晴らしい家族?家?地位?ファッションセンス?名声?

もっと突っ込もう。

あるクリスチャンにとって、自分の価値が「聖書をどれほど知っているか」にあったらどうだろう?自分より神学の知識で勝っている人に出会ったら自分の自信が揺らいでしまう。
それがワーシップリードのスキルだったら?牧会のリーダーシップだったら?
教会のサイズ、弟子の数、メッセージのうまさ、祈っている量、奉仕をしている自分そのものだったら?
その人は、それらの分野でもっと活躍している人を妬むだろう。他の成功しているミニストリーや成長している教会を脅威に思うかもしれない。自分が用いられることにやたらに拘るだろう。そしてその分野で批判をされたり、揺るがされたりしたら過剰に反応するだろう。もしかしたら他を非難し、迫害するかもしれない。パリサイ人や宗教家がそうだったように。彼らの自分自身の価値が自分の従順さと義にあったからだ。だからイエスの恵みと愛という基準に嫉妬し、それを嫌がったのだ。それを受け入れたら自分で築いてきた自分自身の価値がすべて崩れるからだ。

これは誰にでもありうることだ。そして常にその誘惑はある。
そしてその解決はイエスと福音の中でしか絶対に見つけられない。
神を唯一一番に愛し求めることは、俺たち自分自身の努力ではできないからだ。

福音とは簡単に言うとこうだ。
「俺たち人間は自分が思う以上にとてつもなく罪深くどうしようもない存在だと気づくと同時に、イエスの十字架の死と復活により、俺たちが想像できる以上に神様に圧倒的に愛され受け入れられている」ということだ。

この「良い知らせ」を心で受け入れ信じることにより、まず自分自身では自分の価値を形成できず、どうしようもなく絶望的な自分に気づき、一人ぼっちで自己中で、小さな存在だとわかる。それと同時に、こんな自分がイエスを通して神様に圧倒的に愛され、感動し泣き崩れ、そしてイエスがしてくれたことのデカさを知り感謝し大きな喜びがあふれ、自分の価値が神の中だけにあることを心から知る。

そこに自分の価値ができると、自分より美人・イケメン、優秀、高学歴でスキルがあり成功している人々と会ってもビビり臆することはなく脅威には思わず、逆に心底からその人々を尊敬できる。他と比較し他の人が何を持っているかの基準で頑張るのではなく、本当に正しい動機から神様から与えられた自分の容貌、スキルやチャンスを正しい方向へと最大限生かし始める。アドバイスや批判も謙遜的に受け入れると同時に、いざという時は人の目を気にせず、大胆に行動ができる。世の中の価値観に振り回されないので、その価値を基準とし自分を比較しなくて良いからだ。そしてやる仕事も初めて、自分の為ではなく、他人の為・世の為、そして神様の為になる。

神様という基準からズレるとすべてがズレていくが、逆に神様との一致ができることによってすべてが整い始めるのだ。そしてどんな困難や苦しみ、迫害も挫折や失敗とは考えずに、将来の益とすることができる。

なぜ俺たちは、未だに人の目や意見を怖がるのだろう?
なぜ小さなことにリアクションを取って怒り、自分を守ろうとし、人を妬み、自分と人に嘘をつき、良く見せようとし、比べ、失うことを恐れ、働き過ぎ、同時にやらなくてはならない時に怠け、鬱になり、ストレスが溜まるのだろう?
その理由はただ一つ、福音が分かっていないのだ。神様の愛や恵みのデカさがわかっていないのだ。頭で理解しても、心で福音の素晴らしさを信じ神様に頼っていないからだ。要は信じていないのだ。分かっていたら、自分を必死に作り、自分の価値を世の中で見つけようとはしないだろう。

福音を自分の人生の中心とする言うことはこういうことだ。
福音の理解がすべての人生に影響し関わってくる。
それが仕事でも、結婚でも、友情や人間関係、そして教会というコミュニティーのあり方もだ。「自分の命をイエスと福音にあって捨てる」とは、自分の存在意義・価値をすべて福音のイエスの中で手放し、すべてをその基準から生きることだ。

みんなの存在意義と自分自身の価値はどこにあるだろう?

俺の思いは日本人を始め世界中の一人ひとりが福音を心底知り、そして変えられることだ。そこからすべてが変わっていくと信じている。

ではまた!

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